2013年6月24日月曜日

2013.1.11例会 石巻で聞いた「3・11」の訴え-鈴木知英子さん

スピーカー 鈴木知英子  かしば女性会議代表
日時・場所 2013111日(金)大阪市立中央公会堂第6会議室

石巻へ行ったわけ
昨年3月11日大阪の追悼の会に出席し大勢の方とご縁ができました。奈良県のかしば女性会議は20年来日本女性会議の総会に参加しており、今年の開催地仙台には7人の仲間がいくことになりました。折角行くのだから被災地の復興の状況を見てきたいという声が上がり事務局と相談しました。だが日程、コースの調整がつかず結局去年の追悼会でお話になった萱場裕子さんのことを思い出し、ネットで調べたところ幸い萱場さんと連絡が取れました。どうぞ来てくださいということでとんとん拍子に話が決まり10月25日に石巻に行ってきました。
 萱場さんのおられる石巻復興支援ネットワークは市役所のすぐ近くです。小さな雑然とした事務所をやっと探し当て4階へあがって行ったら萱場さんが入口で待っておられました。ばあああっと抱きついて熱いハグしてくれました。あんなハグはアメリカへ行ったとき以来です。だが空模様が怪しく雨に降りそうなので椅子に座ったりトイレに行くまもなく出発です。8人乗りの車で萱場さんがドライバー兼ガイドでいろんなその日のお話をしてくださいまた。それからの1時間余りは皆々ガツンと頭を打たれっぱなしでした。

門脇小と大川小
 至るところ荒廃した空地です。田も畑も家も全部流れてしまった。しかし雑草は強いですよ、と萱場さん。言葉通りあちらこちらに雑草が逞しく伸びていました。やがてテレビにも度々映った門脇小学校。右半分は火災で焼け落ち左半分は津波で壊され何もない。ここの生徒300人は先生の誘導で裏山に避難して無事でした。ただいつもの訓練通り親御さんの迎えを待っていた子どもは犠牲になった。傷ましいことです。校舎には大きな横断
幕に「門小ガッツ 僕らは負けない」の文字が躍っていた。皆思わず拍手しました。
 一方北上川の河口から5キロの大川小学校。まさかここまで津波が来るとは思わなかった。しかし運動場で点呼している最中に津波が来た。たちまち校舎と生徒は呑み込まれた。108人の生徒中無事だったのは31人。11人の先生で助かったのは1人だけ。2日後仙台で大川小に子供を行かせていた母親の話を聞きました。「学校は孤立したが子供たちは大丈夫と聞いた。私は長女のミク6年生と長男のタクミ3年生が翌日には戻ると思っていました。寒い夜でした。停電の中眠れぬまま朝を迎えました。だが翌日から子供たちの遺体が見つかり始めました。やがて山のほうでミクが校内でタクミがも見つかりました。8日は卒後式。袖を通さぬ中学の制服だけが高台の自宅に残っています」
 門脇小の生徒が避難した日和山で萱場さんのお話。「ここで親と子が抱き合って喜んでいる姿。“無事でよかったなあ”と言っているその横で“もっとしっかりあの子の手を握っていればよかった”と泣き崩れるお母さんの慟哭の声が耳から離れることはなかった。あちらこちらに辛い悲しい場所はあるけれど、ここが一番つらい場所です」と言われました。

1年7か月経っても
まるで堤防のように高く積み上げられた瓦礫の山。この高校はスポーツの盛んな学校ですが運動場は瓦礫というより粗大ごみの山です。学校は再開され子どもたちはここへ通っています。通り道だけはありますが、これでは使いようがありません。1年7か月の間どうして処理できなかったのか何べんも思いますね。日本中の都道府県がうちは引き受けるとか引き受けないとか口で言っているだけでは瓦礫はなくなりません。
 次に萱場さんのご自宅と工場跡を案内していただきました。「これが私の家と工場です」と、さらっと言われました。再建費用は全部で9000万ほど。三分の二は完成後補助が出るが3000万は自己資金ということです、まだ鉄骨のままで復旧のメド全然立っていない。でもこういう話を私たちにしてくださる勇気というか力強さに心を打たれました。 荒れ地の中に「頑張れ 石巻」と書いた看板が見えます。あの日から花が絶えたことがないと聞きました。初めのころはこの前で2日も3日もじっと座ったまま手を合わせて、膝まづいたままの方が何人もおられた。ここでドイツの虚無僧の方が長い間尺八を吹いてくださったそうです。ウベ・ワルターさん。去年大阪の追悼会で私もお話と尺八を聞かせていただきました。ちょうど今回もじっと手を合わせていらっしゃる男性の背中を見ました。身じろぎもしないその姿を見てまずい俳句を作りました。
 寒風に 立ち尽くす背よ 誰を悼むか           知英子
 詫びか 悔いか 誓いか 「3・11」というさだめ    知英子

私に何ができますか?
お土産に布巾を持参しました。かやで作った奈良布巾といって有名なんです。タオルは支援物資で来るかと思いますが、女の人たちはいっぺん新しいお布巾でお茶碗を拭いてみたいんじゃないだろうかと思いました。それと縁起の良いフクロウの袋に支援金を入れてお渡ししてきました。石巻へ行くと決まった日からどこへ行くにもこの袋をぶら下げて寄付をお願いしました。入れたおカネは出せないし袋ごと渡したのでわかりませんがあとで「たくさんいただきました」お礼を言われました。
 仙台で開かれた日本女性会議では「女性たちが語る3・11 これまでと今と」というシンポジュームがありました。ここでは「みんなが自分の身の丈に合ったことをやっていきましょう」という訴えに共感しました。また「仙たくネット」というグループのボランテイア活動が心に残りました。被災地を車で回り女性から汚れたものを預かってきれいに洗濯してお返しする、洗濯代行の仕事です。水は貴重品だし、洗濯機もなかったから初めは恥ずかしいと言っていた人もだんだん、助かりますと喜んで預けてくださるようになったそうです。
 わたし、小さいことしかできないと思うのですよ。大きいことをしたいと思ってもできない。それで盃にいっぱいのことしかできないんだったら、この盃一杯を大海へ注いでも何にもならない。小さい受け皿のところへ持って行ったらいいのではないかと思いました。 私になにができますかって。石巻でも仙台でも忘れないでくださいという方が多かった。だから私に何ができるかな、と考えることが「忘れない」ということに繋がるのではないか。そしたら何ができるか考える時に、大きなことはあかん。小さいことでよいから何ができるか考えることで、忘れない気持ちが続くと思ったのです。
 被災地で私が一番気になっているのが仮設住宅。中には入らなかったけれど敷居は低い、寒いですやろ。そんなところでこのアクリルたわしを編んでいる人たちです。私はこのお年寄りたちに生きがいをプレンゼントできへんやろか、と思ったんです。萱場さんとこのネットワークと話しながら、アクリルたわしを編んでもらいましょ。アクリルなら洗剤もいらへん、川もよごさへん。それで1人か2人か手仕事してもらえる。お小遣いがもらえる。川が汚れへん。これひょっとしたらいいことづくめの連鎖でないかなと。それでこの間120玉のアクリルの毛糸を送ったんです。ありがたいことに私でもし受けきれなかったらそれを小さい所へ持っていく。忘れないということは、何をしたらいいかなということをずっと考えていたらよいなと思うんです。

(後記)
〇鈴木さんは戦争体験を語り継ぐ活動もされています。そのためご自身の戦争体験を「私の戦争は終わらない」という小冊子にまとめ自費出版された。上のアクリルたわしの手間賃は小冊子の読者から寄せられたカンパをそっくりあてておられる。

(スピーカーの追記)
〇アクリルたわしは17人の方が2回に分けて510個を送ってくださいました。1個200円の手間賃10万円余を送りました。1人ならとても無理な金額ですが、本を買ってくださった方、たわしにカンパしてくださった方のおかげです。中には1人50個60個と協力してくださう方もありました。1人6千円は僅かかもしれませんが、みんなで仕事することは楽しいと喜んでいただけ私もうれしいです。「石巻の話を」との依頼が増え、頂いた謝金も全部たわしに充てています。残念なことに先方のネットワークがハートブローチの制作終了に伴い集まることがなくなったとのこと。この後どんな形で繋がっていけるか「石巻復興支援ネットワーク」の方と相談中です。

2012.12.11例会 大阪のおばちゃん福島を行く-徳山明美・大森俊子

スピーカー 徳山明美   関西YMSネット 
 大森俊子 関西YMSネット
日時・場所 20121211日(火)大阪市立子ども文化センター

 二人とも震災後福島は初めてでした。日程はおおよそ次の通り。徳山が1日先発しました。
10月5日(金)伊丹空港―福島空港―勿来泊
   6日(土)湯本―勿来泊
   7日(日)湯本―福島―相馬泊
   8日(月)相馬-南相馬―相馬泊
   9日(火)相馬―福島―郡山―二本松―福島―仙台空港―伊丹空港
今回出かけたのは被災地を自分の目で見ておきたいという気持ちからです。その他福島の芸能を見たり聞いたりすること、また南相馬の友人たちとの交流も願っていました。
 (例会では2人のスピーカーがほぼ交互に話をされました)
徳山 初日勿来まで行ったのは宿がなかったため。湯本辺りは復興関係者と小名浜フェスティバルの関係でいっぱいでした。
大森 伊丹からの機中で南相馬の市長さんの書いた本を読み、えらい怖いとこ行くんやなとその時初めて思いました。飛行機は県外から帰る人で満席。横抱きにしている赤ちゃんや幼い子もいて、こんな小さい子を福島へ連れて行っていいんだろうか、とすごい疑問を感じながら黙って眺めていました。
徳山 私はいわき観光づくりビューロに行ったとき石炭化石館をみせてもらい、炭鉱の町が経済を支えていたこと、エネルギーの変遷やスパリゾートの誕生についても自然に理解できました。
大森 以前映画のフラガールを見ましたが今度は実際にスパリゾートフラを見に行きました。お客さんは大入り満員でした。
徳山 南相馬では竹内容堂さんと酒井ほずみさんのお世話になりました。忙しい人に迷惑かけられないと辞退したのですが全部クルマで案内してくれました。
大森 原ノ町で出会うとすぐ線量計を持たしてもらいました。県が無料で配布したものだそうです。東京とかと一ケタ違うと言われました。
   (立ち寄り先の放射線の実測値(マイクロシーベルト))
    道の駅南相馬 0.130.24  原町区海岸 0.11
    小高区海岸  0.16      小高神社   0.11
    相馬太田神社 0.24      原町区大原 0.691.52 
    鹿島区市街   0・29
徳山 今政府では平時では年間1ミリシーベルト以下でないといけないと言っています。それでこの数値から年間の積算量を計算すると、小高区海岸は0・578ミリシーベルト原町区大原は5・5ミリシーベルト。今日の新聞によると大阪は0・043マイクロシーベルト、年間で0・22ミリシーベルト。原町区大原以外はすべて政府の基準を下回っているが原町区大原はかなり高かった。それから小高のほうへ入った。線量が下がったので警戒区域が解除され避難指示解除準備区域になったところ。
大森 津波の後の更地にところどころ何軒かの家があり人が住んではりました。ここらはまだ放射能線量があやしい怖いところでした。
徳山 でも小高神社は0・11だからこれで測った限りはかなり落ち着いている。次はホワイトレイブンへ行きました。竹内さんが主宰している一般社団法人です。
大森 (写真を示し)これ竹内さんのお母さんの家なんです。神奈川に住んではったのに震災後ここで住んではる人です。ここらはいま線量でいうと問題ない。警戒区域というのではないけれど住まん方がよいですという場所です。それで私は何でここで家を買って住んではるんですかって聞いたんです。そしたら「ここにはありあまるものがあります」と凛とした感じで言われました。
 そのあと息子の容堂さんは毎日毎日何シーベルトやらなんやら、警戒区域とかなんやらそういうことをずっと考えて生きていくよりは、星がきれいやなとかそういうことを思いながら過ごしたいというようなことをおっしゃてました。
徳山 ここには水道はなくて毎日水汲みをしています。湧水のセシウムを計ったら他よりもきれいだったそうです。福島の農産物は測っているし、自分で作って食べる野菜なども持ち込んで測ってもらえるようになっています。
大森 福島へ行って何かを食べることについては全然問題はなかった。
徳山 私はもともと気にならなかった。放射能でもなんでも多分自分の体が浄化するわと思っているから。
大森 わたしは怖い怖いばっかりでしたが、福島へ行ってから恐怖心が全然なくなってしまった。すべてのものを美味しくいただいてしまいました。あれなんやろね。
徳山 やっぱり空気かなあ。向こうで一生懸命やっている人たちと一緒に動いたり話したりしてどっぷりつかったからちがう?
大森 竹内さんが一緒に活動している人にあちらこちら電話をかけて、大阪のおばちゃん来てるでって感じで。それで夜は湧いてきたように人が集まってくれました。 須藤さんはいろんな活動をされています。一生懸命説明してくれましたね。みんなお酒の場でわいわいしながらポロッポロッといろんな話をしてくれるんです。一緒にお酒を飲むと親近感がわくし普段では聞けないようなことが出てきます。
徳山 みんなの話を聞いていて縦横クモの巣のようなネットワークを張っていて、自分の得意分野のことで活動している。別の方はその方の得意なところを利用して色々アメーバーのように活動していると感じました。その拠点がみんな未来センター(みみセン)というところでそこへ行けばいろんな活動ができる。たとえば「そうまかえる新聞」の編集長の酒井ほずみさん。 話をお聞きするとすごく迷うことがあると。こういうことを載せてよいのだろうか。これを載せるとこんな風に思う人もいる。そんなことを思いながらこの新聞を作っている。
ほんとうにどの線量を信じていいのかわからないこともあり、そんな中でこの新聞つくってはるのは凄いなおもいましたね。
酒井さんがおっしゃるのは南相馬の話をしても伝わらない。来てほしいと。ただ関西からなかなか来る人はいませんね、という言葉はこたえました。震災前から大阪と東北ってすごく遠いんですね。
大森 竹内さんはいつも「大阪のおばちゃん来たでえ」って声をかけてほしい。そしたらみんな集まる。いっぱいやれる一晩があったらそれが一番うれしいと言っておられました。
徳山 私たちの目的の一つはいわき市の小名浜フェステイバル。太平洋諸国の舞踊祭は素晴らしいと思いました。アポリジニのダンスとか韓国舞踊、タイ舞踊、中国、トンガ、ミクロネシア、フラ、じゃんがら念仏踊り、エーサー、サモア、タヒチなど。舞踊祭実行委員の会長さんが自分も元炭鉱夫だが閉山後ほんとうにフラガールが元気をくれたと話された。そういうつながりが連綿と、とくに年配の人たちの心の中にあるんだなと思いました。 すごく良かったと思うのはアポリジニの踊りです。文字はないけれど先祖に伝える心をペインテングや踊りで表します。水とか自然に対する感謝の気持ちを滑稽な格好で踊るのですがそれがよく伝わってきました。
大森 トンガ舞踊もうまいのか下手なのかわからないけれど、一緒に踊りたくなるような、血沸き肉躍る土着の音楽でわくわくしました。
徳山 福島県のじゃんがら念仏踊それと秋田県由利本庄市の本海獅子舞番楽というのも心にしみわたってきた。今回無くなられた方への心からのお祓いと祈願をいたしますといって一生懸命踊られました。
徳山 私のぶるっときた言葉は懸田先生のご自宅で伺った「私たち 祭りがなくて 何が残るの」という言葉でした。先生の調査活動中にある中年の女性がこのように言われたそうです。それだけに芸能とか祭りの力は凄いものなんだなと思いました。
大森 先日NHKの特集のなかもで「建物とセメントとか土のものが建っても、みんなの心が元気にならなければ何にもなりません」といっていました。心も一緒に元気になれたらなと思いました。南相馬で別れるとき原ノ町の駅で全員ハグしたよね。

2013年6月23日日曜日

2012.11.11例会 被災地へ出掛ける気持ち-立嶋滋樹さん 白政桂子さん

スピーカー 立嶋滋樹  画家 
 白政桂子  コピーライター
日時・場所 20121111日(日)大阪市立西区民センター第5会議室


(前書き)スピーカーのお二人は偶然同じころに被災地を訪問された。11月例会では訪問前後のお気持ちやご感想を話していただいた。

『震災後のこれからを考える』  立嶋滋樹(画家)

 当日はアトリエで制作中だった。ラジオをつけると「福島原発が電力を失って冷却不能の状態になっている」とニュースが流れた。エエッ、冷却できないということはそのあとはどうなるのか。なぜそこから先を言わないのか。そのことがずっと気持に引っかかっていました。その晩アメリカにいる同級生から「アメリカはもうメルトダウンが起こったということで次の対応に入っているよ」と教えられた。若しかすると故意に尻切れトンボにしているのじゃないかと思った。
しかし同時に流れた津波の映像は強烈でした。母の出身地は熊野市新鹿町で、そこの地形は陸前高田にそっくりなのです。その浜辺で泳いだ子供のころ「誰かが津波が来たと言ったらあの丘まで全速力で走るのよ」と教えられました。海で育つ人にとっては当たり前のことでしょう。だが津波で町ごと切り取られるような光景はあまりにもショッキングでした。
それからしばらく絵が描けませんでした。このまま絵を描いていていいのだろうかとあれこれ考えました。例えば日本人は昔から災害とともに生きつづけ、復興し続けてきた。危機に陥った時でも優れたリーダシップが発揮されそれを乗り越えてきた。そういう自負心みたいなものが、日本で美術をしていく者の根底にあるべきだと思う。絵を描いているのはそれを肯定したいから描いているわけです。
ところが原発と津波のニュースを見てからそんなもの肯定しなくてもいいじゃないか、意味がないんじゃないかという気持ちに捉われなかなか作品が書けなかった。初めて真っ黒な絵を描いたのはその頃です。
自分はなにもできないことはわかっているがニュースを聞いているだけでは自分はどうしようもない。但し行っても何の役にも立たない。戦力になる人は直ぐにでもいける。気持ちはあるけれど何もできない人間が行ってもいいのだろうか、とまだ迷っている時ある人がふと同じ国に住んでいるんだから、お見舞いぐらいは行かないといけないかなといわれたので、ああそうか、お見舞いにね、それでいいよね、じゃ行こうと踏ん切りがつきました。
5月3・4・5日鳴子温泉の湯治宿が1件だけ予約でき、一緒に行ってくれる友人も決まりました。奥さんと娘2人の家族連れです。毎日宿を出ては石巻、気仙沼、陸前高田などを訪ねました。小5と小3の子どもは2人ともおとなしく淡々と見ていました。ただタンカーがぶつかって燃えた小学校を見たときは怖がっていました。
行ってきたよかったのはテレビのニュースを見たり人と喋ったりする時自分の体験として実感を持てるようになったことです。また風評の問題についても考えました。風評は災害がはっきりしないから起きる。福島の食べ物についてもちゃんとした数字がないので風評になる。
例えば国は放射線量の幾つが安全で幾つが安全でないなどと簡単に言い切れないという言い方をします。しかしそれは僕らの言う事であって、国の仕事はここは幾つだとできるだけ沢山情報を出すことだと思う。これ以上は危ないですよ、これ以下は安全ですよと決めるのは国の仕事ではない。決めるのは買う人、食べる人でいい。僕らが決めることだと思う。
どこに住んでも日本は災害に見舞われる。でもそこから生き延びるということはずっとやってきた。だからその普通の頑張りを妨げないこと。妨げるような考え方や方向には声を上げること。それは当事者より外からのほうができるのではないか。
例えば経済効率を最優先する判断が勝手に下されそれが既成事実化するような動き、原発の話でも続けるか続けないかではなく、続けるとか続けないとかの選択ができるような国になっているかどうかが問題。選べるような国づくりを目指しそれを具現化できるリーダーを探していきたい。

『85歳と行く被災地 女3人旅』  白政桂子(コピーライター)

きっかけは私のひと言
 2011年12月その年最後の稽古時に先生が「皆さん今何をしたいですか」と問われ、私は思わず「東北へ、被災地へ行きたいです」と返していた。現地に何のつてもなく、実際行くことが出来るのかも分からなかったが、行けるものならばと思っていたことを言葉にしていた。すると2日後に先生から「私も被災地へ連れていってください」と短く書かれた手紙が届き、これが被災地へ出掛ける直接のきっかけとなった。
 先生とは小笠原禮法の師で85歳、名古屋在住。小笠原禮法はその立居振舞をすることで体幹が整えられるため、先生のお姿は常にシャキッとしていて体力も私たちと遜色なく。とはいえ二人行はやや不安。そこへ同じ教室の友人が「私も行きたい」と手を挙げてくれた。日頃、両親の介護で忙しいにもかかわらずだ。お母さんが行っておいでと背中を押してくれたとのこと。おかげで彼女の運転技術がこの旅に加わり、レンタカーで福島へも足を延ばす行ことが可能になった。
 旅程は以下の通り。
5月24・25日 大阪-名古屋-(夜行バス)―仙台-塩釜―松島―仙台―南三陸泊
 26日 南三陸―仙台―(レンタカー)-藤島県二本松―須賀川泊
 27日 須賀川―相馬―海岸線北上―仙台―(夜行バス)-名古屋―大阪
 夜行バスは時間の有効活用と現地での有効支出のためだったが3人とも初めてで、やはり車中では眠れずきついスタートになった。初日は仙台から塩釜の酒蔵を見て遊覧船で松島へ。先生は被災地の瓦礫の中を歩いても平気なように、汚れてもいい洋服に頑丈な登山靴姿だったので、初日の感想は「この旅は観光なのね」と物足りない様子だった。

先生の叫び声
 3日目、福島から仙台への帰路は相馬から新地、荒浜、閖上の太平洋岸を北上。家の基礎部分だけが残るだだっ広い空地になった町が次々と。ああ、これは家の墓場だと思った。3人とも車の中から黙って見ているばかり。言葉が出ない。町の端には戦艦のような瓦礫が大きな塊が。その光景を目にした先生が「みんな早く引き取って」と突然叫び始めた。その時から半年経過した今も何も解決されていない状態だ。

福島の佐智子さん
2日目の夜は須賀川市の阿部農園に宿泊。同行した友人が新聞記事で見つけた果樹農家。応対してくれた佐智子さんのお話。「ここは原発から70キロ。放射線量は0・1とかで福島や郡山の0・5より低い。須賀川の野菜は大丈夫と言われているが震災後はめっきり売れなくなり人も来なくなった。何とかしなければと小さいながら継続する農家を目指すことにした。県外からも来てもらいたいので納屋を改造して民宿をオープン。三重県のもくもくファームの成功を須賀川にもと震災後何度も足を運び街おこしについて学んでいる」。そして先日の佐智子さんとの電話では「新しく調理室を作っているとのこと。野菜はその場ですぐ調理して食べるのが一番おいしい。しかし残念ながら福島では微量とはいえセシウムとともに暮らさないといけない。だからセシウムを浄化する調理方法や食事の仕方を宿泊客やここを訪れる人に伝えていきたい」と。私たち3人は佐智子さんの作った野菜を全部美味しく食した。

大阪へ戻って
 佐智子さんの野菜は大阪の自宅にたくさん送ったが、結局全部自分で消費することになった。ご近所の中には「あなたそんなの食べちゃだめよ」という人もいたし、子育て中の兄弟には「うちは子どもがいるから、それ持ってこんといてね」と言われる始末。一緒に行った人や共通の意識を持つ人にはいいけれど、そうでない人に福島の産品を気軽にどうぞとは言えないことを実感。先生もまた「誰にも彼にも被災地へ出掛けたことを話せないの」と残念そうにおっしゃっていた。
 もう一つ。私が見てきたことはほぼ報道と同じ。見てきたことを「やっぱり津波で何もなかったわと」か話してもむなしい。唯一言えるのは阿部農園さんで実際に聞いた話だった。例えばこの夏には桃を出荷されるので買ってあげてとか。つまりオリジナルな情報や個別的なことは伝える意味があるけど、報道の繰り返しは私がすることではないと感じた。次回は、この体験を活かした訪問にしたい。





2012.10.11例会 福島県で体験した大震災~津波と原発事故の問題-遠藤雅彦さん

スピーカー 遠藤雅彦 関西県外避難者の会 福島フォーラム代表
日時・場所 2010年10月11日(木)18:30~20:30 大阪市立西区民センター第5会議室

津波から生き延びる
 その日いわき市の実家にいて地震を体験、津波の来るのを実見した。家は完全に流されその夜から避難生活となる。
14:46(地震発生)家を出ようとドアノブを掴んだ。ゴゴゴウ、ドドドウと大揺れ(3分10秒)、テレビはついた。大津波警報を見て避難準備(足の悪い母と寝たきりの祖父に車に乗るようにいう)曇った空の奥で雷がドンドンと鳴る。これを聞いて隣のおばちゃんが津波が来ると言った)
15:04砂浜に十字のひび割れができた。初めて見たので撮影する。
15:05(クルマで避難開始)地震発生から18~19分後。ほとんどの人が津波が来ると思っていない。従って渋滞なし。同じころ消防車とすれ違う。「避難してください」と呼びかけるが逃げる人は少ない。私はひたすら内陸部を目指して車を走らせる。
15:07・8(津波第一波来る)渡らなければならない大きな橋の手前200mで津波が川を遡上してきた。黒い水が電車のように突然バーッとあらわれた。車3台が飲み込まれる。母は言葉を失い祖父は頭を抱え込んだ。私はUターンして別の橋を渡る。
15:37・8(津波第二波)真っ黒な水が新幹線より早く駆け抜けていった。一波から二波の30分の間にピアノ教室の生徒の親は忘れ物を取りに行って行方不明。友人の父母は津波を見に行って流された。(当地方の第一波は1・2m、第2波は8・6m)
〇生き延びることができたのは地震、則避難と頭がぱっと切り替わったから。子どもの頃祖母が「何かあったら遠くへ逃げなさい」と言っていた。津波を見に行こうなどと思わないように教わっていた。
〇普通に逃げようと思っても支度に20分はかかる。避難を素早くやることは口で言うほど簡単ではない。
〇「助けて!」を発信できない。携帯電話のアンテナの鉄塔が流されてつながらない。陸の孤島化していて外から助けに来られない。
〇自分の住んでいるところからはいったいどんな被害があったのかわからない。東北全体は尚更。テレビも一部の映像を繰り返すことが多い。
〇消防署に電話して避難所がどこにあるか聞いたら「わからない。いま市内全部が混乱している。自分で探しなさい」と言われびっくりした。とんでもない巨大な津波が来てしまったのだとその時思った。

放射能から避難する
 近くの小学校の体育館で第一夜。母と祖父に暖を取らせるため親戚の家で二泊。14日の朝放射能が来ているから避難しようと友人から勧められた。友人は東電社員の家族が百キロ圏外へ出なさいと言われ、避難を始めているという情報を持っていた。それを聞き私もすぐ避難することを決めた。
 郡山で友人と合流して宇都宮、東京、大阪へと向かった。宇都宮で驚いたのは県境を過ぎると自販機で飲料を売っている。お弁当屋さんが普通に開いている。福島県内では飲み水も手に入らなかったから、運んであげたらみんな助かるのにと思ったが当時は無理だった。
 いわき市内はガスも止まっているから食べ物も温めたり加工して食べられない。そういう状況だったので、放射能のことを聞いて移動することになったわけです。たぶんここよりはましだろうと思って。
東京は計画停電をやっていた。食べ物は豊富なはずなのに買い占めが進んでなかなか買えない。そんなに買い占めなくても大丈夫なのに何でこんなことをしているのか不思議でした。
東京では百キロ圏避難の話が三百キロになっていた。根拠は原発4号機の未使用燃料が炉融したりすると東日本はダメになるからということです。祖父も母ももう疲れて動けないから暫く休んでいくというので、私が単身大阪へきて部屋を借りました。祖父は東京にいるとき具合が悪くなり母も看病のためいわきに一緒にいます。とりあえず離れ離れに住んでいる状況です。
大阪に来て津波や放射能のこと、家族の状態など関西の友人、先輩に話してみた。阪神大震災で被災した方は同じような気持ちを持っていただけるが、多くの人は実感が薄くどうとらえたらいいかわからないようで、リアリテイに欠けるとさかんに言われた。それで大阪に来て最初に思ったのは自分の津波体験を伝えていこうということでした。

避難者の会を始める
そうこうしているうちにツイッターなどで被災者の方と繋がりができた。しかし個人情報保護の問題があって、避難者がどこにいるかわからない。少しでも居場所が分かるようにしようと避難者の会を立ち上げた。
問題は山積している。例えば被曝した人を診てくれる医者、甲状腺や血液の検査をしてくれる病院が少ないのでそれを開拓する活動。一方診てもらいたい人も自主避難で、放射能被害も確かにあるかどうかわからない場合、公共の施設に話しにくいという問題。
避難者への公共住宅の提供は1年間から2年間に延長され、京都、滋賀、兵庫では3年間になったけれど大阪は2年のまま。加えて個人情報保護の問題。法律があるので避難者が支援者になかなか出会えない。あるいは地域の方が避難者に触れ合うことができづらくなっている。
例えば豊中市は積極的に動いているから避難してきた60名の方の現状を把握している。ところが大阪市の場合は千人以上の避難者がいるからそれを細かくフォローするのは到底難しいという状況の中で対策している。全国には福島県だけで12万人の避難者の方がいるからその把握も急がなければいけない。私はまだ試行錯誤しながらやっている状況です。今後いろんなところで活動して避難者の方とつながっていけたらいいなと思っています。

学んだこと、感じたこと
〇「とにかく避難しろ」という幼馴染のひと言
これまでは政府や行政など顔の見えない人の情報を信じてしまいがちだったが、幼馴染の友人が心配して言ってくれた言葉を疑いもせず避難を始めた。心配して言ってくれている言葉なので疑う必要はなかった、好意を届ける人間関係がお互いを助けることを学んだ。
〇「避難しない」という中央卸売市場の社長のこと
東京電力の社員の家族が逃げていると、避難を勧めた友人に対し社長は「卸売市場が止まると地元のスーパーも止まってしまう。避難したらみんなが飢えてしまうから自分は残って仕事をする。これが自分が決めた人生だから」と答えたという。
〇浮浪者扱いされて気が付いた
大阪に着いたときは途中で買ったスウエットの上下と持ち出したジャケット一枚。酷い恰好だったので日雇い労働者のようなあるいは浮浪者扱いを受けてしまったんですね。5日前までは普通の生活をしていたのですが。それで街のネオンはキラキラ輝いていて、なんか嘘みたいな世界に来たなと思ったのですが、それが震災というもので。きちんと説明すれば被災者だということが分かったのですが、西日本では想像もつかないこと起こっていたんだなということを身をもって体験したんですね。

(後記)
放射能や放射線量は日時や場所により変動する。人体に及ぼす影響についても見解は一様でない。またそれぞれの価値観にも左右される。遠藤さんは上記のほか放射能、放射線量のことも話されているが、要約で短く正確にお伝えすることは困難と判断し、殆んど割愛させていただきました。