2013年6月23日日曜日

2012.11.11例会 被災地へ出掛ける気持ち-立嶋滋樹さん 白政桂子さん

スピーカー 立嶋滋樹  画家 
 白政桂子  コピーライター
日時・場所 20121111日(日)大阪市立西区民センター第5会議室


(前書き)スピーカーのお二人は偶然同じころに被災地を訪問された。11月例会では訪問前後のお気持ちやご感想を話していただいた。

『震災後のこれからを考える』  立嶋滋樹(画家)

 当日はアトリエで制作中だった。ラジオをつけると「福島原発が電力を失って冷却不能の状態になっている」とニュースが流れた。エエッ、冷却できないということはそのあとはどうなるのか。なぜそこから先を言わないのか。そのことがずっと気持に引っかかっていました。その晩アメリカにいる同級生から「アメリカはもうメルトダウンが起こったということで次の対応に入っているよ」と教えられた。若しかすると故意に尻切れトンボにしているのじゃないかと思った。
しかし同時に流れた津波の映像は強烈でした。母の出身地は熊野市新鹿町で、そこの地形は陸前高田にそっくりなのです。その浜辺で泳いだ子供のころ「誰かが津波が来たと言ったらあの丘まで全速力で走るのよ」と教えられました。海で育つ人にとっては当たり前のことでしょう。だが津波で町ごと切り取られるような光景はあまりにもショッキングでした。
それからしばらく絵が描けませんでした。このまま絵を描いていていいのだろうかとあれこれ考えました。例えば日本人は昔から災害とともに生きつづけ、復興し続けてきた。危機に陥った時でも優れたリーダシップが発揮されそれを乗り越えてきた。そういう自負心みたいなものが、日本で美術をしていく者の根底にあるべきだと思う。絵を描いているのはそれを肯定したいから描いているわけです。
ところが原発と津波のニュースを見てからそんなもの肯定しなくてもいいじゃないか、意味がないんじゃないかという気持ちに捉われなかなか作品が書けなかった。初めて真っ黒な絵を描いたのはその頃です。
自分はなにもできないことはわかっているがニュースを聞いているだけでは自分はどうしようもない。但し行っても何の役にも立たない。戦力になる人は直ぐにでもいける。気持ちはあるけれど何もできない人間が行ってもいいのだろうか、とまだ迷っている時ある人がふと同じ国に住んでいるんだから、お見舞いぐらいは行かないといけないかなといわれたので、ああそうか、お見舞いにね、それでいいよね、じゃ行こうと踏ん切りがつきました。
5月3・4・5日鳴子温泉の湯治宿が1件だけ予約でき、一緒に行ってくれる友人も決まりました。奥さんと娘2人の家族連れです。毎日宿を出ては石巻、気仙沼、陸前高田などを訪ねました。小5と小3の子どもは2人ともおとなしく淡々と見ていました。ただタンカーがぶつかって燃えた小学校を見たときは怖がっていました。
行ってきたよかったのはテレビのニュースを見たり人と喋ったりする時自分の体験として実感を持てるようになったことです。また風評の問題についても考えました。風評は災害がはっきりしないから起きる。福島の食べ物についてもちゃんとした数字がないので風評になる。
例えば国は放射線量の幾つが安全で幾つが安全でないなどと簡単に言い切れないという言い方をします。しかしそれは僕らの言う事であって、国の仕事はここは幾つだとできるだけ沢山情報を出すことだと思う。これ以上は危ないですよ、これ以下は安全ですよと決めるのは国の仕事ではない。決めるのは買う人、食べる人でいい。僕らが決めることだと思う。
どこに住んでも日本は災害に見舞われる。でもそこから生き延びるということはずっとやってきた。だからその普通の頑張りを妨げないこと。妨げるような考え方や方向には声を上げること。それは当事者より外からのほうができるのではないか。
例えば経済効率を最優先する判断が勝手に下されそれが既成事実化するような動き、原発の話でも続けるか続けないかではなく、続けるとか続けないとかの選択ができるような国になっているかどうかが問題。選べるような国づくりを目指しそれを具現化できるリーダーを探していきたい。

『85歳と行く被災地 女3人旅』  白政桂子(コピーライター)

きっかけは私のひと言
 2011年12月その年最後の稽古時に先生が「皆さん今何をしたいですか」と問われ、私は思わず「東北へ、被災地へ行きたいです」と返していた。現地に何のつてもなく、実際行くことが出来るのかも分からなかったが、行けるものならばと思っていたことを言葉にしていた。すると2日後に先生から「私も被災地へ連れていってください」と短く書かれた手紙が届き、これが被災地へ出掛ける直接のきっかけとなった。
 先生とは小笠原禮法の師で85歳、名古屋在住。小笠原禮法はその立居振舞をすることで体幹が整えられるため、先生のお姿は常にシャキッとしていて体力も私たちと遜色なく。とはいえ二人行はやや不安。そこへ同じ教室の友人が「私も行きたい」と手を挙げてくれた。日頃、両親の介護で忙しいにもかかわらずだ。お母さんが行っておいでと背中を押してくれたとのこと。おかげで彼女の運転技術がこの旅に加わり、レンタカーで福島へも足を延ばす行ことが可能になった。
 旅程は以下の通り。
5月24・25日 大阪-名古屋-(夜行バス)―仙台-塩釜―松島―仙台―南三陸泊
 26日 南三陸―仙台―(レンタカー)-藤島県二本松―須賀川泊
 27日 須賀川―相馬―海岸線北上―仙台―(夜行バス)-名古屋―大阪
 夜行バスは時間の有効活用と現地での有効支出のためだったが3人とも初めてで、やはり車中では眠れずきついスタートになった。初日は仙台から塩釜の酒蔵を見て遊覧船で松島へ。先生は被災地の瓦礫の中を歩いても平気なように、汚れてもいい洋服に頑丈な登山靴姿だったので、初日の感想は「この旅は観光なのね」と物足りない様子だった。

先生の叫び声
 3日目、福島から仙台への帰路は相馬から新地、荒浜、閖上の太平洋岸を北上。家の基礎部分だけが残るだだっ広い空地になった町が次々と。ああ、これは家の墓場だと思った。3人とも車の中から黙って見ているばかり。言葉が出ない。町の端には戦艦のような瓦礫が大きな塊が。その光景を目にした先生が「みんな早く引き取って」と突然叫び始めた。その時から半年経過した今も何も解決されていない状態だ。

福島の佐智子さん
2日目の夜は須賀川市の阿部農園に宿泊。同行した友人が新聞記事で見つけた果樹農家。応対してくれた佐智子さんのお話。「ここは原発から70キロ。放射線量は0・1とかで福島や郡山の0・5より低い。須賀川の野菜は大丈夫と言われているが震災後はめっきり売れなくなり人も来なくなった。何とかしなければと小さいながら継続する農家を目指すことにした。県外からも来てもらいたいので納屋を改造して民宿をオープン。三重県のもくもくファームの成功を須賀川にもと震災後何度も足を運び街おこしについて学んでいる」。そして先日の佐智子さんとの電話では「新しく調理室を作っているとのこと。野菜はその場ですぐ調理して食べるのが一番おいしい。しかし残念ながら福島では微量とはいえセシウムとともに暮らさないといけない。だからセシウムを浄化する調理方法や食事の仕方を宿泊客やここを訪れる人に伝えていきたい」と。私たち3人は佐智子さんの作った野菜を全部美味しく食した。

大阪へ戻って
 佐智子さんの野菜は大阪の自宅にたくさん送ったが、結局全部自分で消費することになった。ご近所の中には「あなたそんなの食べちゃだめよ」という人もいたし、子育て中の兄弟には「うちは子どもがいるから、それ持ってこんといてね」と言われる始末。一緒に行った人や共通の意識を持つ人にはいいけれど、そうでない人に福島の産品を気軽にどうぞとは言えないことを実感。先生もまた「誰にも彼にも被災地へ出掛けたことを話せないの」と残念そうにおっしゃっていた。
 もう一つ。私が見てきたことはほぼ報道と同じ。見てきたことを「やっぱり津波で何もなかったわと」か話してもむなしい。唯一言えるのは阿部農園さんで実際に聞いた話だった。例えばこの夏には桃を出荷されるので買ってあげてとか。つまりオリジナルな情報や個別的なことは伝える意味があるけど、報道の繰り返しは私がすることではないと感じた。次回は、この体験を活かした訪問にしたい。





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