2013年6月23日日曜日

2012.10.11例会 福島県で体験した大震災~津波と原発事故の問題-遠藤雅彦さん

スピーカー 遠藤雅彦 関西県外避難者の会 福島フォーラム代表
日時・場所 2010年10月11日(木)18:30~20:30 大阪市立西区民センター第5会議室

津波から生き延びる
 その日いわき市の実家にいて地震を体験、津波の来るのを実見した。家は完全に流されその夜から避難生活となる。
14:46(地震発生)家を出ようとドアノブを掴んだ。ゴゴゴウ、ドドドウと大揺れ(3分10秒)、テレビはついた。大津波警報を見て避難準備(足の悪い母と寝たきりの祖父に車に乗るようにいう)曇った空の奥で雷がドンドンと鳴る。これを聞いて隣のおばちゃんが津波が来ると言った)
15:04砂浜に十字のひび割れができた。初めて見たので撮影する。
15:05(クルマで避難開始)地震発生から18~19分後。ほとんどの人が津波が来ると思っていない。従って渋滞なし。同じころ消防車とすれ違う。「避難してください」と呼びかけるが逃げる人は少ない。私はひたすら内陸部を目指して車を走らせる。
15:07・8(津波第一波来る)渡らなければならない大きな橋の手前200mで津波が川を遡上してきた。黒い水が電車のように突然バーッとあらわれた。車3台が飲み込まれる。母は言葉を失い祖父は頭を抱え込んだ。私はUターンして別の橋を渡る。
15:37・8(津波第二波)真っ黒な水が新幹線より早く駆け抜けていった。一波から二波の30分の間にピアノ教室の生徒の親は忘れ物を取りに行って行方不明。友人の父母は津波を見に行って流された。(当地方の第一波は1・2m、第2波は8・6m)
〇生き延びることができたのは地震、則避難と頭がぱっと切り替わったから。子どもの頃祖母が「何かあったら遠くへ逃げなさい」と言っていた。津波を見に行こうなどと思わないように教わっていた。
〇普通に逃げようと思っても支度に20分はかかる。避難を素早くやることは口で言うほど簡単ではない。
〇「助けて!」を発信できない。携帯電話のアンテナの鉄塔が流されてつながらない。陸の孤島化していて外から助けに来られない。
〇自分の住んでいるところからはいったいどんな被害があったのかわからない。東北全体は尚更。テレビも一部の映像を繰り返すことが多い。
〇消防署に電話して避難所がどこにあるか聞いたら「わからない。いま市内全部が混乱している。自分で探しなさい」と言われびっくりした。とんでもない巨大な津波が来てしまったのだとその時思った。

放射能から避難する
 近くの小学校の体育館で第一夜。母と祖父に暖を取らせるため親戚の家で二泊。14日の朝放射能が来ているから避難しようと友人から勧められた。友人は東電社員の家族が百キロ圏外へ出なさいと言われ、避難を始めているという情報を持っていた。それを聞き私もすぐ避難することを決めた。
 郡山で友人と合流して宇都宮、東京、大阪へと向かった。宇都宮で驚いたのは県境を過ぎると自販機で飲料を売っている。お弁当屋さんが普通に開いている。福島県内では飲み水も手に入らなかったから、運んであげたらみんな助かるのにと思ったが当時は無理だった。
 いわき市内はガスも止まっているから食べ物も温めたり加工して食べられない。そういう状況だったので、放射能のことを聞いて移動することになったわけです。たぶんここよりはましだろうと思って。
東京は計画停電をやっていた。食べ物は豊富なはずなのに買い占めが進んでなかなか買えない。そんなに買い占めなくても大丈夫なのに何でこんなことをしているのか不思議でした。
東京では百キロ圏避難の話が三百キロになっていた。根拠は原発4号機の未使用燃料が炉融したりすると東日本はダメになるからということです。祖父も母ももう疲れて動けないから暫く休んでいくというので、私が単身大阪へきて部屋を借りました。祖父は東京にいるとき具合が悪くなり母も看病のためいわきに一緒にいます。とりあえず離れ離れに住んでいる状況です。
大阪に来て津波や放射能のこと、家族の状態など関西の友人、先輩に話してみた。阪神大震災で被災した方は同じような気持ちを持っていただけるが、多くの人は実感が薄くどうとらえたらいいかわからないようで、リアリテイに欠けるとさかんに言われた。それで大阪に来て最初に思ったのは自分の津波体験を伝えていこうということでした。

避難者の会を始める
そうこうしているうちにツイッターなどで被災者の方と繋がりができた。しかし個人情報保護の問題があって、避難者がどこにいるかわからない。少しでも居場所が分かるようにしようと避難者の会を立ち上げた。
問題は山積している。例えば被曝した人を診てくれる医者、甲状腺や血液の検査をしてくれる病院が少ないのでそれを開拓する活動。一方診てもらいたい人も自主避難で、放射能被害も確かにあるかどうかわからない場合、公共の施設に話しにくいという問題。
避難者への公共住宅の提供は1年間から2年間に延長され、京都、滋賀、兵庫では3年間になったけれど大阪は2年のまま。加えて個人情報保護の問題。法律があるので避難者が支援者になかなか出会えない。あるいは地域の方が避難者に触れ合うことができづらくなっている。
例えば豊中市は積極的に動いているから避難してきた60名の方の現状を把握している。ところが大阪市の場合は千人以上の避難者がいるからそれを細かくフォローするのは到底難しいという状況の中で対策している。全国には福島県だけで12万人の避難者の方がいるからその把握も急がなければいけない。私はまだ試行錯誤しながらやっている状況です。今後いろんなところで活動して避難者の方とつながっていけたらいいなと思っています。

学んだこと、感じたこと
〇「とにかく避難しろ」という幼馴染のひと言
これまでは政府や行政など顔の見えない人の情報を信じてしまいがちだったが、幼馴染の友人が心配して言ってくれた言葉を疑いもせず避難を始めた。心配して言ってくれている言葉なので疑う必要はなかった、好意を届ける人間関係がお互いを助けることを学んだ。
〇「避難しない」という中央卸売市場の社長のこと
東京電力の社員の家族が逃げていると、避難を勧めた友人に対し社長は「卸売市場が止まると地元のスーパーも止まってしまう。避難したらみんなが飢えてしまうから自分は残って仕事をする。これが自分が決めた人生だから」と答えたという。
〇浮浪者扱いされて気が付いた
大阪に着いたときは途中で買ったスウエットの上下と持ち出したジャケット一枚。酷い恰好だったので日雇い労働者のようなあるいは浮浪者扱いを受けてしまったんですね。5日前までは普通の生活をしていたのですが。それで街のネオンはキラキラ輝いていて、なんか嘘みたいな世界に来たなと思ったのですが、それが震災というもので。きちんと説明すれば被災者だということが分かったのですが、西日本では想像もつかないこと起こっていたんだなということを身をもって体験したんですね。

(後記)
放射能や放射線量は日時や場所により変動する。人体に及ぼす影響についても見解は一様でない。またそれぞれの価値観にも左右される。遠藤さんは上記のほか放射能、放射線量のことも話されているが、要約で短く正確にお伝えすることは困難と判断し、殆んど割愛させていただきました。


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