2013年8月15日木曜日

2013.4.11例会 過去にしてはいけない・・・フクシマへの思いと関西からの行動―木幡智恵子さん

スピーカー 木幡智恵子  南相馬市→三木市在住 おひさまカフェ代表
日時・場所 2013年4月11日(水)大阪市立中央公会堂第6会議室

福島県南相馬市から主人と現在5歳になる娘と3歳の息子、4人で201159日に三木市に避難してきました。震災前までは家族4人での毎日が楽しい生活でした。

311日 富岡町
私は食材宅配の「ヨシケイ」で働いていました。南相馬市から1時間位の富岡町で、
いつも通りに配達してもう少しで終わるなという時に、携帯のすごい甲高い音に「あれ!」と思って車から降り道路の真ん中にいたらみるみるうちに立っていられないくらいになんともいえない、横揺れなんだか縦揺れなんだかすごい地震に襲われてちょっと静かになってきたかなと思ったら、又大きくなってくるんです。それが3回位続きました。そのうちにすごい大っきな雪、東北ではボタ雪ていうんですけど、降り注いできました。
会社とやっと連絡がとれ帰るように言われ、富岡から大熊町、双葉町、浪江町と通って行き、双葉町で8時位だと思いますが、あまりにも渋滞で動かないし車を止めて外にでて、身体を動かすんですよ、その時に、防災無線でなぜか「放射能が漏れる恐れがあるのでなるべく外に出ないで下さい」というのが延々と流れ続けたんです。「はいっ、何それ!」ラジオ聞いてるけどラジオではそんな話ないし、携帯でテレビ見ているけどそんな話はしてません。ずっと防災無線が流れてました、でもみんなそれどこれではないんですよ、帰るのに必死で。
その日は茶の間で布団を引いて子ども達を寝かせて朝までテレビをつけて観ていたんですけど、テレビで「原発が停まっていますが大丈夫です」って枝野さんが言い続いけていました、ほんとに大丈夫なんだろうか不安があったんですけど、朝になればわかるだろうと、余震続きでいつでも逃げれる状態にして、朝までずっと起きてました。

312日  二本松の実家に避難
翌日は会社に車を返して家に戻ると、大きい津波が来るから逃げろという防災車が走り、知り合いの家に避難させてもらいました。3時位にみんなでテレビを観ていた時に、「どかんっ」爆発したのを見、あー終わってしまったな・・・ていうみんなため息、あの原発をナマ中継で観た時にため息しか出なくって、なんか、どないしようっとかではないんですね「終わったね」というその言葉しかなくって。それから二本松の実家に避難しました。実家は8人家族私たち含めて12人です。それからは外に出ず家の中にいて、テレビは震災のことしかしていない、子ども達は小さいので自分たちが観たいまんがとかやっていない、天気が良いのに外に出れない、ストレスがたまって子ども同士の喧嘩が絶えなかった、夜泣きはするし。何ともいえない大人たちのピリピリ感・・・大人たちもストレスがあったし、毎日観るのは原発の報道、震災の話、「なんなんだろう!」て。私たちはどうしたらいいの。政府や東電は安全ですってしかいわないしなにが安全なん?東京におってなにが安全なん?放射能のある場所にいないだろうって思いました。
それからまた3号機が爆発「あれは核爆発だよな、テレビで水素爆発だと言ってたけど、3号機はあればどうみてもきのこ雲だよね」って話をして、家族会議をしました。ここにいてはいけない、今のうちに逃げよう避難しようということになり、私たちの家族は東京に行くと決めました。ここで仕事があるお父さんと妹と弟は残るというのでお母さんも残ることになり、1号機も3号機も爆発して2号機も4号機もあと爆発して、もう会えないんじゃないかって気持になって、私も出たくないっていったんですけど、「子ども達のために避難しなさい」て言われ、その日一日泣いてました。

東京→神奈川→静岡→三重→浜松 転々とホテル住まい
東京で知人宅を23日転々として、神奈川に行って神奈川から静岡行って静岡から名古屋行って名古屋から三重まで行って、そこを何泊かしながらホテル住まい延々と。でも離れて行けば行くほど福島の情報がなくなっていく。静岡が丁度いい場所だったんで浜松市に行きました。浜松市役所に避難者を受けいれていないか聞くと、原発の警戒区域から20km以内じゃなかった、2030kmだったんで該当しません。家が津波で流されたり地震で壊されてた訳でもないから証明がない、門前払いです。
それから本格的に福島から出ると決め、一旦福島に戻ることにしました。放射能がある福島、やっぱり帰りずらくて、行くのが嫌で福島という土地に入るのが嫌で。そこから延々と何泊かしながら埼玉行ったり栃木行ったりしながらそのうち主人が体調をこわし、福島に帰って家で休まないとと、4月に帰りました。帰った時に誰もいないんですよ、車で走ってても誰ともすれ違わない。強盗が多いというのを聞いてたんで、枕もとにバットをおいて、ちょっとの物音で起きるんです。ちょっとの物音で起きるのと余震も続くし、生きた心地がしなくて。ネットで避難先を探すんですけど案の定受け入れてもらえなくて。あきらめかけた時に20-30km圏内は緊急時避難準備区域にしますて国が定めたんです。そのとたん今まで断ってきたところが受け入れ始めたんです。なに!その時はラッキーとしか思わなかったんですが、後で考えたら怒りです。
三木市に避難先が決まり実家に報告に行きました。子ども達が病気になってはいけないから避難するって言いました。お父さんは「これから復興していくのに持ち家もあるし仕事もあるしいなさい」て言うんです。復興でなくて私は子どもたちと言っているのに、全然わかってくれない、結局解りあえないまま福島を出ました。ただ実家の言い分もわかります確かに復興していくんです、でも子どもの健康を考えることが一番だと思うんです。

三木市の生活
三木市に5月9日に入りました。住宅の家賃は5年間無料で住めるようにしてくれ、保育も優先的に入れてもらい、主人は7月末に仕事をみつけて正社員で働き始めました。私は次の年の4月から市役所で震災枠で受け入れてもらって仕事させてもらってます。ただ周り近所、地元の人たちとの接点がなかった、関東方面での福島に対する色んな話を聞いて、車で出かけるのも嫌だったし福島から避難してきたとは絶対言えなかったし、なるべく地元の人と関わりをもたないように生活をしていました。そんな折隣の人が私たちが福島から避難してきたのがわかってからすごくよくしてくれるんです、それで安心しました。買物に行って福島ナンバーの車をみて寄ってきたおっちゃんが「福島からきたん?」「知り合いだれかおるん?」「頑張れよ」て言ってくれました。関西の人は違う、すごい暖かいて思って。それから自分の福島ナンバーの車でどこでも出かけたし、接点がみつかるとほんとは福島から避難しているんですと言うようにして、いろいろ交流をしてきました。
私が体調をくずして病院に行った事がきっかけで、地元の人が子ども達をみてくれるボランティアの“ファミサポ”というのがあるよと教えてくれ、初めて社協に登録しました。「ファミサポに登録している人もう一人います」て言われたんです。千葉からの自主避難の人だったんですね。その人とつながりを持たして欲しいと頼みました。三木市のカフェでお茶してその人の話を聞きました。その人は今いるところの家賃も払っているし、旦那は千葉に残って仕事しているし家は建てたばかりでローンも残っているし子ども達は保育園と幼稚園と小学校、二重生活だって言ってました。その時自分は紙を持ってて無料で今の住宅にいて保育園無料にしてもらっているのを言えなくて、「そうなんだ大変だね、うちも大変なんだ」て。その話を聞いてから、なんで紙1枚の差でそんな温度差があるのと。
それから兵庫県に電話して千人いるという避難者を一同に集めてほしいと要請しました。するとその話が県から三木市にいって三木市から社協にいき、社協が震災から1年経った311日ちょうど日曜日、避難者の集まり会を開催されました。

避難者の声を届けたい
そこから毎月集まるようになって、東京、千葉、郡山からの避難者など自主避難の人も増えて来ました。これからは自主避難、母子避難している人を助けないといけないよねって話を集まる度にするようになったんです。なんとか国まで自分たちの思いを届けようと、『おひさまカフェ』を去年の9月に起ちあげました。しかしなかなか出て来てくれない避難者がいっぱいいます。どんなにがんばってもコアメンバーが10人位、登録メンバーが30人いるかいないか、まず兵庫県内のつながりを作らないとけないと、三木市内でやっていたのを、明石、加古川、高砂、北播磨、東播磨や近辺の市町村を借りて移動式のおひさまカフェにしたり毎月いろんな場所でやるんですが、やっぱりなかなか出て来てくれない。
去年6月に、『原子力子ども・被災者支援法』が法律で定められたんですが、いまだに予算がついていない、内容も全然決まっていない。ちょうどいい時期だって弁護士さんが言ってくれて、予算をつけるとか法律ができる前にいままで出してきたことを政府に送りましょうと。2月に法律の勉強会を企画し兵庫県の避難者に送ったんですけどやっぱり集まったのは30人位、初めての人も何人かいたんですけど、それでもその法律を聞いて10人位のグループ作って話をし、それを弁護士さんがまとめてくれ3月末に郵送してもらった。
避難者当事者が話をしないと、どうして欲しいとか言わないと誰もわからないじゃないですかと私は思うんです。避難して来たからこそ今してほしい事を、今後これからして欲しい事を、自分たちの声として出して行かないとけないと。


2013.3.11例会 心をいやすハンドケアの力と音楽の力-藤崎恵子さん

スピーカー 藤崎恵子  吹田市在住 心理カウンセラー
日時・場所 2013年3月11日(月)大阪市立総合生涯学習センター第2研修


今日は、3月11日。ちょうど2年前のこの日に震災が起こり、その同じ日に私が被災地での経験をお話するということに、重みというか使命感のようなものを感じています。被災地で出会った多くの方の思いを、しっかし伝えなければという責任感もあります。私がお話しできるのは、甚大で広域な被害のごくごく一部の、実際に見て聞いたものしか話せませんが、皆さんに被災地の実情やそこに住む方の思いが少しでも伝わればと思います。

初めて被災地へいったのは、2011年5月12日から15日まで。“ハーティ”というカウンセリングに関する講座をするNPOの代表者が石巻のボランティアセンターに「何かできることはないでしょうか」とメールをおくったのが、きっかけです。同市の中屋敷というところに“コミュニティカフェ”を立ち上げたいので、来てほしいと言われ、5人のメンバーで行きました。

震災後二ヶ月を経過したとは言え、あまりの被害の大きさにまだまだ手付かずの場所が多く、インフラもまだ、ガレキはそのまま、何とも形容しがたい生臭い刺激臭と埃がひどく、被災状況のあまりの生々しさに唖然としました。港に立ち並ぶ水産加工工場から大量の魚が流れ出て、製紙工場の化学薬品が流出し、乾いたヘドロの粉塵やアスファルトが剥がれてしまった道路の土埃、破壊された建造物からはアスベストが舞い散っているかもしれない。そんな場所で無防備に作業したり、怪我をしたら病気になりかねないと、ボランティア会議の場では度々厳重なマスクのつけ方の講義がり、野外作業する人に対しては破傷風の注射をするよう指導があった時期です。この状況は、秋まで続き、暑くなるにつれ震災バエと言われる巨大なハエが大量に発生し、ハエ取りのアイデアが情報として配られていました。

中屋敷に到着した私たちは、カフェに提供してくれることになった工務店の倉庫の一階を掃除し、必要な物資を調達しコミュニティカフェを始めました。沿岸部は壊滅的な被害を受けていましたが、少し内陸部に入るとイオンなどの大手スーパーが営業を再開していたので、物資の調達には困りませんでした。中屋敷というところは、津波が家の二階近くまで来て、流された住宅も多く、人の集まる場所もなくなっていました。避難所にいればある程度情報や物資が得られるのですが、このような在宅避難されておられる方の多い地域では、町内会などのつながりが絶たれてしまった場合、救援の情報が届きにくく取り残されてしまいがちです。住民の方が集まり、近況や安否を伝え合ったり、情報を交換したり、ちょっとした話ができるような場が必要でした。そのために、お茶でも飲みながらくつろげる場所とコミュニティスペースを兼ねた、“コミュニティカフェ”の開設が求められたのです。

その石巻でボランティア団体を統括していたのが石巻専修大学に間借りしていた「石巻災害復興支援協議会」(現在改称して一般社団法人「みらいサポート石巻」)です。当時、石巻専修大学が石巻でのボランティアの拠点になり、社会福祉協議会のボランティアセンターも同じく間借りしており、大学校内の運動場はボランティアのテント村になり、全国からくるボランティアの拠点になっていました。石巻災害復興支援協議会では、ボランティア団体を、民間、企業、行政の別なく、マンパワーや資材・機材、活動期間など実際に何ができるのかを提供しあった中で連携を図る機関です。石巻でボランティアするほとんどの団体が参加しており、その数は延べ341団体にのぼっていました。

毎晩それぞれの活動を終えたボランティア団体の代表が集まり、互いに活動の報告をし、情報を共有し、連携できるところは助け合い、明日からの活動に繋いでいきました。熱い議論のあと、最後に『お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします』と言って、疲れを労い、明日への気持ちを奮い立たせ、各自の活動場所に戻る、というようなことを毎晩やっていました。

私たちは、NPOハーティの活動趣旨である心のケアをしようと思い、カフェの運営とともに行う、と思っていたのですが、カフェは形ができたら後は地元の人で運営するので必要ないことがわかりました。しかも、当時は、心のケアより身体のケア、心のケアより身の回りを整えたりすることが第一でした。また、心のケアと称して、あれこれ震災時の様子を聞き出し、心をかき乱し震災時のパニック症状を再び引き起こした挙句、時間だから帰る、もう来ません、という自称?カウンセラーもいたらしく、“心のケアお断り”というところもあり、警戒されていました。まだまだ話せるような状況ではなく、この時期に傾聴なんてもっての外。圧倒的に人手が足りなく、来てもらえるのは有難いから、もっと実質的に役立つようなことをしてほしいと言われました。

それでは、私たちは一体何ができるのだろうか。私は今後のハーティの活動の打ち合わせをするために、一人で再び石巻に向かい、石巻の近隣の被災地の視察を行うことになりました。石巻、女川、雄勝、牡鹿、それぞれに言葉で表せないような衝撃的な光景が広がっています。道路もズタズタのままです。地盤沈下で半分海に水没したような道路を通りながら、震源地に最も近い牡鹿半島鮎川のボランティア基地を尋ねたとき「被災された皆さんは、今は心のケアより身体のケアを求めておられるのですよ。何かできませんか?」と言われました。身体はボロボロ。同じく心も深く傷ついている。被災された方は心身ともにストレスを感じていらっしゃるのは明らかなので、”心にふれる“ことなくその方の”心の安全“を保ちながら、身体の心地よさから、心の癒しに繋がるものはないんだろうか、と考えました。

それでは何ができるのか?整体やマッサージは無理。そこでアロマオイルを使ったハンドケアを思いつきました。前回の訪問の時、仲間の一人がアロマオイルを持ってきていて、カフェでハンドマッサージをしていたことを思い出し、少し知識もあったのでハンドケアなら私たちにもできる。これを私たちの活動の主軸にしていこうと考えました。

アロマハンドケアなら 心も身体もアロマの香りで癒される。マッサージで癒され、血行が良くなり、凝りがほぐれる。手と手のふれあいで癒される。よく眠れるようになり、少し心が元気になり、気持ちが落着く。体勢としては、机に向かい合って座りケアをします。やや前かがみで、“傾聴”の姿勢に近く、話したい方はお話しするのに程よい距離感です。話しをしなくても、前に座っていただき、ケアをしている間は、手と手が触れ合い通じ合っている“手当”の感覚を持つことができる。

ハンドケアの最中に、受け止めがたい体験を思わず話されることもあります。伺っている内にこみ上げてきて堪え切れない時は、下を向いてひたすらマッサージをする。そこに集中しているようなふりをすることで、涙をあまり見せないようにしたり、あえて“傾聴”しないことで、多くを話された結果、かえって傷つかれてしまう可能性を防ぐことにもなります。まだまだ目の前には、震災の爪痕が生々しく残っています。私たちは“傾聴”の専門家であるがゆえに、より慎重に被災地での関わり方を検討し、外からくるボランティアの限界をわきまえ、踏み込まないことを肝に銘じなければいけません。今日、ここにアロマオイルを持ってきました。リフレッシュとリラックスの香り二種類のオイルを回します。少しつけて手をマッサージしながら、私の話を聞いてください。オーガニックの厳選された、オイルですよ。

5月24日(2011年)からアロマハンドケアの活動を本格開始しました。7月末までほぼ毎週末の3日間石巻へ通いました。合計すると10回になりました。次にこの間の活動についてお話します。石巻市蛇田の山下中学校体育館の避難所は、地元の職員の手が足りず、宍粟市の職員の方が2週間交替で来て運営されていました。避難所は段ボールで約畳2畳分位のブースに仕切られていますが、仕切る仕切らない、壁の高さをどの位にするかについても、賛否両論があり避難所ごとに異なります。こちらは、畳を横にして立てたくらい、腰高くらいの高さで仕切られており、座っていたら隣の方と顔を合わせことはないが、立ち上がれば全体を見渡せます。子供たちは、通っていた学校が被災したり、学校から遠くの避難所にいたりで、バス通学になったり、友達のいない学校に通ったり落ち着いて勉強に取り組める状況ではありませんでした。昼間も避難所にいる、不登校の子供さんも何人かいました。大人も子供も、皆さんストレスがたまっています。そんな中、アロマハンドマッサージをしに行きました。
牡鹿半島では、鮎川公民館でアロマハンドケアを行いました。二階建ての鮎川公民館は、牡鹿半島のボランティアの拠点として使われ、物資の配布や炊き出しなどが行われていましたが、ここも津波に襲われ、一階部分は壊滅状態、天井は剥き出しでヘドロの匂いが漂っていました。その一階に机をおき、ハンドケアをしているときに、地震があると、建物がガタガタと揺れ、崩れてしまうのではないかと冷やひやしました。
牡鹿半島の東側は、被害が特にひどく、集落が全て流されて砂浜になってしまったようなところもありました。仮設の道路を通っていると、ガードレールの残骸が土のなかから突き出ており、おそらく道があっただろうところが川になっていたり。目の前の道がスパッと切れて落ちていて、間に合わせに作ったような砂利道を迂回したり、恐る恐る前へすすむと、山の中腹の池に車が何台も突っ込んでいたり。本当に目を疑う信じ難い光景でした。

皆さん、車に乗っていたら安全とか、車で逃げたほうが早い、と思われるかもしれません。ですが、車が車でなくなっている、どうしたらこんな状態になるのか?あまりにも酷い残骸を多く目にします。津波の中では、車は、身を守るどころか、凶器にもなる。家や車がキャタピラのようになって何もかも巻き込んでいく。それぞれがぶつかり合う。実際に巻き込まれて恐ろしい体験をされた方のお話も、お聞きしました。震源地に最も近い牡鹿公民館はさながら前線基地の雰囲気漂うボランティアの拠点です。ここでの活動は常に緊張感が漂い、地震が起こった場合、同行のメンバーとはどんな状況でも、まず各自で逃げることを約束しました。

女川では女川第二小学校の登下校サポートをしました。女川は水産業が盛んな大きな町で鉄筋4,5階建てのビルも沢山ありました。そこへ、20メートル近い津波がきて、ビルがゴロンゴロンといくつも横倒しになっていました。5階建てのマンションのベランダに車が、工場の上に民家や船が乗っていて現実とは思えない惨状でした。しかし、そんな中で子供たちが日々生活しています。自宅が被災した子供たちは、親戚や知合いの家に泊めてもらったり、避難所にいながらスクールバスで登下校します。そのバスの停車する所の周りが、惨憺たる光景です。子どもたちはそれを見て、津波の怖さをまた思い出す。光景がリマインダーとなり、心がかき乱されてパニックになる。
 
 最初は先生方が、登下校の子どもの見守りについて行かれたのですが、先生自身も被災されておられるので、家庭のこともある。学校の会議もある。手が一杯です。そこで、私たちボランティアが、登下校の見守りを分担しました。一緒に徒歩で登下校したり、バスの後から車で走り、子供たちがバスから降りたところで、不安やパニックにならないように、お迎えが来るまで一緒に時を過ごすというようにやっていました。迎えを待つあいだの、子供たちの強ばった表情は忘れられません。少しでもリラッククスしてもらいたいのですが、子供たちとの話題にも気をつかいました。決して、家のことや、家族のことを触れてはいけないし、お母さん遅いね、なんて禁句です。
夏までは、山下中学の避難所と鮎川公民館でのアロマハンドケア、そして女川での登下校サポートというボランティア活動をしていました。

大阪から仙台への移動についてです。大阪仙台間をバスまたは、飛行機で移動し仙台でレンタカーを借りて石巻へ向かい活動しました。飛行機は安く買うと12,000円位。夜行バスも同じ位。新幹線は20,000円位。つまり、時間のロスもなくスムーズに体力を温存して現地で活動できるのは、飛行機でした。仙台から三陸道で石巻まで約1時間。石巻から女川は約30分、石巻から鮎川は約1時間。さらに夏以降、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、大槌町と言うところが私の行動範囲になりました。
 
私たちは石巻に拠点がないので、宿泊は石巻や仙台のビジネスホテルです。今でこそ、宿泊場所も再建され増えましたが、当時は限られており、また今以上に復興やボランティアで数少ないホテルの部屋が抑えられており、なかなか予約が取れない状況でした。ずいぶん内陸の古川から通ったこともあります。活動のアフターファイブは、仙台、石巻で当時はこちらも数少なかった地元の居酒屋で、地元活性化に貢献と今日一日を振り返る、という名目で、メンバーと東北の幸や地酒で癒されて、明日の活動への英気を養いました。

そうこうするうちに2011年7月末の石巻行きで活動を一旦休止しようということになりました。その理由は、避難所から仮設住宅への入居が進み、小学校も夏休みになるので登下校のサポートも一段落するなど、地元の状況の変化です。その夏はとても暑く、埃や匂いやハエもさらにひどく、活動メンバーの心身のストレスも、かなり高い状態だったと思います。私の場合、被災地から大阪に戻った時、大阪の景色が被災地の景色と入れ替わって見えてくることがありました。ビルの壁面に穴が開いていて、鉄筋が剥き出しになっている。カーテンやブラインドがそこから出ている。現実には津波に遭っていないのに、津波の夢をみる。これは、我ながらまずいなと思い、活動の一時休止を決めました

ところが休む間もなく、大阪府の危機管理室さんと繋がりができ、2011年8月から翌2月まで計4回、岩手県の支援プロジェクトに参加しました。8月には、陸前高田市の高田高校第2グランド仮設団地へ行ってアロマハンドケアとカフェを行いました。
これが、仮設団地の談話室での、最初の活動になりました。談話室では、ケアの順番を待つ間に、お住まいの方同士で話ができます。そこでお茶とお菓子をだし、より皆さんに、居心地よく集まってもらう工夫をしました。

11月には、釜石市の市民芸術文化祭に参加させていただきました。釜石は新日鉄釜石もあり、昔から文化や芸術活動が盛んなところです。芸術文化祭は40年以上続いており、被災した市民ホールから中妻体育館に会場を移して行われました。私たちは、ブースを借りてアロマハンドケアとカフェをしました。

12月と翌年2月に行った大船渡の轆轤石など4つの仮設団地でも同様です。ただし、タイトルは「アロマハンドケアと話すがたり」にしました。“話すがたり”は東北の方言で、「話すがたりすっぺ」と言うと、みんなでなんだかんだ食べ物持って、お茶でも飲むぺし、みたいなことで、親しみを感じてくださるとのことでした。

ところで、釜石市の芸術文化祭ですが、音楽の力って凄いと実感したのがここからです。釜石へはハーティのメンバーと、その知人の民謡を唄うチームと一緒に行きました。民謡チームと「大漁唄いこみ」を唄いました。「♪松島~の~」で始まるご存じの宮城県の民謡で斉太郎節ともいいます。3番の歌詞に「♪石巻さよ~その名も高い~日和山(ひよりやま)とへ~」とあります。見晴らしがよく桜の名所で石巻を代表する日和山ですが、3.11以後は大震災を象徴する山となりました。
皆さん、日和山を目指して避難され辿り着いた方を救った場所でもあるし、わざわざ遠回りをしたり、ここを目指すために道を選んだりして、車が渋滞して思い半ばで波にさらわれた方もいたと聞いています。

この文化祭の最後に、「365歩のマーチ」を民謡チームのリードで皆で歌いました。その時に“会場の皆さん全員で行進しましょう”となり、みんな立ち上がって行進しながら「♪人生はワンツー三四!」と歌っていると、自然に輪になって、交差するところができ、市民の皆さん同士がそこで、ハイタッチをしてすれ違っています。「オッケーね!」「オーケーね」「また、がんばろうね」とハイタッチをしていく。それを見たとき、「ああ、これやな。」と思い、胸が熱くなりました。私たちが何かするのではなく、市民の皆さんが、自分たち互いに勇気づけあって先に行くんだなと。私たちの役目は、あくまでもきっかけづくりに過ぎないと 改めて感じました。

大阪府と行ったプロジェクト活動が終わったのち、私たちは、『音楽の旅』というのをスタートしました。滋賀の“アモーレ猪熊とG3”、沖縄在住のアルゼンチンの国民的ギタリストのモレノさんとリンダさんのデュオ“パマルカ”、そして、大阪のスワンピーたけし“タケちゃん”。この3組で東北へ行く事になり、長洞仮設集会所で初めての仮設ライブをやりました。
アモーレは、「♪わて ほんまに よう言わんわ~」 とか 「♪君がみ胸にだかれて~ 」とか懐かしの昭和歌謡。モレノさんは、スペイン語で歌われ、傍らの奥様の解説付きで 「♪コンドルが飛んでいるなら、連れて行ってくれ、私の家へ」と。モレノさんは、軍事政権下の故郷を脱出された方、今はアルゼンチンに帰りますが、当時故郷を思う思いはひとしおです。タケちゃんは、オリジナル曲です。「♪願いは心穏やかに、ただ穏やかに」と祈るように歌う声が、仮設を包みました。タケちゃんは震災前から東北でライブツアーをしており、津波で石巻の知人のミュージシャンを失っています。

3月19日は、大船渡屋台村の野外ステージの柿落としライブです。私事ですが、夫が大船渡屋台村に関わっていて、ここにステージができたら柿落としライブをする、と言われたことから話が始まりました。当日、とても寒かったのですが、雪降る中のライブは大盛況でした。屋台村の責任者の方は、「ここにステージ作って良かった、良かった」ととても喜こばれ、その後大船渡屋台村には度々行くことになりました。

音楽活動と並行してハーティとしては、ジャパンプラットホームへの助成金申請が通り、2012年2月から4月まで、石巻を6回訪問。各3日程滞在しました。改めて現地で、何が必要かをヒヤリングし「仮設団地のコニュニティ形成支援―孤立化を防ぎ顔の見える関係―』を目指して活動することになりました。石巻の仮設団地は、抽選で以前の住まいに関係なくほとんど知らない方どうしが、同じ仮設団地に入居しています。隣近所顔の見えない関係から、新しいコミュニティをどう作り上げていくか。具体的には仮設団地の談話室で『アロマハンドケアとお茶っこ』をすることで、住民の方が談話室に来るきっかけをつくり、そこでお互いを知ってもらうきっかけをつくり、挨拶ができる関係になっていただくことです。活動は2〜3人で石巻に行き、レンタカーで移動。仮設住宅の一戸一戸にチラシを配布して、参加を呼びかけて歩きました。アロマハンドケアは、それ自体が身体もほぐし、間接的に心も癒します。身体へのタッチは手段であり、目的は心のケアだとも言えます。そしてさらに、それを求める思いをきっかけとして、コミュニティ再建支援です。その最終目的のために、助成金が通りました。

4月にハーティの活動が終了したあと、音楽を届ける旅を行いました。2012年7月。まず石巻(2か所)、陸前高田、大船渡(2か所)の計5か所でライブをやりました。このライブツアーは、栄篤志さんと飯尾愛子さんと私の3人がで石巻でライブをした後、アモーレさんと陸前高田で合流しました。
栄さんは、奄美から大阪にきて50余年。まだ、ヤマトは外国だと思っている反骨の三線奏者。東北行きは初めてでした。飯尾さんは、もと保健の先生というスキルをいかして、釜石から参加してもらっいる外部ボランティア。ここでライブをした石巻蛇田北部第2団地は、私も飯尾さんもずっと通っていて、仲良くしていただいている所です。栄さんにの弾き語りを聴いたみなさんは、三線の音色に優しい海の色や波の音を感じ自然に涙されています。仮設住まいの村上愛ちゃんは、こう言われました。「私、これまで、泣くことができなかった。それが、栄さんの歌を聴き、カチカチの心が柔らかくなってきた。やっと、涙を流して泣くことができたのよ。津波で冷えて冷え切った身体にも、ちゃんと熱い血や感じる心が残ってなんだよ」と。
陸前高田や大船渡では、アモーレパワーが炸裂しました。見物の人、皆が踊り出さんばかりのパフォーマンスです。
ここで、エピソードを一つご紹介します。 岩手は民謡が盛んな土地です。大船渡にも民謡チームがいくつもありますが、津波で家を流された方も沢山いらっしゃいます。Aさんもその一人です。彼女は全国大会に出場するようなプロ級の歌い手ですが、集めた着物も歌の道具も資料もすべてダメになった。だから、もう歌は歌いたくないと思っていたそうです。ところが、前回のアモーレのライブの後、最前列にいたAさんは、思わず民謡を口ずさんでいました。アモーレはそれを聞きつけ、「歌、歌ってはりましたね?いつも手拍子してくれて・・ずっと、気になっていたんですよ!」と話しかけました。
Aさんは、「実は、私、民謡を唄ってたのよ。でも、もう全部流されてだめになったから、歌えなくなったのよ」
アモーレは、「そうなんですか。じゃあ、次回、ぜひ歌って欲しいです。」とお願いし、今回それが実現しました。アモーレは、「民謡には、着物でないと感じ出ませんよね」と浴衣を持って行きました。Aさんは、最初、固辞されてましたが、とうとう夜の野外ステージで岩手民謡『外山節』を素晴らしい歌声で披露してくださいました。
地元の方が地元の方にエールを送る歌。涙を流される方が沢山いらっしゃいました。
この後、大槌町に行きました。ここは、町長以下役場職員が25人も犠牲になった所です。瓦礫の撤去もまだ終わっていない状況ですが、仮設テントを建てて民謡保存会の方とジョイントでライブをやりました。それをコーディネイトしたのは、滋賀県から移り住んでいるアモーレの友人の女性でした。
この旅で最後に宮城県を通り越して 福島県の新地町に行ったのは、アモーレが親交を深めていた新地町の仮説団地のあるお宅にお邪魔しました。ここでは、地元で獲れたアナゴの丼をご馳走になりました。

2012年9月には、シーガン山下さん、たけちゃん(スワンピーたけし)、Qちゃん(杉本Q仁美)とライブの旅です。南三陸の歌津の商店街、大船渡の仮設屋台村、長洞仮設団地でライブをしましたが、ここでは、シーガン山下さんのエピソードを紹介させて頂きます。歌津伊里前福幸商店街野外ステージでライブ中に山下さんは、こんな話をされました。
「僕が若い頃、加計呂麻島のお母さんから島の海藻などの小包が度々送られてきた。それを開けもせず腐らせていた。母が亡くなった今、本当に何であんなことをしたんだろう・・・ごめんなさい」と前にいる仮設のお母さんたちに頭をさげはったんですね。全く関係がないんだけれど・・すると、仮設のお母さんたちが「いいよ、いいよ、そんなこともある」みたいなことを言われて、山下さんら、行ったほうが癒されて帰ってくるということもありました。

私たちは、「何かお役に立てば・・」と行っているんですが、それが逆に、帰る時には、「おいしかったです。」「お腹がいっぱい」とご馳走になってしまっています。私たちが伺うことがきっかけで、皆さん、素晴らしいお料理を作って待っていてくださるのです。最初は遠慮して「いえいえ、とんでもない」と言っていたんですが、最近は、有難く頂くようにしています。お母さんたちの暖かい気持ちに私たちが癒され、また、たくさん頂くことで喜んでくださいます。

2012年10月から3回目の音楽ツアーは、栄さん、アモーレ猪熊とG3、パマルカ、そしてはるばるアルゼンチンから超絶ギタリストのダリオさんが参加されました。今回も、石巻からスタートし、南三陸経由で大船渡まで北上です。
今回、石巻の青葉会館という公民館を選んだのは、仮設が地域の中で孤立しないように、仮設を超えて地域の皆さんと繋がりを持っていただこうという目論見もありました。ここでも、アモーレは“テネシーワルツ”などを歌って「物は流されても思い出は残っている」と涙ぐまれたり、はたまた抱腹絶倒のパフォーマンスで皆がお腹を抱えて笑い、元気にしていました。

南三陸の歌津は、メディアで報道されることもあまりありません。仮設商店街の前は建物の土台がそのまま残り、手つかずの状態です。アモーレ猪熊とG3のリーダー円ちゃんは、その光景をみて茫然と座り込んでしまうほど。その中でアモーレが大きな声で 「♪私はミネソタの卵売り~」と歌いだし、「♪コッコッコッコッコケッコーというところ、みんなでやりましょう」と歌い踊りました。勢いに促されて皆も「♪コッコッコッコッコケッコー」と身振り手振りを交えて歌います。皆の声が大地に響いてこの土地の鎮魂となって行方不明になっている方々にも届くんじゃないかなと思いました。歌によるその土地への鎮魂ということを実感したような気がします。

前年度に引き続き、釜石の芸術文化祭に参加しました。今回は、関西大学の交響楽団有志が同行し、私の案内で陸前高田と大船渡の仮設でも演奏をしました。長洞仮設で演奏が一通り終わったので「アンコールいかがですか?」と私が声をかけると、一人の男性が「今日、おっかぁの誕生日なんだ。なんか一曲やってけれ」と。それで、“HappyBirthday”でもやるのかしらと思ったところ交響楽団のメンバーは一寸相談して演奏したのは、エルガーの「愛の挨拶」という曲でした。
交響楽団のみんなは、当初それを演奏したかったんだけど、練習では上手くいかなかったようです。演奏が始まると、聴いていたみなさんが涙を落とされ、私もまた、この選曲がこの場にぴったりで、いい曲だなと思うと、胸が詰まって言葉が出なくなりました。司会の方に「藤崎さん、次はどうしましょう?」と言われても言葉が出ない。その時、お母さん方から、ティッシュが、ポン、ポン、ポンと3つ位飛んできて、「あんた、頑張り!」みたいに。それに励まされて言葉を続けることができました。

20124月に一端ハーティの活動が終了してから、少し間が空きました。石巻から「ハーティさん、帰ってきて」との声をいただき、再度助成金を申請し認められ、助成金での活動の第二回目は、2012年8月から翌年1月まで計10回、石巻を訪問しました。今回は、地元の方が、地元の方を助けて、自立に向けての糸口にすること。“自立支援”としての助成金です。そのために、まず地元でリーダーとして活動してくださる方に、本活動を委譲すること。そのステップとして小冊子「こころに届く アロマ・ハンドケア」を作り、配布用のアロマオイル準備し、施術方法のレクチュアをするなど工夫し、地元へ定着させるようにしました。

私たちの活動は、ほんとうに些細なことですが、細く、長く,続けていきたいと思っています。時間がなく、最後とても端折ってしまいましたが、これで今日の話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。