2014年3月17日月曜日

「毎月11日の会」11月例会 ―「毎月11日の会」を振り返る―事務局

スピーカー 事務局 阿部健・田中淳介・大森俊子・徳山明美
日時・場所 20131111日(水)
大阪市立総合生涯学習センター第3会議室

■阿部健
いつもと違って私どもこれまで運営に携わってきたものが毎月11日の会のこれからを振り返るというタイトルでお話させていただきます。
振り返りますと「毎月11日の会」は、昨年3月11日の追悼の会これを出発点といたしまして、二年近く続けてきました。この間運営に携わってきた事務方は約4名です。今日はこの四名がお話をさせて頂く事にしました。はじめに私阿部が全般的なお話をさせていただいて、次いで各自がそれぞれ話をさせて頂きたいと思います。
「毎月11日の会」は色々なスピーカーの方を招いてお話を聞くというだけの会です。当初は同じような事を続けているとマンネリになるとも考えたのですが、実際はそんな事は全くなく今日まで20回近く続けてきました。東北大震災の話はその方の命がけの体験であったり、決断だったりするからだと思います。いつも身が引き締まる思いで話をうかがってきました。また1~2か月後には録音テープを文字にしてお話を文章で再読しました。そうしますと非常に大切な点を聞き逃したり、曖昧にしていた点に気がつく事もありました。毎月の例会ではスピーカーの話を巡って討論したり、議論を深めたりということには至りませんでしたが参加者全員が充実感を共有する事は出来たと思います。これからの予定も来年3月までは決まっておりまして、それは今日お配りする来月からの予定のチラシの裏に出ているのですが、来年3月まで予定は決まっています。その先も同じように続けていくことも出来ないではないし、続けていくことの意義もあり又やりがいもあると考えています。しかしながら私どもは来年月、まる2年を持ってこれまでの動きに一区切りをつけようという気持ちです。後でこの運営のやり方をどういうふうにしたかという話も出て来るかもしれませんが、あまり4人でしっかりして物事を運ぶというようなやり方はしないできましたので、この一区切りつけようということではもちろん一致して今日その事をお話しようということになっているのですが、細かい事になってきますと皆それぞれという所があると思いますが、私の方から言えることは各人の気持ちの最大公約数を求めるとここで一区切りつけようとか、これまでの11日の会は休止しようという事になるかと思います。これからについて今のところ幸か不幸か何のプランもありません。発展的解消という言葉が出てきたり、「毎月11日」に対して「ときどき11日」といのはどうかというアイデアも出た事がありますがその程度です。むしろ先の長い話だからゆるゆる考えていこうかと言うのが共通した気持ちかも知れません。その上でよいアイデアがあれば今までの事務方に限らずアイデアをお持ちの方も、一緒に何かやれるかもしれないと言う事でしょうか。
それではこれから運営に携わってきた皆の話を伺いたいと思います。最後に時間があれば私も自分の気持ちをお話できたら幸いです。

■田中淳介
私としては今の阿部さんの話を受けてしばらく今の形での「11日の会」というのは一度立ち止まって考えてみたいと思った部分もありまして今のご提案にも同意しているのですけれども先程も話がありましたが、2012年3.11追悼の会をやってその後2012年8月11日ですねこれからほぼ20回、来年の3月位までやろうと言う事ですが二十回数えるわけです。その間実際には20数名の人が2時間しゃべっているとしゃべっている時間を換算するとほぼ40時間というかなり膨大な色々なお話を聞けていると言うふうに思っているわけですが、その中で私も全てを読んだ訳ではないのですがいくつか色々な情報を貯めて行くだけでこれで良いのかなあとこの膨大な話をですね、特に被災体験のお話というのが一番私の気持ちの中にありましてそれを引き継いでいかないというのがあります。そういうことも含めまして一度立ち止まってほんとうに3.11どうだったのかとい事ももう一度じっくり聞いた話を咀嚼してみたいという事もあります
それから避難者の方の話ですね、特に母子避難者の話を聞いている数名の方もおられるし、そしてボランティアで支援に行かれてこちらから色々な支援されている方のお話もありました。それから3.11を契機に、私もそうなんですけど自分の物の見方や考え方が変わったという人がおられましてそういう方たちのお話も聞いています。その中でずっと続けてこの話を聞きっぱなしでいいのかなあという事が非常にありまして、それともう一つは20名前後の人間で二時間色々スピーカーの方から話を聞くというこのやり方がほんとうに、人を決めていくというのも大変ですしそれを記録していく、これ以上たとえばずっとやってそれを文章に残していくのも非常に大変な作業なのでそれをまとめるという事も含めてこの辺りで一度立ち止まってきちっと考えたいなあというふうに思いましたので、私にしてもそれでは何をするかという事を切り返されるとノーアイデアというかほんとうに無いのですが。
今の所考えていますのは「個人的事なんですが」これを記録として本にしたいという気持ちはあります。実際二時間しゃべられますとA4にしてだいたい10ページ位のボリュームになるのですがこれを単純に計算すると200数十ページの膨大な本になるのですけれどもこれをきちっと中味の構成も考えて本にしていきたいなあと思っています。特に一つは3.11で被災された方とか、母子避難の方から色々お話を聞いて思ったのは人の生きる力はすごいものがあるなと感じたことです。これらを何らかの形で文章なりに記録したいという事がひとつ、もう一つはボランティアされている方このボランティアの力というか、この方たちの話も対応の仕方とか、被災された方への支援のやり方があるのかなと色々教えられましたし、そういった事が力になるのかなと。もう一点被災地との交流を色々やられて、阿部さんもそうなんですけどあるいは徳山さんとか大森さんも行かれまして「私は行っていないのですが被災地の人たちとの実際の交流を通じたそういう力と言いますかそういうものも非常に感じました。この三点ぐらいを中心にしたまとめ方で整理してらというのがあります。実は20人近くの方の原稿というのは徳山さんと大森さんが起された文について読ませていただいているのですが、自分で実際その文章をかなり細かく構成したというのは5月11日の森松明希子さんのなんですね、これはかなり組み入れもさせていただきましたし何回も校正もしました。たまたま阿部さんが色々事情がありまして私にやってくれないかという事で言われたのですが、これはきちっとやらないといけないと思いそれを読ませていただいて森松さんの最終結論ですがやっぱり私は福島県人でいたいというのがスピーカーとしての最後の言葉として載っているわけです。その言葉を継いでその後つい最近ですが避難者の訴訟を大阪の代表として、やられたという活動がありましてそれは要するに福島の県人としてこれからも住民票を変えずにやって行きたいという決意と、大阪で福島県人としてあるいは避難者として訴訟を起こされるいうこの辺を次に繋げて行く力という凄いものがありましてそういう力を自分の物にして、それを残して色々な人に記録として読んで頂きたいという風に、私としては今の段階では出来ないのかなあという感じで思いまして、やって行きたいと思っています。今の所はそれぐらいの事しか思っていないのですがかなりきっちりしゃべられた事を一字一句というか記録として残していきたいという今の私の大きな気持ちという事になっています。そのような事で一度今までの事を見直したいというのが私の今日に至った思いという事です。

■徳山明美
これまで経験したことのない、大きな自然災害でした。それまで仕事の関係で東北に住む方と縁がありました。その方とのやりとりがきっかけで2012年3月11日に追悼の会を行い、その後「毎月11日の会」を約2年続けてきました。ただ自ら行動を起こすのはなかなかできませんでした。行動の人である阿部さんがやはり動かれました。それこそ老体に鞭打って2012年の猛暑の8月に福島に単独でいかれました。そこから「毎月11日の会」がスタートしたと思っています。私は引っ張られるようにその後についてきました。
私は今日ふたつの事を話します。ひとつめが「被災者支援」です。
ついていきながら最初は「私は何をしてるんやろ?」「これでええんやろか?」と前進し後退しを繰り返しふらふらとやっていました。その理由は自分の個人的な生活や環境のことも含めていくつかが絡み合っているのですが、芯となることは「支援とは何か?」ということでした。
被災していない私が「東日本大震災」について何かをするということは、被災者に見える形としての支援でないといけないという思いがあったからです。2012311追悼の会に誘った知人からこんな言葉をもらいました。「募金をするでもない、ボランティアの道筋をつける訳でもない、そんな会に何の意味があるの」その言葉の裏には「自己満足」「胡散臭い」ということが見え隠れしていました。その言葉は私の気持を一部代弁していたので、反論することもできませんでした。
「毎月11日の会」を何回か重ねいろんな方の話を聞くうちにだんだん自分の考えが変化してきました。「当事者ではない被災していない者」から「大震災を経験した日本という土地に住み日本の社会で生活する当事者である」という考えを持つようになりました。それはさまざまな立場や境遇をもつゲストスピーカーのナマの声が原動力だったと思います。起ったことによって人はどのように動いたのか考えたのか、マスメディアでもWeb上でも伝わらない、生身のひとの声と言葉を聞くことがどれだけ大事なことか、実感しました。そして、自分だけのためではなく間接的に当事者である被災者の支援に繋がっていることも感じました。お金や労働力という形ではない支援があると思いました。この会で話してくださった森松さん、あれよあれよと原発賠償訴訟原告代表になられました。原告として申し立てに行かれる前々日のある催しで話をされる時、聞く機会を得て講演の前に一言二言言葉を交わしました。翌日「徳山さんの顔をみたら落ち着いて話す事ができました」というメールを頂きました。少しは役にたったんだなと思いました。ほんとにささいなことです。
直接的に支援をされておられる方々の話も聞きました。「NPOハーティ」の藤崎さん、「かしば女性会議」の鈴木さん、「これから行動隊」の菱倉さん、「田歌舎」の藤原さん、「避難者子ども健康相談会」の高松さん、それぞれご自分がずっと活動してこられたテリトリーで具体的な支援をされています。私たちができることは、ひとりひとりの生身の声をきくことだったのだと思います。しかし周辺の知人友人にお誘いして感じたことは、この会に足を運んでもらうことの難しさです。忙しい時間を割いて話を聞くことは簡単ではないし参加するという行動を起こさせるような力にも欠けているのだと思います。そういうことから参加して頂いたみなさまにはほんとうに感謝し頭が下がります。ありがとうございます。主催している側の問題点もあります。先ほど挙げたスピーカーの方々はこれまでずっと活動されてこられた蓄積があります。私たちはゼロからの出発でした、この人の話が聞きたいと思う人に出会うためには、足で歩いて時間をかけなければいけません。これまでのスピーカーの方々のほとんどは阿部さんが行動して縁を作ってくださいました。この形で続けることの限界を感じています。
ふたつめは「原発」です。福島に留まっている方、自主避難した方、自主避難しその後福島に戻られた方、いろんな選択をした方の話を聞きました。これらの方々の話はこの会の財産だと思います。その発言は私にとっては考えるためのものすごい贈り物だと思っています。
朝起きて食事の支度をして仕事にでかけまたは子どもの世話をしてその日を終えるとまた朝日がさすはずが、朝起きると真っ暗で何を頼りにどうすればよいのか突然手掛りのないところに身を置くことになった、彼女達はその状況を自分の言葉で話してくれました。判断する基準がない、何を信じていいのかわらない、という状況で自分の感覚を頼りに一瞬一瞬どうするのかを決めていかれました。こんな状況におかれることは私は皆無でした、日本のどの場所にいたとしても大勢の方がそうだと思います。「普通の主婦だった自分が、訴訟の原告になるなんて、思いもしなかった」という森松さん、がらっぱちで肝っ玉かあさんの木幡さんは「政府や東電は安全ですとしか言わない、何が安全なん?東京におって何が安全といえる。放射能のある場所にいないだろう」と放射能から離れようとあちこち転々とし関西への避難を選択されました。福島に留まっておられる酒井さん「原発がある自治体の小学校の体育館、全自動のブラインドがわーっと降りてくる。世界大会もできるんじゃないかと思える体育館。原発があるとこんなお金持ちになれるんだ、と」「大きくなったら原発で働けるともう安定。できれば東電で働いている旦那さんを見つけなさいみたいなことを言われ育ったりもする」という話は原発立地の姿を何よりもストレートに訴えてきました。「世の中を変えるために、『かえる新聞』を作っているわけではなく自分たちが変わる先で世の中が変わっていくことがあるんだと思う」という言葉はさまざまな葛藤のなかで生まれた確信なんだと思いました。
福島原発の事故について、色んなことが複雑に詰っていてうまく整理は出来ていませんが、私が思うことを話します。国が責任、国が悪い、東電の責任、東電が悪い、と犯人を決めつけることで決着するということに同意しません。単純に、脱原発、再稼働ということについてはどうすればいいかわかりません。感じていることは、高度成長を経てバブル景気を経験し経済成長を目標に舵をとってきたがその先はもうないことを表わにしたのが原発事故ではないかということです。私は1952年生まれです。高度成長期は10代、バブル景気の時は働き盛りのサラリーマン、バブルの恩恵を受けています。ずっと経済的に豊かになりたい、高価な素材の仕立てのよい洋服が着たい、快適な心地よい住居に住みたい、新鮮な素材に手をつくした料理も食べたい、そんな豊かな暮らしがしたい、と40代まで思ってきました。こんなひとりひとりの消費の在り方が、原子力発電は当たり前、というより意識にさえ登らない状況を作ってきたと思います。原発事故は、そんな日本に暮らし豊かな生活を追及してきた私たちすべてが関わっていると思います。少しずつ少しずつ方向転換していかないといけないと思います。どういう方向かはわからないし何もできないのですが自分の暮らしから変えていくのでしょうか。私は90年代位から、徐々に消費することに対して意欲を感じなくなってきていました、今もその延長の気持かもしれません。その経緯はいろいろありますがもう少しよく考え整理しないといけないと思っています。
高度成長期、バブル期を経験していない人達が社会に出てきています。30前後までの人たちです。経済成長なんか望まないと言う人もいます。身近には私の姪がいます。考え方や志向が違うことを感じます。今タイにいますが、ゆっくりとこんな話をしてみることもやるべき必要なことだと思っています。

■大森俊子
運営に携わっていましたと言うのがおこがましいくらい何も出来なかったというのが「11日の会」で一番思っている事です。ただ被災地から来られたスピーカーの人たちが口を揃えて言われたのが、知らない所でこんな集まりがあった、忘れないでくれた人たちがいたのだという事をすごくうれしかったという事、何人もの人たちから聞きました。
私はこの会が始まる時何も思いませんでした。ただただ話しを聞く集まり、何という良い集まりと思ったぐらいで何も思いませんでした。何か自分を天に上げて俯瞰した時に日本か世界かわからないけれど東北から離れた所で小さい集まりでこういう事をしているってすごく良いなあとずっと思っていました。今もそう思っています。ただ少しずつ私が変わってきた気持ちはわからないんですが、森松さんとかのエネルギーとかに関してすごく立派やと思うんですが、母子家庭で避難して来ているとか言われても「私もそう思うわ」とか、そういう頷きが出来ない。色々のスピーカーの人のお話にそんな人もいるし福島に留まって酒井さんみたいに思っている人もいるし、「そんな人もいる、あんな人もいる」という事以上に私はもっと「私はどう、あなたはどう思う」と言ったそういうやり取りが出来るような集まりがもっと間隔が空いてもいいから、私はもてたら良いなあとそのように思っています。もし自分がもっと若くて子供がいてそこにいた時にはどうしたら良いだろうか「たら」とかそういうことが分からないかもしれないが、あまりにも分からなすぎて、森松さんの話とかで「うんうん」と頷いているのなら、そうしたら自分のすごく親しい若い人たちが東京、埼玉,茨木にいたらあなた達「こちらにいらっしゃい」と心から言えないし何かそこにどんどん自分の気持ちのあやふやさみたいなものが積もって来て、ちょっと欲求不満になって来たり、だからいって何か計画しましょうかという時に自分が何か率先して動けるかというと出来ないし、私はそういう気持ちです。ただ色々なご縁があって色々な人と巡り会えて毎月巡り会えて、野島さんのご本を読ませてもらったり、田中さんから紙芝居の本を読ませてもらったりとか、毎月平塚さんにお会いしたりとかこの会が無かったら私の人間関係は細かい小さい所で終わっていたなあと思うのでそれはほんとうに非常に嬉しかったです。たいへん得をした、ありがとうございます。

■阿部健 2
「ここでちょっと休止しよう」という事について四人が一致したというわけではないがだんだん同じような気持ちになって来て、振り返ってみたら一番最初どうだったかというと、非常に素朴なスタートをしたと思います。一人でも二人でも毎月11日に集ろうと、まだ去年の春ぐらいの事ですから、まだほとぼりも今よりも強かったわけです。追悼の会というのを初めてやってそこでやっぱりこういう事も必要かもしれないと皆が思ってその後どうしたら良いのか分からないけれども、一人でも二人でも毎月11日に集ろうという事が話として出てきて自分たちが知りたい事を話してもらうというその事だけでスタートしたと思います。ですから初めの頃は、私が福島に行ったことが話にも少し出ましたけど9月11日にしゃべってますし、行ったのは8月1日から2日のその時だったと思います。それは直接的にその前にお話をいただいた寺川さんという方にうまく連絡がとれなくて、お願いしてOKはして頂いたのですが果たして8月11日にこの人に連絡が取れないのでほんとうに大丈夫なのかよく分からないのが事実でその事で保険をかけるつもりで福島に行った事を思い出します。もしだめな時は自分が福島の話をしようと考えて行った事を今思い出しました。
それから資料にあるように様々な方にお話をして頂いたように事務局の人はみんな思っていると思うのですが、得をしたというか良いお話を聞けたなあと思うんですね、ただだんだん自分の気持ちの中でこのまま続けていていいのだろうかという事が強くなってきたと思うんです。どういう事かまず来られる人が少ないとスピーカーの人に悪いなあと、せっかく特に福島や東京など遠くから来た人に対して悪いなあというだんだんと感じるようになったですね。参加者があまり少ないと、それからスピーカーだけじゃなくて集って来て頂いた方私ら自身あまり少ないと張り合いがないそういう気持ちがだんだん出て来るわけです。スピーカーに悪いというのがだんだん高じて来ると参加の人数が多ければ良くて、少なければ悪くて人数が多ければ満足できて少ないと不満など、達成感があったりなかったりという事が自分の気持ちの中で比重が増していく訳です。そうするとそれを避けようとするからお願いをしてでも来て頂くようなそのような動きもするわけですね、そういう事をやっているとだんだん自分がしんどくなってくる。声をかける人は自分の付き合いの範囲の人に声をかけるそうすると付き合いというのは色々な事でお付き合いしているのですから何かいつでも「私からの話が例会の話だとかそういう話ばかりだとか」だったら付き合いということが歪になって来る。そんな感じをして来ています。ちょっと考えましたね。
それからこのまま続けていて良いのかという疑問を持ち始めたもう一つの大きな事としては、ここでやっているテーマというのは良い事をしている、それから正面きって反対できない、そういう事ばっかりと言ってもいいくらいなんですね。「毎月11日」でそういう事ばかりやっているこれはどうかなという考えが出てきました。という事で二つの事を言いましたがより本質的には人が正面切って反対できない事をずっと同じようにやっていて良いんだろうか、「何か違うなあ」という事、さらに参加する人が少ないとどうこうという事の気持ちが自分の中でだんだんウエイトが増してくるこの二つがある。これは「ちょっとおかしいんじゃないか」と何がおかしいのか今でも分からないのですが、おかしいと考えてこれは中断した方がいいなあと、休んだ方がいいなあとこのように思っています。これが一つ目の話です
二番目の話はこういう事をやって来てもうひとつ思った、かなり痛切に思ったのですが我々はほんとうに「芸がないな」「レパートリーが狭いなあ」という事を思ったですね。つまり被災地に行って何が出来るんだあるいは被災した人とどんな話が出来るんだ、被災地に行って被災した人と話をする時は、「なかなかですよね」うっかりした事を言えない何か役に立つ事は出来るんだろうか、これはやはりいやですね。これは初めから今日まで思いますね、ひたすら思うとか、祈るとか話を聞くとか問題を考えるとか、それはそれで良いとは思うけれども形に表さないと伝わって行きにくいというネックみたいなものが、その点行かれた人の様子を見ていると、芸の話とか具体的に歌が唄えるとか音楽が出来るとか伝わりやすくて良いですね、ほんとうに羨ましいです。絵を描く人、絵描きさんですら何か色々な形で子どもに絵を描かせたり、それを向こうの子どもが描いた絵とこちらの子どもが描いた絵を交換させるとか、巻物みたいにして展覧会をやったりしている例も見ましたけど「ああいいなあ」とこのような事が出来たらと、藤崎さんみたいにハンドマッサージを一生懸命やられるあれも具体的でいいですね。そういう事が我々なかなか出来なかった。いわゆる昔の言葉で言えば「つぶしがきかない」のでしょうね。そういう事を考えると二年間よく続けて来たなあと言う見方も出来るかも知れない。何をしたかと言うと結局私だったら仕事として来たのは「データーとか情報」を扱う事でしたからやっぱり情報を扱うような事を結局やって来た、話をする人を見つけ出してその人に話をしてもらってそれを記録に残してそういう事が私ららしい活動だった。結局そういう事かなあと思っています。そういう事にしてはよく続いたなあと言えます。
次のお話ですが感想です。この二年間で頼もしい人にわりと会えたなあと思います。スピーカーの方はもちろんスピーカー以外の方でも頼もしいとはどういう事かと言うとこの間に出会った人は不思議に自分で何でもやる人が多かったですね。「やる又はやれる」自分で何かをやる、人にあまり頼っていない、身軽に動くそういう人が非常に多かった、ですから今までそういうタイプの人と付き合いがなかった訳ではないがそういう人との出会いが非常に多いと感じたものだから、何かそういう人には将来期待できるんじゃないかそういう人が最近増える傾向があるんじゃないかこういう人が増えていくとそういう人が30代、40代の人も結構いましたからもう20年も経ったらそういう人たちが力を持って世の中が変わるんじゃないだろうかそういう事も思いました。そうしてそこから自分で何でもやるという事からそれを自給自足の「自給と自立」という事を結びつけて自給自立した人という風に自分の中で名付けて、その代表という訳でもないのですがこの間聞いた藤原誉さんなどはほんとうに何でもやる人でした。驚いたのは二十歳までは全くそのような事はなくて、普通に枚方市で生活をして育ったのですよね、ところが今は美山町でかなり広い田んぼや畑をやり、山林も手に入れて山林の仕事もしている。冬を中心に猟をやる、これも又びっくりしたのですが自分の住まい、人を泊める宿泊棟、家畜小屋に至るまで全部自分で建ててそれが立派なんですよ、バラックじゃないのです。地元の木を使ってほんとうに見事な住宅、建物を建てたほんとうにそれをこの間聞いたら美山町に行って初めの3年間に大工の弟子入りして3年後に造ったみたいですね。普通の大工だったらそうはいかんだったろうけど、何でもさせて育てるような大工に付いたのが良かったのですね。つまり分業があまりないのだと思います。一方ピアノも自分で弾かれると言うので「まあ、なんと言う人」だろうと私は思って。この人は自家発電することもやっておられるのです。確か今月の15日、16日に美山町で自然エネルギーフォーラムをやられる。こういうのは私達まね出来ない、考えもしない自分で発電までやってしまおうなんて考えないですよね。ほんとうにこれからどうなるかわかりませんしね、私も藤原さんと一度一緒にお酒を飲んで一度お話を聞いただけでそれだけの事ですから違う誤解をしている面もひょっとしてあるかも知れません。
もう一つ美山町みたいな所ではなくこの間石巻の萱場祐子さんから連絡頂いたのですが、あの人は非常に元気でやっているというお便りで良かったなあと思ったのですが、石巻に「恋しちゃった」略称「石恋」と称して、先生役をやる人を達人という名前を付けて色々な趣味とか特技とかをお持ちの人を見つけてその人を今度は企画をそれぞれ立ててそれをアピールして、そこへ習う人をそれぞれ集めて、夏は夏で、春は春でシーズンごとみたいですね。それを夏恋とか春恋とか、石巻に恋しちゃった春の部とかそういうような事でしょうね。そういう風な事でパンフレットを見ると20~40名位の達人を作って、そして1000人も2000人もの人をそれぞれ習いに行く人を出会わせる。これもやはり自分らが必要なものを自分らで賄うという自給に該当する、ただし農作業とか大工とかそういう物ではない。都会的なものかなと思ったりします。

■田中淳介 2
私が思ったのはこれをずっと聞いてですね、ほんとうにそれで良いのかなあと非常に「ふんづまり」のような、頭の中でどんどん思ってくるという感覚がずっとありましてこれを何とかせんとだめだという事がありました。そうかと言って今阿部さんが言われたように何か才があってですね、それで活動して行くという事もなかなか自分にはできないし、という意味で言うと阿部さんと最初の頃だったと思うのですが去年に「田中さん、何でこれをやってるんですか」と阿部さんから質問されてですね、基本的にイベントみたいや支援をやっている訳ではなくとりあえず情報を知りたいと具体的には現場の人、あるいは現場で色々な支援をしている人の話を直に聞きたいと言う所しかないと阿部さんに言った記憶があるんですが、その時にはそれを聞いてどうするかという事はノーアイデアだったんですが、先程も言ったように結局記録に残してそれを皆さんに読んで頂ける程度の物にしていく事が僕らの出来る力量というか領域がないのかなあという感じが非常にしました。一時福島の芸能みたいなものを呼んでイベントするという話もあったんですが、どうも気持ちとしてしっくり来ないと言うこともありまして、なかなかご協力出来なかったのですが、そういう意味で言うと今までの性格の限界というか仕事の限界というかその辺を強く感じています。その中で色々多彩な人とたくさん会えて良かったなあと思っているのですが、ただ私がそれを出来るのかなあと、それはなかなか難しいかなあと思ったりもしています。

「毎月11日の会」9月例会―自給的生活のなかで自分にできること―藤原 誉さん

スピーカー 藤原誉 京都府南丹市美山町在住 自然体験レストラン「田歌舎」代表
日時・場所 2013年9月11日(水)大阪市立総合生涯学習センター第5研修室

20年前、美山に移住し10年前に「田歌舎」をスタート
京都府美山町、南丹市美山町のほぼ最北に近い由良川の源流域になる清流美山川、その源流域の地域で自給自足的な暮らしをしながら、レストランをしたり、自然体験を案内したりというようなことで、移住してから20年目に入りました。元々こうやって独立してお店をしていくというようなビジョンを持って、美山町に行った訳ではなかったんです。入って行って自分が暮らして行く中で、美山町の中で得たことも含めてお店がやっていけるんじゃないかなということで、あんまり欲もない中で始まりました。そこにスタッフたちが集まって来、今では専従で常に45名のスタッフがいる、例えば地元の男性の方とうちのスタッフが結婚をして、今は産休だけどまたいずれ手伝ってくれるとかいうふうに。僕のまわりに集まった連中たちが、常時78人田歌舎を手伝ってくれ、ちょっと大きな所帯になってきているのが、現在です。
「福島の子供たちを受け入れる」というところをメインにお話していくんですが、その受け入れる土壌として、うちがどんな取り組みをしてるんだというところから話をしていきます。うちのお店、農園、自然体験など田歌舎の営みをスライドショーで流します。皆様のお手元に「おひさま発電所ができました」というパンフレットがあると思うんですけど、そちらの方をちょっと見ていただいて説明させてほしいんですが。約10年前に独立してお店をスタートしました。その時には僕の嫁さんが食、料理にこだわりのある料理上手で、レストランをしたいねということがひとつと、僕が元々移住してきたきっかけというのが、都会的な暮らしに疑問があって、食べ物を作るとか建物を造るとか、そういう自分で生きる、衣食住の部分を自分でやりながら暮らしていきたいなという思いがあったからです。農業とか狩猟、採取とかいった部分で、食べ物を獲得するということが得意な分野でしたので、自分たちが作ったものでレストランをしようということがありました、あとアウトドア好きで川下り、ラフティングとかカヌーとか滝登り、動物も自然も草花も好きですから、自然案内、山登りの案内というような形で自然案内もするスローフードとアウトドアのお店というふうに冠をつけて、屋号は「田歌舎」です。「たうた」というのは地名です。僕の住んでいる集落が、たんぼとうたと書いて「たうた」と読むんですけど。この美しい地名を屋号に使わせてもらおうということで、「スローフードとアウトドアのお店、田歌舎」をスタートしました。

3.11を経てできたキャッチフレーズ「遊・食・住」+「エネルギー」
スタッフ達が集まってきて、できることが大きくなってきまして、この10年間という時間を経て、3.11を経てきた中で、うちのお店色んなことをやってるお店だから、今までどういうふうに言葉で表現できるのかなと難しかったのですが。長らく「スローフードとアウトドアのお店」て言ってきました。そんななかで新しいキャッチフレーズでうちのお店を伝える言葉が生まれてきました。それがパンフレット開いたところの下の方に書いてある、「遊ぶ」っていうのと「食」っていうのと「住」っていうのとで、「遊・食・住」という言葉。衣食住をもちろんもじっているんだけど、食べ物に関して、田畑は一町以上持ってます。一町一反の田畑をやってます。田んぼで九反、畑で二反ほどやっております。建物は、僕自身の家も、僕よりも立派な大工さんは誰一人使わず、すべて僕と僕のスタッフたちで建てました。もう一つは、遊ぶという部分ですね。今ここにお集まりの方は僕よりも年上の方ばかりかなと思うんですけど、我々の世代くらいまでは、遊ぶということを子供たちに提供しなきゃならない、遊ぶ場所を与えなくちゃならないなんていうことを、考える必要のなかった世代だと思うんです。でも今は遊ぶていうことも生み出す、与える場を作るっていうことをしていかないと子供たちが成長できないという時代に入ってきている中で、遊びも作るってところが必要だということです。遊ぶってこととレストランっていうことは別の軸のように見えるんですけど、そうでなくて同じ軸の中で提供してるってことを伝えたいって思いがあり、「遊・食・住」って言葉がいいなと僕の中でなってきました。
 あと自給すべきものとしてエネルギーですね。よく自給自足なんていってるけど、3.11まではエネルギーの自給なんていうことにあんまりこだわりがなく、僕自身もそれ以前からエネルギーの自給はしたいとは願ってたんだけど、それほどに切羽つまるものはなかったわけです。3.11の原発の事故を受けて、ほんままさに切羽つまる思い。それを後回しにする訳にはいかないなという強い思いを抱きまして、たった今もそこに向かっているわけですけども。エネルギーもやっぱり自給しなくちゃいけないというふうに思ってます。
「遊・食・住」プラス「エネルギー」っていうことで、自給的暮らしの見えるお店っていうことを、うちのこれからの「田歌舎」の冠に乗せキャッチフレーズにして行きたいなと思っています。

建物は地元材、天然の舞茸、合鴨農法で米づくり、男性は猪や鹿猟、女性は鶏を捌く
(画像をみながら)これマイタケね、実はまもなくなんですよね。2週間後くらいからマイタケ捕りが、冬のメニューなんかでずっとお客さんに鍋料理、これ鴨をさばいているところですけど、合鴨農法のカモたちが、これから秋の料理から冬の鴨鍋の料理へ変わっていくんですが、そこに天然のマイタケも必ず登場するって形で。春までのマイタケを確保する。
これは今のお店、ログハウスを建てている写真ですけど。お餅も全部杵搗きします。もちろん自家消費、お客さんにも食べてもらう分。あとは道の駅なんにも持っていったりします。このお餅も合鴨農法で無農薬で作っているお餅、美山町の中でも同じように農家の方が色々工夫して道の駅に置かれるんですけど、なかなか無農薬でできてるとこは少ないと思います。あと赤米とか黒米とか古代米なんかも販売させてもらっているんですけども、割と中心に置いていただいて売ってもらっています。
建物もできるだけ地元材を使おうと、もちろん角材とか量が多いときは地元の製材屋さんにお世話になることもあります。このログハウスは20年近く住んでいるもので、地元の林業家の方たちとも当然によい交流をしてますので、自分たちで木を切って小さなトイレぐらいは作ったりはするんですが、この大きな建物に関しては地元の間伐材ですね、割と細いひょっとしたらそのまま山に倒したまんまで枯らしてしまうような木を入れてもらって建てています。
うちのスタッフたちは猟師、ハンターでもあるので、山から猪や鹿から捕ってきます。そういう肉を男は獲って解体をします、女性はそれを更に骨を抜いてきれいな生肉にして、パック詰めをして販売まで持っていく、自分とこのレストランに出すものもあります。鶏を生きたまま殺して鶏肉にするのは女性スタッフの仕事で、すべての女性スタッフが鳥を捌きます。
お金のことを隠しながらしゃべると伝えにくいので話しますと、年間2,000万円くらいの売り上げ、スタッフで結婚してる組が3組、3つの家族を入れたら僕らも含め4つの家族を支えていかなあかんということです。その2,000万円っていう金額は全然大きな金額やなくて、まあなんとか支えていけてるという金額です。
農業っていうのが、今成功しても大したことなく、失敗したら大赤字っていう非常にお金儲けという観点ではホントに厳しい分野なんだけど、僕が話すときに必ず伝えているのは、色んなことやってるんですけど絶対やめれないのが農業やと思っているんです。農業はね、やっぱり困った時に最終的に食べ物があるっていうことの大切さがあると同時に、食べ物を作るっていうことは人を育てます。うちのスタッフたちみんな2535くらいの年代ですけど、皆ものすごくいい男で、いい女でしっかりしてます、考え方も。強いです、すごいたくましいです。そういう心を、体もそうですけど、心も含めて育む部分で農業っていうのはとっても大切な部分です。
こんな唐辛子を採ったら一味を作ったり、タバスコ作ったり調味料なんかも作ります。お味噌作りも当然するんですけど、お味噌も麹から作ります。その麹のお米は自分とこの無農薬のお米で作るというように。田んぼも9反の田んぼの苗を農協から買ってくることもなく、米粒の種まきからすべて自分たちでやります。このような手作りのものをレストランでお客さんに食べてもらったり、宿泊のお客さんの晩ご飯、朝ご飯で提供し触れてもらったり、食だけじゃなくて食は自然が育むものなので、自然を知ってもらいたいと色んな自然の体験もやってます。

NPO法人「芦生自然学校」の起ち上げに参加
大きな広いところは自然学校のキャンプ場なんですけど、田歌舎とは別に地域のまた他の施設の方と共同で自然学校というものをNPO法人で起ち上げています。僕自身事務局長という形で携わっているんですけども、色んな学校の林間学習とかの教育療法なんかも年間5校から10校くらい受け入れるプログラムの提供もしています。
そんな中でうちのような業態、言葉では表現しにくい不思議な不思議な業態やと思うんですけど、大きなくくりでいくと自然学校というくくりになるんですね。でその自然学校という業態が、30年くらい前から生まれてきた業態です。何を目指してるんだ何をしてるんだっていうと、以前は子供は十分に成長した、学校に預けていたら勝手に育ててくれた、しかし30年ほど前から学校に預けているだけでいいのかと、欠けていることがあるんじゃないかなっていうことで、まあ僕らの一世代上の世代、創始者にあたる人は60歳代後半くらいの方になってきてますけどね、学校教育の中で欠けていることを提供していきたいというところから生まれてきました。当初はなかなかそれが仕事、本業として成り立つという次元ではなかったわけですけども、それこそ例えば川遊びをする山遊びをするっていう案内を、お金をもらってするっていうことに対して社会的な抵抗、なんでそんなものにお金を払うねんっていう時代を超えてきてます。今ここ映像でてくるように、ゴムボートで川を下るなんてことはかってではまったくなくて、遊びにも色んな自然との触れ合い方のメニューも増えてくる中で、それにお金をいただいて自然案内を提供するっていうこともこの20年、30年の間にどんどん発達してきています。
もちろんこういうふうなスポーツ的な体験だけじゃなくて、もうただ広場で子供たちを自由にほっておいたら、自然と子供たちが土を使った遊びをし、最初は虫が嫌いやって言ってる中でいつの間にか虫のことを忘れて野山で走り回っている、そういうような色んなシーンを自然学校の中で子供たちに作り出していく、そういうことが広がってきました。田歌地区では田歌舎が、江和地区には江和ランドっていうところがあります。同じようなことをやっているとライバルっていう意識が生まれてくる、お客さんがあっちにも行ってしまうやないかという意識が生まれることがありますが、自然学校を興している人たちっていうのは、自分たちのとこにお客さんがたくさん来るってことを第一番に考えてる創始者は誰もいないんです。もっともっと多くの子供たちにこの自然体験、今欠けていることを体験してもらいたいという願いを持っています。自然学校や自然学校らしき団体は、15,000位がカウントされているんです。その中で自然学校で経営を、ちゃんとそれだけで生計を立てていくという状態を作れている団体は3,700位とカウントされています。おもしろいのが、色んな自然体験の仕方、提供の仕方があります。うちなんか鹿の解体なんかも子供たちと一緒にするようにそれぞれの個性があって、3,700の個性があるとも言われています。そんな中で我々の同業者仲間たちは、切磋琢磨し情報交換しながら「ああこの団体のやってることはいいな、うちもやってみよう」っていう時「じゃあやるんだったらこのノウハウを全部渡すよ」っという形で、協力関係、絆が強い業態です。
今流した映像は「芦生自然学校」、先ほどお話した僕らが作ってるNPO法人の自然学校です。月に大体1回ペースで約20名、このプログラムは4年目の活動なんですけど。自然学校の方はもう10年くらいやっています。1年契約で、4月に15月に1回、夏はキャンプをし、ゴールデンウィークにキャンプがあって、夏休みに3泊4日のキャンプ、秋にも冬にも1回ずつキャンプがあってという形で、1年間同じ子供たちが集まって来て、農業なんかも春に種まきしたジャガイモが夏場のカレーライスに変わるとかやりながら、川下りをしたり、その季節において順番に体験をしていく。春卒業で一年を終わっていく。ものすごく子供が成長をしていくプログラムです。
参加費は高いです。1年間で今96,000円いただいてます。単発の時はその日楽しかったというその瞬間の思い出だけになるプラスもあるんだけど、一年間同じメンバーでこういう体験を共有していくとコミュニケーションが生まれる。もちろんケンカっていうか葛藤も子供たちの中に起こったり、励ましあいがあったり、ある分野では頑張れる子が、ある分野では頑張れないときにまたそこでお互いの協力が生まれたり。子供たちがものすごく成長するプログラムです。富裕層の方たちが子供を送り込んできてるんかというと決してそうではないです。だけど子供たちが行きたいと言ってやってきて、その一年間の成長を見届けるとまた行きたいと言った時に、もうなんていうかな、親からしてみるとだいぶん懐が痛くともその成長を目にするとお金も出してくれる。そんななか少しずつ口コミもあって広がっているという活動です。

福島キッズプログラムの成り立ち-理念に賛同し参加
 そういうようなプログラムを福島の子供たちに提供したいなということで、京都プログラムを僕が手を挙げて呼びかけて受けることになったんです。
福島キッズですけども、実は僕が興した事業ではなくて、今説明した自然学校の業態の中から生まれてきた実行委員会です。この委員長の進士徹さんは、NPO法人「あぶくまエヌエスネット理事長」です。「エヌエスネット」っていうのは、ネイチャースクールネットワーク、簡単に言うと福島で僕らがやっているような芦生自然学校のような自然学校をずっとやってきた方です。3.11において今まで作り上げてきたこの自然学校がもうまったくもってできない、という事態に陥りました。そんな中で自然体験なんていうてる以前のこの状態になったときに、さあ進士さんの立場で一体何ができるんやと考えられた。子供たちをまず少しでも、他所の仲間のエリアに受け入れてもらって、放射能に対する有害なものを体から抜くっていうこと、精神的な部分で本当にこうたくさんのストレスを子供たちは受けている中で、少しでも開放されて、外遊びを楽しんだりしてもらいたいと。またそれだけじゃなくて、単純に自然体験を楽しい思いをするということだけじゃなくて、こういう苦難を乗り越えていくからこそ成長する、子供は成長していく部分があるんだと、ただ単純に保養に行くということじゃなくて、そのプログラム自体も子どもたちが育まれていくようなプログラムとして提供していくというやり方でこの進士さんが、3.11まで取り組んできた自分の自然学校のノウハウを生かした福島の支援としてやって行けないかということで声をかけたんですね、皆さんに。
 3.11のあったその春には動きだし、2011年の夏に一回目の活動がスタートしています。その時にはやっぱり受け入れの基盤として一気に広がるわけじゃなかったので、教育支援協会の母体がしっかりしている北海道が受け入れ先となってスタートしたっていう経緯があります。そこから受け入れ先が一箇所だけでは子供たちを受け入れるキャパシティ安全管理の問題含めてあるということで、全国の自然学校の中のネットワークの中で進士さんから「ふくしまキッズ」を次に受け入れ先を探しているんだというふうな呼びかけを受けました。僕自身、地震があった際ボランティアで現地に飛び込むってことは出来なかったですから、何らかお役に立てる方法はないかな、支援できる方法はないかなっていう思いは持っていました。僕は医者じゃないから詳しいことはわからないんですけど、1日2日離れたくらいでは下がってこない一定のものが、長期間4日5日と離れた、きれいな正常なところに行ったところからぐぐっと下がりだす時期があるそうです。体が浄化されていく時期があるようでして。やはりその長期間出るっていうことが、子供たちの体の中の毒を抜くっていうことに、非常に重要で効果的だっていうことがお医者さんの方では言われているわけです。その時に子供たちを受け入れて、楽しませてあげて、で少し放射能の体にたまったなんか有害なものを、そういう形の貢献の仕方ができるということで、何とか受け入れたいなというふうに思いました。
関西にも自然学校たくさんあります。うちらのように田舎で基本的に都会の子供たちを迎え入れるというようなスタイルの自然学校もあれば、逆に都会で自然学校を運営していて子供たちを集めて、子供たちとともに色んな場所へ訪れるというようなそういうスタイルの自然学校もあったりします。そういうそれぞれの得意分野とかあります。受け入れる能力としては、美山町だけで、我々の自然学校だけですべてのプログラムを受け入れることもできるんですけども、そうじゃなくて皆で協力して受け入れようよということで、関西でもネットワークを組んでいるんですけども、その関西環境自然教育ネットワークという中に僕が呼びかけまして、そのネットワーク全体で京都プログラムを計画しようということになりました。

ふくしまキッズの目的
~パンフから部分抜粋~「活動拠点と支援の輪の広がりを作り出すことはこの活動の大きな目的の一つで、それは、この活動を通して支援の輪を日本中に広め、日本社会に“子どもは社会で育てる”という考え方を定着させることである。ふくしまキッズの活動が2011311東日本大震災における支援活動の中で記録に残る活動の一つと言われている理由は、その規模の大きさだけでなく、他でも行われている“短期の保養・引き受け活動”とは違って、最長41泊という長期宿泊の引き受けと同時に、福島の子どもたちの学びと育ちを支援する教育事業であることだ。その教育活動の基本は多様な自然体験を基本にして、引き受け地の人とのふれあいを通したコミュニケーションを作り出すことで、将来の復興福島の心ある担い手を育成することを目的としている」とあります
僕自身もこのふくしまキッズ実行委員会のこの方針に賛同したので、だからこそ一緒にやりたいな思ったわけです。
それと京都プログラムでは先ほど紹介いただいた田中さんの奥さんがお隣の江和集落にいるんですけど、奥さんを含めて江和集落のお母様方にも手伝ってもらって、子どもたちが美山で滞在している7回の朝食を地域のお母様方に作っていただき、公民館で子どもたちに食べてもらうというようなことを、プログラムの中に入れています。その理由ですが、できるだけ多くの人、言葉悪いですけど巻き込む、携わってもらって、その子どもたちに触れてもらう、その活動に関わってもらうということの中で、今ここに福島の子たちが来ているよ、その中でこんだけの人が関わってやってるよっていうことをこじんまり、誰にも見えない中でやっていくことじゃなくて大きな支援をいただきながら進めていくことで、風化させないってことも大切やと思います。
関西ではともすれば、もう普段この原発の問題とか含めて、電気の問題とか含めて、3.11のこともう記憶からないのかなというような生活ぶりが見えるわけです。多くの人が何かできることがないかなと思いつつも、やっぱり日常の皆それぞれに生活は大変ですから、日常の中に追われてなかなか、機会があればと思いつつもできないという人の方がやっぱり多いわけですよ。そういう時に活躍していただける場を提供するっていうことも、この今の文章の中にある“子どもを社会で育てる”ということの一員に参加するっていうことも大切、そういう機会になるっていうふうな考え方があります。そういう思いもあったので、あったからこそですね、本当は朝ご飯朝食含めて我々のいつも仕事している者同士の中で完結することができるんだけれども、そうじゃなくてみんなで入ってもらおうよ、というやり方を選んでプログラムを作っています。
あともう一つの大切なことは“短期の保養・引き受け活動”ということじゃなくて、強く感じているのは、また子どもたちの受け入れをとおして感じたことは、関西の子どもたちは今3.11によってそれほど変わらず今も過ごしていると思うんだけど、福島の子どもたちは本当に苦難を乗り越えて成長していかざるを得ない環境にあります。本当に大人びた言葉で考えざるえないそんな中で成長していっています。社会の暖かいいろんな支援の中で、もちろん支援が多いことによってわがままになってくるというような現象も実は見えてたりもします。「福島ビーム」ってことばが僕らの中でキーワードになっているんですけど、子どもたちが「福島ビーム」をもっと出したら優しくしてくれるぞとか、そういうことを冗談でいうようなこととか。子どもたちって、成長の中できれいなことだけじゃなくて汚いズルイこととかいっぱいあります。そういうことも含めて子どもたちは、こっち側の関西の子どもたちなんかよりもいっぱい物事を考えて、今成長していってます。
我々の提供するプログラムは単純に保養ということだけじゃなくて、ある時にはきつく叱ります。福島の子はかわいそうやらからって、ここで優しく優しくしてあげようっというようなつもりはまったくないです。来た中で集団生活の中で、よくないことはよくない、そういう教育ってことをしっかり心がけてプログラムしていって、そういうことをとおして、きっとすごく素晴らしい人材が、この子どもたち、福島の子どもたちから生まれてくるはずだと僕は信じてます。
みながそういう素晴らしい大人に成長していってほしいわけだけども、まあそれは一つの願いとして、それこそ今の世の中の行き詰まりを打開するような力のあるような子どもたちが育つと考えています。この福島の子どもたちから、そういうふうな期待も感じられます。そういう願いを持ってこの活動をまだこの先数年間、続けて携わっていきたいなと。ほんとにわずかな社会貢献ですけども、僕の方の気持ちとしても「子どもは社会で育てる」っていうことの、特に福島の子どもに何か手を差し伸べるならばって、僕にやれることはこういう形かなっていうことで、参加している、あるいはしたいなと思ったということですね。

ふくしまキッズの運営資金-寄付、ボランティア、保護者負担
今福島では本当に数多くのこういう保養というか、子どもたちを外に連れ出して行こうという活動があります。ふくしまキッズ以外にも本当にたくさんたくさんあります。今、福島県がいろんなこういうふうに子どもたちを連れ出そうという支援団体に対して、13の団体を県として認めますという団体に指定しています。その中の一つにふくしまキッズも入っています。
その中でちょっと言葉悪いですけど、有償無償の支援の手があるときにですね、全額無償だということでやる中で、また親たちも色んなご家庭がある中で、なんていうかな無償だから行かせようとか、してもらって当たり前だとか、その親の姿勢がですね、無償でやっているとこは行き詰まりを起こしている活動が実は非常に多いんです。またその呼びかける団体の多くは知らないんですけど、してやってるというような姿勢というか、実際内容がなかなか無償だというから行ってみたものの、なかなかいい体験ではなかったというような結果に終わるような活動もやっぱり多々ありました。その活動を起こした人が悪いというわけではきっとないんだと思うんですけども、まあなかなかいいことをやったから素晴らしいというわけじゃなくて、いいことをやっていく中で、またそこに色んな問題が生まれてくることも実際あるんです。
 ふくしまキッズはその保護者から参加費をいただきます。親は子どもの健康のことを本当に心配し健康に育てるっていう義務があるわけですよね、その中で親は自分たちの家族経営・仕事のこと、あるいはひょっとしたら代々引き継がれてきた自分の土地、とかそういうことの中で悩んで悩んだ末に、福島に住んでる方っていうのはやっぱり福島に留まることを決意したんですよね。でもそれはひょっとしたら子どもの将来を奪うかも知れないという不安があるわけです。そこを施しを受けて子どもを出すというだけの考えじゃなくて、やっぱり私たちは福島に残ることを決意したが、だけども子どもは守らなくちゃならないという強い意志をやっぱり持ってる親はたくさんいます。そんな中で子どもに何ができるんだという時に、ふくしまキッズとの出会いがあり、一定のお金を支払ってでも子どもを出すべきだというくらい強いしっかりした思いで子供たちを出して欲しいというそういう願いによって、参加費が設定されています。その参加費というのは交通費程度というふうになっているんですけども、実は3万円もかからない横浜っていう受け入れ地があったりもしますし、3万円ではまったくきかない九州の離れ島があったりもします。だからそれは子どもが活動するための参加費として払ったという考え方ではなくて、このふくしまキッズの活動自体の活動の継続に対して寄付していただく人も含めて、保護者の方も同じように協力してくださいというそういうお金なんです。
活動資金というのは寄付で支えられています。特別支援団体としてGlobal Giving、海外の寄附団体です。これはインターネットを利用したような寄附ができる、クリックをポーンと一つ押すだけで、そこから寄付の方法がずっーと順番に簡単に出てきて、自分のクレジットカードの番号を入れたらそれでスッーと寄付できる。今このGlobal Givingからの寄付金が、この1年間に入ってきている金額でいうと5割以上になってきてます。
今2億円越えているわけですけど、お金を使うばっかりの活動ですので、全然足らなくなる可能性は充分にあるわけです。3.11の直後1年間は大きな支援金が集まってきたわけですけども、年数が経つごとにやっぱり下ってくるんです、集められる資金が。そんな中でお金がなくなったから、活動が停止しましたということにならないように、また本当に我々も色々な手立てを考えて動いているんだけど、まあそういうことも親御さんに理解していただきながら、この活動がまだ継続できる資金を、という意味も込めての値段であるということです。横浜はだから1万円にしようか、北海道だから5万円にしようかとそういうようなことが議論になったこともあったんだけども、今のような理由でこれは一律でいいだろうと、一律であるべきだというふうな考え方に立っています。

ふくしまキッズ-「放射能の脅威から子どもたちを守る」という活動
~パンフレットから抜粋~「ふくしまキッズの活動には色々な誤解やそれに基づいた批判や質問が寄せられることがある。一番よく寄せられる批判は、ふくしまキッズが福島県内に住居をもつ家庭の子どもたちだけを対象としていることについてで、なぜ県外避難者の子どもは参加できないかというものである。確かに、福島県外に避難している福島の子どもたちも大変な状況にあることは事実だが、我々民間団体にできることには限界があり、今、目の前の放射能の脅威に悩む子どもたちに対して、原子力発電によって電力供給を福島に押し付けてきた我々社会の責任を果たすということをこの活動のミッションとしているため、現在福島県内で生活せざるを得ない子どもたちを参加の対象としていることをご理解いただきたい」
関東の生活を支えているのは福島県の原発なんです。だから福島が困難になっていることの原因ていうのは、関東に住む人すべてにやっぱりあるわけなんですね。お世話になってきたからこそ、ひょっとしたら今の福島を救う義務があるのかもしれない、そういう考え方です。そこの部分です、電力供給を福島に押し付けてきた我々社会の責任があるのではないかと。みんなにあるのではないかと、福島県外の人にも。そういうことの責任を果たすということをこの活動のミッションとしてるっていうことで、たった今福島県の事故による脅威にさらされている子どもを限定するんだということになっているということをご理解いただきたい、ということです。
~パンフレットから抜粋~「またふくしまキッズの活動は反原発運動だという誤解もある。この活動に参加している団体や個人に色々な考えがあることは確かで、実行委員や支援委員の中には反原発の立場を明確にしている方もいる。しかし、反原発であろうが原発維持であろうが、どのような考え方を持つ人も“子どもたちを守る”ということについては協力できるはずで、今回の原発事故による放射線が子供たちに影響を与えることを心配しない人はいないからである」 
これも子どもたちを守るということに反対な人間がもしいたとしたら、それはその人はあんまり生きててもらう価値がないんじゃないかなというレベルです。それは政治家であったとしてもですよね。今でも自民党はその原発をまた造っていこうという動きがあったりします。色んな動きがあるんだけど、でもおそらく安倍首相であろうが、民主党の代表であろうが、公明党だろうが共産党だろうが、子どもを守るということのこの1点についてその考えに反対するっていう人間はまあいないはずです。
このふくしまキッズの活動っていうのは、だからそういうことで、「原発反対や」ってことを表明したいがためにやってる活動じゃないです。たった今この脅威にさらされているかもしれないですよね。チェルノブイリの件があります、その45年後、まあこの後に書いてあるんですけど、甲状腺がんがでるかもしれない。あるお医者にしたら、絶対に出ると。福島に子どもたちを住ませちゃ駄目だという人もいれば、問題ないっていう人もいるわけです。それまずわからないんですよね、ようは今わからない中にさらされている。ひょっとしてセーフであれば、それはそれでハッピーよかったね、ということで終われるわけですけども、そうでなかったとした場合には、ひょっとしたらこの子たちが5年後10年後に皆が生きていない可能性すらあるんですよね、可能性って意味では。実は春にふくしまキッズを受け入れた子どもたちの中に、すでに甲状腺がんの検査で引っ掛かっている子がいます、一番低いランクではありますが。でもそれはある医者に言わせたら、パーセンテージ的に何百人もいる中にそういう子は他所でもいるのではという数字なのかも知れないし、そうも言われるんですけど。でもひょっとしたらもうすでに原発の影響として出てきてる可能性もあるわけです。
でそういうところで身体の保養という意味も含めて、長期に離して行くということ、子どもを守るという行為、これは反対する人間はあってはならんと思うんです。

ふくしまキッズ-活動を5年間継続する意味
ふくしまキッズの活動は5年間で一旦終了するっていうふうになってます。それはそれをずっーと10年先20年先やっていく必要があるのかも知れないんですけども、まず一つの目安として45年後には身体の影響があるならばもう出てくるはずであるというのが、過去の事例、チェルノブイリ事例によってあります。その時にもしどんどん出てきたんだってことであるならば、その時にもうちょっと継続しようということは間違いやっていうことなんです。そうじゃなくて、もし影響が出てきたらそれは国としての大きな大きな問題です。この時点で国が子どもたちを守るために、何もできなかったらそれは間違ってます。
だからひょっとして45年後そういう身体の影響がはっきり見えてきた、その時に国が何も動こうとしないなら、て国に対してそうではいけない、子どもたちを守れということを訴えて行く方にミッションが変わる可能性もあるということです。どうなっていくかわからないですけど、そういうことも含めて5年間まずは頑張ろうと。そうすればまた次があるんじゃないかと。次もし我々が必要とされる何かがある時にはその時にまた考えて、また次の道に進もうかということになっています。

京都プログラム-地域の人々と協働して
 これまで説明させていただいたようなことに、僕自身が大きく賛同して心を動かされ、この組織の中で一員として実行委員会に参加させてもらった。そして京都プログラムを是非実施したいと思い我々の仲間を募り、できるだけ地域の人を巻き込み、地域・美山町の多くの方からお野菜とか食べ物もたくさん支援していただきました。そういう支援していただいたことに対して、それこそバナナ10本みたいな話から物資・お金含めて掲載しています。大きな支援だけでなくて細かい支援として京都プログラムでは財団法人美山自然文化村、美山は温泉が湧かない地域なんで、公共のお風呂っていったら自然文化村くらいなんですけども、そこでは子どもたちスタッフ全員の入浴、この活動期間2回、3回ほ無料提供いただきました。田歌地区江和地区なんかで公民館の無料利用及び朝食の給仕っていうようなことがあったりとか。あと個人名で河野賢司様、これ牧場されてる方なんですけども、美山の期間、毎朝の牧場の見学・案内、毎日牛乳をいただいたんです。朝ご飯に本モロコっていう淡水のおいしい魚があるんですけど、それを養殖されている方が提供してやろうってことでモロコ2㎏朝食唐揚げ用、大根15本とか本当に細かく書いてあります。
 これは京都プログラムとしてそういうふうにしようということじゃなくて、このふくしまキッズ自体の考え方として、すべての協力を可能な限り文字に変えようということで、すべてリストアップしてくれというふうにオーダーを受けてしています。書ききれない、表現しきれない支援っていうのもたくさんあるわけで、できるだけ文字にしていくことで他の色んな形で支援していただいた人にも気持ちは届くんじゃないかなということです。

1日目-まず城陽の施設で緊張をほぐす
 では京都プログラムの映像見ていただきます。ざっーとスケジュールをいいますと、福島からやってきたその日はまず京都府城陽市にある「友愛の丘」っていう財団法人の自然体験施設、YMCAとかのように歴史は長くて民間なんですけど、40年ほどの歴史のある施設です。我々の関西のネットワークの中の一員でもあって、受け入れ先として無償というわけじゃあないんですけど、大きく協力していただきました。
その城陽の施設に初日伺いまして、福島から新幹線で約5時間ほどかけてきますが、そのまま美山町までまた長いバスに揺られてやってくるというのは体力的にしんどいんじゃないかなということで、京都市の近郊の受け入れ先に入ってもらった。そこには美山は美しい山野なんですけど、なかなか平らな土地が少なく運動場のようなところをということもありました。僕らの業界ではアイスブレイクていうんですけど、まだ心が凍りついているようなところから心が砕けてみんなが仲良くなって、スタッフたちとともにこう笑いがでてっいうような、そういう緊張感をほどくために、体を動かすゲームがあったりするんです。そういうようなゲームをしたりしながら、この城陽のキャンプ場で過ごすという日にしました。
 福島では学校でもできるだけ体育の活動とかそれ以外の時間帯は外で遊ばないようにしましょうとなっています。僕も線量計を持って行ってきましたけど、そこらへんの草っぱらみたいなとこで、関西やったら全然、土地の持ち主さえ叱らなければ、そこでサッカーなりなんなりできそうなそういうところに線量計を置くとやっぱりひどい数字が出てくるわけですよ。できるだけ子どもには外遊びをさせない、したらダメよなんてことを親がいう羽目になっているってことで、やっぱりのびのびここで好きなように遊んでいいよという広場を与えるもうそれだけで子どもは夢中になって遊びます。遊びました本当に。2日目の午前中なんかは自由行動っていうことで、グランドがあったりボールがあったりするんで、バスケットする子サッカーする子、ドッチボールする子、ただ鬼ごっこをする子そんなふうに走り回る。

2日目から美山町-ゆっくりと生活、自然体験、地元の子供と
 2日目のお昼から移動して、美山町に入って行く。美山町に入ってくると僕のところと江和地区の江和ランドという観光農園に、それぞれ20名ずつ分宿という形で受け入れました。そこからメインの7日間、6泊7日の長期滞在のスタートとなります。
 基本的にはプログラムを詰め込みすぎないよう、忙しくなってしまうようなプログラムじゃなくて、朝起きてしっかりご飯を食べて、それから洗濯とか含めて身の回りの整理をして、遊びにでかけたりあるいはゆっくり自分たちの中で過ごしたりということをしながら、6泊7日を過ごす。その中のお楽しみとして、春先の雪解け水の中で川下り、ラフティングを体験してもらったり、残雪の残る山のトレッキングに連れ出してみたり、あるいはお餅つきをしたり、木登りをしたりっていうことを、6泊7日間の間に散りばめました。
 あとは小学生同士の地元の子との交流も是非したらいいなという思いもあって、教育委員会の承認もうけ、地元の小学校校庭と校舎も開放していただいて、先生も一部協力していただいて、子ども同士遊んでもらうということも、実施しました。地井小学校っていうんですけど、子どもの人数はみんなで30人もいないぐらいになってきているんですけど、そんな中にふくしまキッズの子どもたち36名が加わって60数名の子どもたちになったわけです。実はこの地井小学校も10年ほど前までは50人くらいの生徒がいたんです。それこそ少し前の姿を見るような、子どもたちが久々にあふれて、外で運動会のようにドッチボールなど楽しんでいる姿はなかなか感動的でした。
 子どもたちも、地元の子どもたちも基本シャイでなかなか最初に会話しない表に出たがらないなんていうことも日常ではあるわけだけど、福島の子どもたちが置かれている境遇なんていうことを事前にやっぱりよくよく考えて参加してくれてます。僕の方も子どもたちにお願いしたのは、シャイな気持ちがあったりするけどあんたたちが福島の子どもたちに最大にやってあげられることは、思い切って心を開いて一緒に思いっきり楽しむことだ。それが福島の子どもたちにあなたたちができる最大の支援だから、とにかく一番の元気と一番の勇気をだして一緒に楽しむよう頑張ってとお願いしました。だから健気にしっかり地元の子どもたちは期待に応えて、早くに打ち解けてものすごく盛り上がって終了の時間がきてももっとできないのという盛況のもとにできました。保護者の方もものすごい喜んでいただけて、よかったです。
 僕の仲間で兵庫県の丹波でパラグライダーをやってる方がいます。飛び切りの自然体験、プレゼントみたいな体験をさせてあげたいなということで、6泊7日を終了したのちにパラグライダーの体験もしました。
丹波は行政がこういう支援に熱心で、バスを出してくれたり活動に対しての支援金を出してくれたりしました。南丹市はちょっと渋っているんですよ、協力なかなか難しい自治体なんですけど。丹波市はキャンプ場も無償提供でやってくれました。

最終は京都観光-京都市の協力を得て
 パラグライダー、プラスキャンプということを丹波でやった後に、やっぱり関西にやってきたら京都に行きたいという。福島県は実は修学旅行は京都に来てない地域です。京都は修学旅行の受け入れ地としては都道府県で一番多いんですよ。だから全国からくるんだけど、福島県は元々京都に来てないんです。だから子どもたちがすごい京都の市内というのを愉しみにしている場所で、僕らとしてもそこをはずすわけにはいかないなということで、京都の観光を2日間、最後に取り入れました。
 京都ユースホステルがこれまた我々の仲間で事務局長をやっている男が、僕の強い個人的にも仲間なんだけど支援をいただきました。「宇多野ユースホステル」です。ものすごいきれいなユースホステルです、京都市の指定管理の施設ということで京都市の意向でその宿泊費は半額という協力を頂きました。市長の門川さんがものすごく支援に熱心で、まさに鶴の一声という形で減免措置をしてくれまました。あとマンガミュージアムというものがあるんですけど、そのマンガミュージアムも無料開放、短期間の交渉で支援できるものを提示してくれました。
 そんな形で子どもたちに京都観光、二条城なんかも観たりしながら、最終2日を過ごして京都駅でお別れ。下京区の区役所ですね、区役所の部屋をこれまたやっぱり解放していただいて、下京区の方もプレゼントを用意してくれて子どもたち全員に、まあそれで閉会式を行うということができました。

田歌地区でコミュニティエネルギーを実現したい
自給的生活の中で自分にできることのもうひとつの柱です。未来永劫にやっていけることです。エネルギーの自給の先駆者として地域のなかですすめていきたいと思っています。そのひとつの取り組みとしてソーラー発電を導入しなくてはならないということです。うちは獣肉の販売もしていて、ものすごい大きな冷蔵庫が動いています。鹿肉の販売だけで年間500万円あげています。実際に肉屋という一面もあるんです。電気代が月5万円位超えてしまう。大飯原発に頼っているそれを脱却するためにソーラーをいれました。実はローンでもよかったんですが、うちがこういう多くの発電できる施設というのもあり、できるだけPRできるような形での設置を目指して京都グリーンファンドというものと協同でやりました。出資金を募って寄付を募ってやるんですが、出資金は240万円集まったことと寄附金が40万ほど集まったんですが、寄付金はこういうパンフレットなどの活動経費になり、出資金200数十万はソーラーの設置後返済していく。出資10万円に9万円は5年後に返却する形になっている。1万円は、基本的に出資して元をとるという発想ではなく社会に貢献する。お金にゆとりのある人にお金という形の社会貢献をお願いしますと1万円を寄付していただくという形です。実は多くの方の支援を頂いて金銭的にはローンで作ろうということではなく、こういう活動として訴えるということでやりました。
その先、将来的には、美山町はすごく水の資源に恵まれているんです。水力発電、自然学校のキャンプ場では3.11の前に僕の提案で水の発電をしているんです、「田歌舎」で水路を利用してやっていこうと。今蓄電器が日進月歩で発達している、そう遠くない将来、自家用の蓄電器を設置してそこでソーラ―の電気を充電して自分の家で発電所が完結できる、技術的にそういう時代に来ている。今電機は関電のひとつの会社のものになっているんですけど、その電線が公共のもので道路と一緒、みんなの共有の財産という考え方に変わる時期がそう遠くない。もう変えるということが政府のなかで決まっている。インフラ整備を集落の中で電線を利用して送電をする、自分たちが作った電気をその電線を使って送電することが可能になります。それが出来た時にはコミュニティエネルギーができる。今は電気を「田歌舎」で完結しようとしているんですけど、田歌地区、例えば集落のなかで南地区には斜面にメガソーラーのようなパネルを置き、大きな水路の中に水力発電をおいて、変電所ではないですけど大きな蓄電システムを公民館のそばに設置し、そこから集落に電気を送るという電力自給ができる。いくらで電気を買うというのでなく、関電とのお金のやりとりと完全にお別れすることが技術的に可能になっている。
僕のできることとし、何を目指そうかなというのは今話したとおりです。先ずは自分の施設のなかで電力の自給を達成する、元々、薪などを使っ灯油資源、化石燃料も減らす努力をしています。今努力しても出来ないのが自動車です。ハイブリッドにもなっていないし、電気自動車に移行して行けば100%はできないけれど化石燃料を減らすことは出来る。あとはバイオマス木材燃料、そういうのを取り入れていったなかでエネルギー自給を高いレベルで実践していきたい。そのことを集落の合意と賛同を得てコミュニティエネルギーを田歌地区の中で達成したい。そういう願いを持っていて、自然エネルギーフォーラムを自然学校の仲間たちで去年関西フォーラムを主催しました。140名程の自然エネルギーに関心のある方が集まり、そのなかには自然学校や環境系の方もいました。例えば風レンズ風車を開発している会社の方、自然エネルギーの機械を作っている方も関心をもっており、今年田歌地区で秋のフォーラムを開催します。全国から集まってそこでぼくが狙っているのは全国の色んな情報、自然エネルギーのこんな道具あるよ、こんな機械あるよ、値段はいくらとかそういう情報を解っているわけではないので理解して設置を目指さないと、技術は日進月歩なんで。この水力発電いいなというと100万する、それがある日には10万ででこんなものができるという時代なんです。そういう情報を地元の人に知ってもらってこの田歌地区ならこんな自然エネルギーを実際にこの位のお金でできるんだという情報を与えてもらう。全国のいろんな関心の高い人に見てもらって、ここにこんな斜面があるならこの川の流れがあるんならこんなことできるんじゃないか、実際の田歌の土地のデザインをしてもらう。今年の秋のフォーラムで私が実行委員長で実施します。
この次の狙いがあって、これを成功させて、田歌集落の人にその後に田歌地区が一刻も早く自然エネルギーの里になる、これは圧力をかけるのでなくみんなのビジョンとして目指していければいいなと思う。おそらくフォーラムを終えた後、こんなフォーラムならうちの地区に来てやって欲しい、この話を聞かせて欲しいというのが生まれてくるんじゃないかと思うんです。うちにきてくださいという誘致する先を募っていったら来年再来年のフォーラムに継続していく。その時は実行委員長ではなく実行委員で、僕がやる私がやると受け継がれていくようなフォーラムの皮切りにしようと思っています。僕のできること、福島キッズとあわせあてこのふたつです。