2013年1月11日金曜日

2012.9.11例会 福島で会った人びと-阿部健さん


スピーカー  阿部健  酒文化活動家・関西YMSネット
日時・場所 2012年9月11日(火)18:30~20:30 大阪中央公会堂



8月1日から4日まで福島に行ってきた。ずっと行きたいと考えていたが今回思い切って行ってよかったと思う。福島に行ったのは3・11で一番酷い目に遭ったのは福島であり、福島の問題は他人ごととは思えなかったからだ。
一人で行ったのは日程もコースも自由に決められるし身軽に動けるから。ただ連日35度を超えていたので熱中症だけは用心した。
福島は土地勘もなく知り合いもいない。初めの2日間は福島の「絆新聞」の記事を頼りに動いた。新聞には原発事故のため浪江町、双葉町、大熊町、飯館村などから郡山、会津若松、二本松、福島などへ避難した人びとを写真入りで紹介していた。その中から飲食や小売りなど商売をしている方を10人ほど選んで訪問した。以下2・3紹介したい。

〇椏久里珈琲さん(飯館村から福島市へ)

店は洒落たセンスのゆったりと古風な雰囲気。かつての蚕室を改造したという。店主の市澤さんは震災後取材がムチャクチャ多かったが漸く一段落したと語る。私は知らなかったが飯館村の椏久里といえば超有名店。お客様の1割は飯館村、5~6割は福島、伊達、相馬などの20キロ圏、残りは100キロ圏、東京からの日帰りの客もあるという。
阿部「落ち着いた、感じの良いお店ですね」
市澤「お客さんにゆっくりお喋りしてもらえるのが一番です。しかし店はやっているけど自分の舞台がなくなった」
阿部「というと・・・」
市澤「自分は農家の二男坊だから根っこを張らないと(ダメなんです。ところがケーキ用の)ブルーベリを作っていた2町歩の農園が全部なくなった」
市澤さんは新しい土地で再びブルーベリの栽培を始めている。当分福島と飯館と2つの拠点を持って経過観察を続けるという。別れ際にお願いしたサイン帳には次のように書かれていた
「あらためて夢探し 椏久里珈琲 市島秀耕」

〇杉乃家さん(浪江町椏から二本松市へ)

浪江町の名物は焼きそばである。うどんのように太い麺。もやしと豚肉をたっぷり使い甘辛いソースをしっかりからめる。ビールを飲みながら食べておいしく量的にも満足する。
杉乃家さんは浪江焼きそばを中心に二本松駅前で営業を再開した。店主の芹川輝男さんに伺った。
阿部「絆しんぶんによると再開するかどうか迷われたそうですが」
芹川「やってよかったと思う。避難しているだけではダメ。浪江には帰れそうにないけど、避難意識でなくそこで仕事を一生懸命やることだと思う」
たまたま川内村の高校生が8人来店し浪江焼きそばの作り方を店主に尋ねていた。文化祭の屋台で実演するという。芹沢さんは彼らにも「そこで生活していることが一番大切」と語りかけていた。
芹川さんの長女は一家5人で埼玉の借り上げ住宅に移住した。当面福島へは戻らないという。芹川ファミリーはそれぞれの事情により違う場所で生活と仕事を続けている。

日程の後半2日間は竹内容堂さん(ホワイト・レイブン代表)の案内で相馬、南相馬を広く探訪した。そこでは30代のさまざまの活動家にお会いした。その中には地元の人も長期ボランテイアの人もいる。前者は飲食店経営の人が、後者はイベント関係の人が多く見られた。かれらの活動をいくつか紹介する。(「 」の事項はインターネットで紹介されている)

〇須藤さん、押田さん、竹内さん、酒井さん

居酒屋経営の須藤栄治さんは南相馬で「みんな共和国」の活動―私が訪問したときは高見公園で、夏休みの子供たちを思いっきり遊ばせるイベントをやっていたーに取り組んでいる。彼は震災後まもなく“ありがとうから始めよう”という運動を4・5人で始めた。“クレームを言うのはいいが(それだけでは)子供がかわいそう”と考え親たちにも行政に対してもさまざま働きかけている。
壁は厚いが自分たちの主張を世界に発信し、結果で説得したいと静かに語る。
 押田一秀さんと竹内容堂さんはボランテイアに来てそのまま居つくように活動を続けている。押田さんは「相馬はらがま朝市」の中心人物として活躍し、その一方では漁業で使えなくなった港湾を海運に使えないかと思いを巡らす。
竹内さんは「ホワイト・レイブン」を母体に他の団体と提携し、農業再生、南相馬の除染、放射能測定、県外への避難者支援など多彩な活動をしているようだ。2人とも避難者が戻っても仕事がないという現状を変えようとしている。
その“変える”をキイワードに酒井ほずみさんは「相馬かえる新聞」を発行した。創刊号では子どもの未来を守るために“私たちの生き方を変える”“町をゲンキに変える”と宣言している。
隔月刊タブロイド版の紙面では相馬地方の人びとの願いや悩みや葛藤を丁寧に取り上げる。また日常の必要を満たす記事―例えば被ばく量を増やさない生活の知識、測定器の貸し出しや検査、住民向けの各種催事などーは平易でわかりやすい。この新聞は震災が生んだ優れたコミュニテイ・ペーパーだと思う。
ここでサイン帳に書かれた言葉を紹介したい。
「与えられる時代から与える時代へ       須藤栄治」
「全ては自分の中にある            竹内容堂」
「変わればいいな・・じゃなくて、カエル!   酒井ほずみ」


最後に福島へ行って何を感じたかを2・3お話したい。
先ず第1に、ハナシは細かくしていかないとハナシにならないということを強く感じた。例えば放射線量が何月何日の何時にどこで毎時何マイクロシーベルトというデータがある。しかしそこに住む人にとっては自宅まわり、子供の通学路、勤めや買い物への道筋、駅やバス停、駐車場、公園、病院、市役所、銀行、会社、スーパーなどなどの放射線量を知って初めて自分の行動の参考にすることができる。
となるとモニタリングポスト数か所ではなく例えば500mメッシュで、南相馬500か所くらいのデータがあれば、健康への影響や移住や避難についてももう少し共通の土俵で考えたり話し合ったりできるのではないだろうか。大雑把な話はすぐ行き詰る。思考停止につながりやすいと感じた。
次に食べるか食べないかについても自分の基準がいるということ。これは本を読んで思ったことである。
今後の生活環境については「われわれは低レベルの放射能の中で生活するしかない」(鎌田実)、あるいは「汚染の中でどう生きていくか」(河田昌東)と考えざるを得ない。となると食品についても様々な情報を参照しつつも最後は自分の判断で決めることになる。
詳細は略すがこのことは“避難するかしないか“や(子供の)”心の安心かそれとも身の危険のどちらを取るか“などの問題にも通じる。
最後は自分の感覚的許容範囲を広げること。世の中は差を作ったり、白黒つけたり、従って対立したり、いがみ合ったり、他人を叩いたりする方向へ動いている。この動きを少しでも緩和するには自分の感覚を鈍らせる。たとえば避難所では身と身を接する環境である。これをキモチワルイと嫌悪するか、シカタナイと許容するか。
許容できずに離れてしまえばいわゆる話し合いは成立しない。というわけで話し合いに先立つ“同類意識”を広げないといろいろな問題解決も難しいなと感じたことである。
                          

2012.8.11 例会 「住む場」を求めて/岩手、福島そして豊中-寺川政司さん


スピーカー 寺川政司   畿大学建築学部建築学科 地域マネジメント研究室
             一般社団法人 コミュニティマネジメント協会 副会長
             ○2011年5月から岩手県大槌プロジェクト事業に携わる

日時・場所 2012年8月11日(土)18時~20時 関西文化サロン
 

-岩手大槌町プロジェクトについて-

人が集まれる場所を作ることが大切です。本格的な場所を。地域に対し、協力してくれる企業や高校生に手伝ってもらうことによって、地域で何かを作るということが出来る。
今回のケースではサロンを開業してお茶会や体験教室をしますというチラシを作って配ります。最初は小さいユニットから始めて、途中で増築をしようかという意見が出ました。結果的に人が繋がる居場所になったので、これは地域の方が頑張った成果じゃないかと思います。また、イベントでは参加者を募ってフラガールを披露したり、この場所で社交ダンスを踊ったり、孫を呼んでイベントに参加したりしました。被災してしまうと会う場所がないので、(仮設では中々会う機会がないので)そんな機会を作るべく「集い」という名でNPO法人を今後作る予定です。



-豊中のプロジェクトについて-

福島から近畿に被災して来た人は色々な問題を抱えています。精神的にも大変なことになっています。具体的には家族のことや仕事のことです。被災者はいつ戻ってくるんだ?戻ったとしても今度は福島が受け入れてくれるかどうか?(放射能の関係も含む)当時の居場所がその時はないということです。戻るか、戻れるか。今出ている情報を信じて良いのか。かといって福島を捨てたのかと言われるのも辛い。そのためにも私達は街を再生するために動きます。被災された方々が戻りやすいように。
福島の街には仮設住宅がたくさんあります。そしてそこには子供がたくさんいます。そんな中で私達に何が出来るかを考えた時、こんなプロジェクトを考案しました。失業された方に対し、就労子育て支援付き仮設住宅の提供です。これには豊中と福島の連携の強化がとても大切で、条件によっては、支援をする、されるの関係になります。そうすると、支援をされる側は最初は良いが、時間が経つとしんどくなりますので、支援をする、されることに対しての排除を目指します。このプロジェクトの受け入れ先として、母子家庭で県外避難を希望する方、介護や子育てに対してスキルのある方、福島の街を再生したいと考えている方等が対象になると考えています。まずは豊中に来てもらい、雇用を作り生活をしてもらいます。
これの一つの例として豊中の庄内の話があります。そこに一つ拠点がありますので、そこを利用するようにします。ここは被災者だけが使うのではなく、この辺りに住む皆が集まれるスペース作りの場として使用します。実際今は福島から来た女性が住んでいます。
次に、今仮設住宅に住んでいる方々が冬・夏になった時に過ごしにくくなることが想定され、その時にどうするかが問題となっています。街を再生するためにいかに住民が参加出来るか、そこをサポート出来る体制作りが大切になるでしょう。また、新たな雇用作りを街として出来るかどうか大切です。
話は変わりまして、将来、数年のうちに南海地震がくると言われています。そこで街同士の良い関係作が大切になってきています。支援をする、されるという関係ではなく、お互い一緒に高めていく関係の構築が求められます。第二の故郷作りといったものでしょう。そして豊中に来た被災者が安心して過ごしていけるように、体制作りが柔軟に出来るかどうかが今後大切になるでしょう。


-質疑から-

働くという点において、被災されている方は子育てがあるので、中々仕事と家庭との時間を取れないという問題がある。実際、被災せずに仮設住宅を案内された場合、従来の場所とは離れて山側といった駅から遠い不便な場所に案内され、変更することは出来ないのが現状です。駅に出るのにバスで片道1,000円かかるなど、余計に生活費が苦しくなることもあります。

被災者向けにマンションを持っている人が一時的にここに住まないかという声がけがあります。行政機能を絡めずにオーナーと被災者との関係なので早く動けるし、オーナーからすると空室もなくなるので、今回、一つのモデルケースとして紹介しておきます。

 私はキーワードとして「居場所」と言う言葉を考えています。住む場所において、田舎と都会では全く異なります。都会で居場所を作るのは難しく、「集まりましょう。」と声をかけても中々集まらないのが現状です。実際のモデルケースでは、行かなくてはならない場所に「集まれる居場所を作る」のが良いと考え、作っています。鍼灸院にそれを作りました。このように、本来組み合わさることがないような組み合わせが意外と良い結果を生みました。

福島の放射能の問題で、自分が福島出身であることを言いたくないという人がいることが問題となっています。実際のケースで、被災されている方が福島ナンバーの車でガソリンスタンドに行くと入庫を拒否されてしまいました。また、子供に福島の出身であることを言わさないよう言いつけていること。また、親としてそんな福島から来た子供と自分の子供とは遊ばせないよう言って聞かせていると言っています。このことを聞いて広島の方達が「福島の人は私達と同じような経験をされるでしょう。50年経って私達はようやく多くのことを言えるようになった。」と言っています。そこに支援の難しさを感じました。実際、たくさんの情報が世間に流されており、どれが正しい情報で、どれが正しくない情報なのか、困惑しています。そんな噂や先入観で物事を決め付けず、直接被災された方々と話をすることが大切と考えます。そのためには居場所やコミュニティーを作ることが重要なんじゃないかなと私は考えます。