2013年6月24日月曜日

2013.1.11例会 石巻で聞いた「3・11」の訴え-鈴木知英子さん

スピーカー 鈴木知英子  かしば女性会議代表
日時・場所 2013111日(金)大阪市立中央公会堂第6会議室

石巻へ行ったわけ
昨年3月11日大阪の追悼の会に出席し大勢の方とご縁ができました。奈良県のかしば女性会議は20年来日本女性会議の総会に参加しており、今年の開催地仙台には7人の仲間がいくことになりました。折角行くのだから被災地の復興の状況を見てきたいという声が上がり事務局と相談しました。だが日程、コースの調整がつかず結局去年の追悼会でお話になった萱場裕子さんのことを思い出し、ネットで調べたところ幸い萱場さんと連絡が取れました。どうぞ来てくださいということでとんとん拍子に話が決まり10月25日に石巻に行ってきました。
 萱場さんのおられる石巻復興支援ネットワークは市役所のすぐ近くです。小さな雑然とした事務所をやっと探し当て4階へあがって行ったら萱場さんが入口で待っておられました。ばあああっと抱きついて熱いハグしてくれました。あんなハグはアメリカへ行ったとき以来です。だが空模様が怪しく雨に降りそうなので椅子に座ったりトイレに行くまもなく出発です。8人乗りの車で萱場さんがドライバー兼ガイドでいろんなその日のお話をしてくださいまた。それからの1時間余りは皆々ガツンと頭を打たれっぱなしでした。

門脇小と大川小
 至るところ荒廃した空地です。田も畑も家も全部流れてしまった。しかし雑草は強いですよ、と萱場さん。言葉通りあちらこちらに雑草が逞しく伸びていました。やがてテレビにも度々映った門脇小学校。右半分は火災で焼け落ち左半分は津波で壊され何もない。ここの生徒300人は先生の誘導で裏山に避難して無事でした。ただいつもの訓練通り親御さんの迎えを待っていた子どもは犠牲になった。傷ましいことです。校舎には大きな横断
幕に「門小ガッツ 僕らは負けない」の文字が躍っていた。皆思わず拍手しました。
 一方北上川の河口から5キロの大川小学校。まさかここまで津波が来るとは思わなかった。しかし運動場で点呼している最中に津波が来た。たちまち校舎と生徒は呑み込まれた。108人の生徒中無事だったのは31人。11人の先生で助かったのは1人だけ。2日後仙台で大川小に子供を行かせていた母親の話を聞きました。「学校は孤立したが子供たちは大丈夫と聞いた。私は長女のミク6年生と長男のタクミ3年生が翌日には戻ると思っていました。寒い夜でした。停電の中眠れぬまま朝を迎えました。だが翌日から子供たちの遺体が見つかり始めました。やがて山のほうでミクが校内でタクミがも見つかりました。8日は卒後式。袖を通さぬ中学の制服だけが高台の自宅に残っています」
 門脇小の生徒が避難した日和山で萱場さんのお話。「ここで親と子が抱き合って喜んでいる姿。“無事でよかったなあ”と言っているその横で“もっとしっかりあの子の手を握っていればよかった”と泣き崩れるお母さんの慟哭の声が耳から離れることはなかった。あちらこちらに辛い悲しい場所はあるけれど、ここが一番つらい場所です」と言われました。

1年7か月経っても
まるで堤防のように高く積み上げられた瓦礫の山。この高校はスポーツの盛んな学校ですが運動場は瓦礫というより粗大ごみの山です。学校は再開され子どもたちはここへ通っています。通り道だけはありますが、これでは使いようがありません。1年7か月の間どうして処理できなかったのか何べんも思いますね。日本中の都道府県がうちは引き受けるとか引き受けないとか口で言っているだけでは瓦礫はなくなりません。
 次に萱場さんのご自宅と工場跡を案内していただきました。「これが私の家と工場です」と、さらっと言われました。再建費用は全部で9000万ほど。三分の二は完成後補助が出るが3000万は自己資金ということです、まだ鉄骨のままで復旧のメド全然立っていない。でもこういう話を私たちにしてくださる勇気というか力強さに心を打たれました。 荒れ地の中に「頑張れ 石巻」と書いた看板が見えます。あの日から花が絶えたことがないと聞きました。初めのころはこの前で2日も3日もじっと座ったまま手を合わせて、膝まづいたままの方が何人もおられた。ここでドイツの虚無僧の方が長い間尺八を吹いてくださったそうです。ウベ・ワルターさん。去年大阪の追悼会で私もお話と尺八を聞かせていただきました。ちょうど今回もじっと手を合わせていらっしゃる男性の背中を見ました。身じろぎもしないその姿を見てまずい俳句を作りました。
 寒風に 立ち尽くす背よ 誰を悼むか           知英子
 詫びか 悔いか 誓いか 「3・11」というさだめ    知英子

私に何ができますか?
お土産に布巾を持参しました。かやで作った奈良布巾といって有名なんです。タオルは支援物資で来るかと思いますが、女の人たちはいっぺん新しいお布巾でお茶碗を拭いてみたいんじゃないだろうかと思いました。それと縁起の良いフクロウの袋に支援金を入れてお渡ししてきました。石巻へ行くと決まった日からどこへ行くにもこの袋をぶら下げて寄付をお願いしました。入れたおカネは出せないし袋ごと渡したのでわかりませんがあとで「たくさんいただきました」お礼を言われました。
 仙台で開かれた日本女性会議では「女性たちが語る3・11 これまでと今と」というシンポジュームがありました。ここでは「みんなが自分の身の丈に合ったことをやっていきましょう」という訴えに共感しました。また「仙たくネット」というグループのボランテイア活動が心に残りました。被災地を車で回り女性から汚れたものを預かってきれいに洗濯してお返しする、洗濯代行の仕事です。水は貴重品だし、洗濯機もなかったから初めは恥ずかしいと言っていた人もだんだん、助かりますと喜んで預けてくださるようになったそうです。
 わたし、小さいことしかできないと思うのですよ。大きいことをしたいと思ってもできない。それで盃にいっぱいのことしかできないんだったら、この盃一杯を大海へ注いでも何にもならない。小さい受け皿のところへ持って行ったらいいのではないかと思いました。 私になにができますかって。石巻でも仙台でも忘れないでくださいという方が多かった。だから私に何ができるかな、と考えることが「忘れない」ということに繋がるのではないか。そしたら何ができるか考える時に、大きなことはあかん。小さいことでよいから何ができるか考えることで、忘れない気持ちが続くと思ったのです。
 被災地で私が一番気になっているのが仮設住宅。中には入らなかったけれど敷居は低い、寒いですやろ。そんなところでこのアクリルたわしを編んでいる人たちです。私はこのお年寄りたちに生きがいをプレンゼントできへんやろか、と思ったんです。萱場さんとこのネットワークと話しながら、アクリルたわしを編んでもらいましょ。アクリルなら洗剤もいらへん、川もよごさへん。それで1人か2人か手仕事してもらえる。お小遣いがもらえる。川が汚れへん。これひょっとしたらいいことづくめの連鎖でないかなと。それでこの間120玉のアクリルの毛糸を送ったんです。ありがたいことに私でもし受けきれなかったらそれを小さい所へ持っていく。忘れないということは、何をしたらいいかなということをずっと考えていたらよいなと思うんです。

(後記)
〇鈴木さんは戦争体験を語り継ぐ活動もされています。そのためご自身の戦争体験を「私の戦争は終わらない」という小冊子にまとめ自費出版された。上のアクリルたわしの手間賃は小冊子の読者から寄せられたカンパをそっくりあてておられる。

(スピーカーの追記)
〇アクリルたわしは17人の方が2回に分けて510個を送ってくださいました。1個200円の手間賃10万円余を送りました。1人ならとても無理な金額ですが、本を買ってくださった方、たわしにカンパしてくださった方のおかげです。中には1人50個60個と協力してくださう方もありました。1人6千円は僅かかもしれませんが、みんなで仕事することは楽しいと喜んでいただけ私もうれしいです。「石巻の話を」との依頼が増え、頂いた謝金も全部たわしに充てています。残念なことに先方のネットワークがハートブローチの制作終了に伴い集まることがなくなったとのこと。この後どんな形で繋がっていけるか「石巻復興支援ネットワーク」の方と相談中です。

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