2014年5月3日土曜日

「毎月11日の会」12月例会―東北のお菓子屋さんと東日本大震災―高 由貴子さん

 スピーカー 高 由貴子さん 神奈川県藤沢市在住
        和菓子文化研究家 東京いとしの和菓子著者
       ブログ「近所の和菓子屋さんの豆大福、パン屋さんのあんぱん」を発信        ブログURL: http://yuki-ssg.seesaa.net/
日時・場所 20131211日(火)
大阪市立総合生涯学習センター第3研修室
                      ※写真は上記ブログから転載しました。
                      
町の小さなお菓子屋さんをほめる
-ブログ「近所の和菓子屋さんの豆大福、パン屋さんのあんぱん」を始めたワケ
私は東京の渋谷区で生まれ育ちました。東京で和菓子屋さん特に町の個人商店の和菓子屋さんというのは衰退する一方でどんどん無くなってしまうのが現状です。日々皆様が楽しむ、例えば東京で言いますと「豆大福」とか「どら焼き」とか「たい焼き」みたいなもの、とても安価なのですけれどそれでも一生懸命作っているお店が沢山あります。今もそうなのですが洋菓子の方はやはりスポットライトが当りやすいしメディアも取り上げます。職人魂を発揮し、たとえ百円のものでも手を抜かないで一生懸命作っている町の小さな和菓子屋さんが沢山あるのに、どうして誰もそれを取り上げない、誰も注目していないことが腑におちなくて「褒めようよ」もっと褒めないと無くなってしまうよと思いました。どこのメディアも取り上げないのだったら、その頃から身近に扱えるようになったブログというものがあるので、私が「褒める」と言う事で始めたのがきっかけです。
国産のシンプルな素材の豆大福みたいな物ですと、国産のもち米と国産の小豆とお砂糖あとは赤えんどうなどだけで作れるお菓子なのですけれど、それだけにどれだけ心をこめて手を抜かないで作るという事が重要なポイントになってくると思います。そういった事を「褒めて」街から無くならないようにしたい、豆大福だとかたい焼きとかどら焼きは、東京発祥のお菓子とされているのですが、そういう物は大切な東京の食文化であると思うのでその食文化を誰もフォローしないというのは腑におちない、半分「このやろう的な」気持ちで始めました。そんなこんなで色々な和菓子を紹介する事を始めたわけなのです。最初は近所の自転車で行ける所なら何処までも行って、自分が好きだと思うもの以外、自分が良いと思うもの以外は紹介しない、美味しくないとか好きでないと思ったものはあえてそれを「いやだ」という事は書かないでそれはそのままで、ただ褒めたいものだけを褒めていく、そういう形で続けてきました。最初は近所の自転車で行ける範囲だったのですがだんだんそれが全国に興味が広がっていき、東北のお菓子もとても好きで憧れていました。岩手であっても宮城でも福島でもそれぞれに憧れて実際に私は東北に行ったことはなかったのですが憧れて好きなお菓子が沢山ありました。

2011311日-東北のお菓子屋さんの安否を探る
 そして2011年3月11日私は東京でその日を迎えました。自宅におりすごい揺れでパニックになったのですが私の所は建物も人も無事でした。周囲には帰宅難民になった友達も沢山いたのですが特にひどいけがをする人とか建物が全壊するような知人友人は周囲にはいなかったです。
東北が大変な事になっているのを目の当りにして、自分が好きなお菓子屋さんは一体どうなっているのだろうという事で、最初に自分がやった事はグーグルアースを見ることでした。もうこれはだめだと思ったお菓子屋さんが沢山ありました。今ではどんどんお菓子を作っている、例えば「かもめの玉子」と言うお菓子があるのですが、岩手県の「かもめの玉子」の大船渡がひどい事になっているので見たら「さいとう製菓」は大船渡のもろに津波の真っ只中にある処のようだったので、「ああ、もう一生かもめの玉子を食べる事はないのだなあ」とその時は思いました。今日ご紹介する宮城県の丹六園さんもグーグルアースで見るとその時はすっかり姿が無くなっているのですね、300年以上続いているお菓子屋さんなのですが「あそこも無くなってしまう」「ここも無くなってしまう」ここはどうだろうそこはどうだろうとホームページを見たら止まったままになっている。でも少しずつそれでも一週間、二週間すると何らかの反応がありました。大変な事になっていて今営業は出来ませんけど何らかの反応が色々なかたちで、ネット上で誰かがここのお店はこうでしたとかあるいはホームページを持っているところは今営業休止しているとかそういうのがあったのですが1ヶ月経っても全然判らないお店が三つありました。
一つは宮城県の松島にある「紅蓮屋心月庵」という、「毎月11日の会」のこちらの会でもお菓子をお出しになった「松島こうれん」というお菓子を作っている600年位続いているお店です。あとは同じく仙台市の若林地区という所にある「石橋屋」という仙台駄菓子を作っているお店が1ヶ月経っても一体どうなっているのか判らない、それからもう一つが今日これからご紹介する宮城県の塩釜市の「丹六園」というお菓子屋さんで、知り合いのデパートのバイヤーさんにこのお店は「一体どうなっているのでしょう」と訊いたら「その3軒は連絡がとれないのです」特に丹六園さんの場合はお嬢さんが都内に住んでいるという事だったのですが、お嬢さんからも連絡が取れないって言うからこれはもう駄目だなあとその時は思ったのですね、これで300年続いたお店なのに無くなってしまうのだなあと思っていたのですが、それがちょうど1ヶ月と1日位で、連絡が取れました、FAXが入りましたと聞いてちょっと胸をなでおろしたのです。

300年の伝統をもつ塩釜市「丹六園」を支えたお客さんとボランティの力
-ボランティアに行く決心をする
私はそういった話をブログに書きました。4月25日位に「丹六園さん大丈夫だったようですが、ご当主は無事だったようですが店は滅茶苦茶でガレキに埋め尽くされてしまったようです」というのをブログに書きましたら、塩釜に実家があるという方が私のブログを見て連絡を下さいました。その方の実家は塩釜でつい最近行ったのですけれど丹六園さんは床上浸水はしているのですがガレキで滅茶苦茶にはなっていません。良かったら画像をお送りしましょうという事で送って下さいました。それを見ると確かに建物は残っていますし、その時のお話を画像と共にお見せしたいと思います。これはちょっと判りにくいと思いますが、4月の初めの頃の丹六園さんの建物で、江戸時代の材料で造った建物でとても立派な大黒柱もあり建物本体は無事だったのですが中がかなりヘドロや何かでグチャグチャになっていて、すごく重い什器や何もかも引っくり返っていて大変だったそうです。この次の画像を観て私はボランティアに行く決心をしました。
2011 年4月 塩釜


















これに参加しているのは国内外から来たボランティアの方なのですけれど中のどろどろになった畳などを全部ボランティアの人たちが来て、これが5月の3日の状態でここまできれいになったのです。だいたい3月終わりから4月の頭ぐらいまでボランティアが塩釜の各家庭に密に入って色々手伝ったそうなのです。塩釜の様子を教えていただいた話を読みます。「多くのボランティアの方々が被災地に入って下さっています。男性は泥水を含んで非常に重くなった畳や床下のヘドロをすくって捨てるだとか、女性はヘドロで汚れた床や家具をきれいにするとか家族だけではとても出来ない仕事をして下さっています。3月29日に実家に来られたボランティアの方々は、18枚の畳とカーペットを剥して捨てて下さいました。男性8名女性2名のチームがあったそうですが男性の内2名はイタリア人とインドネシア人で、母が伺ったところによるとイタリアの方は東京在住で30名教会に来て泊まっているという事です。日本人だけでなく外国人の方々も助けて下さってほんとうに感謝です。被災地はどこもまだまだ元の状態に戻るまで時間がかかり大変です。」
私がブログに掲載する丹六園さんの記事を書いていたそのときに、丹六園さんは無事だったというメールで飛び込んで来たのです。そのメールに添えられたのは大分きれいになった画像だったのですけれど300年続いている丹六園さん、今は11代目のご主人さんがいらっしゃるのですけどそのご主人が「ボランティアの人たちが泥の除去作業を手伝ってくれなかったらあるいは、歩いて見に来てくれるお客さんがいなかったらもう私の代でお終いにする気でおりました」とそういう事をおっしゃっていたそうです。私はそれを聞いて自分が大好きなお菓子屋さんがそのボランティアが助けてくれる事によって300年の伝統をひょっとしてそこで終ってしまったかもしれないのだけれども、それで続けようと思ったと聞いたとき「じゃあ、自分でも何か出来るんじゃないか」と思って私は6月からボランティアに行く事にしました。

木型とレシピとご主人が無事だった「丹六園」-20115月「志ほがま」「長寿楽」が復活
丹六園さんについて少しお話します。今、おもな営みは茶舗です。お茶屋さんでいらっしゃいます。元々は伊達藩で廻船問屋として営んでいたようなのですが、その時伊達家に元々の先祖は製菓業も営んでいたとのことです。今は11代目なのですが8代目か9代目位の時に廻船問屋みたいなものはなかなか安定しないので茶舗となって、昭和25年に元々は先祖が塩釜と言うお菓子を元々先祖が作っていたという事を調べて「志ほがま」を昭和25年から作り始められました。宮城産のもち米の粉と藻塩という古代製塩法によるお塩があるのですがそちらを混ぜて「ぎゅっと」押し固めた柔らかい軟落雁で、それに青じその粉を混ぜたものです。地震が来た時には凄い揺れが来た時、お店にはご主人がいらしてお客様もいらしたそうなのです。その時ご主人はこれは絶対に津波が来ると思ったので、その時お店にいたお客様ら全員を車に乗せて塩釜神社までとりあえず行き、皆様の命だけは救われたそうなんです。でも戻ってみたらお店はグチャグチャになっているし水浸しになって什器は倒れているしと言う事だったのですが、2階は水に浸たらなかったらしくてたまたまこの「押物」の、この木型とレシピとご本人が大丈夫だったのでこれで「志ほがま」作りは出来ると、5月の初め位からまた始められました。
お菓子の話になりますけど、木型が残っているという事が重要で、今お菓子の木型を作る人がいないのですね、全くいないのではなくて良い木型を得るのが難しいようで、老舗のお菓子屋さんに行くとよく店内に木型が飾ってあったりするのですが、木型が無事であったりレシピが無事であったりあとはご本人の技術が大丈夫であったという事で作り始める事が出来たんですね。鹽竃神社に「鹽竃桜」と言う天然記念物の桜があるそうなのです。鹽竃神社の門にもなっているという「鹽竃桜」を打ち出した“軟らくがん”で、その風味とちょっと塩気があるお菓子です。今日実際に「志ほがま」をご用意致しましたので味わって頂きたいと思います。「志ほがま」ともう一つ、二つだけなのですね丹六園さんが作っているお菓子は、両方とも柔らかいらくがんで、あともうひとつはクルミと黒糖を使った「長寿楽」です。
丹六園 「志ほがま」
















今皆様に召し上がって頂けるように割った状態なのですが、表側が「鹽竃桜」を打ち出したものなので裏を返すと「長寿楽」のように山型チョコのようにラインが入っていて分けやすいようになっています。「志ほがま」は特に茶席用のお菓子として香りの良さと美しさで高い評価を得ています。完成品は大型とその半分のサイズがあるのですが、今日は大型の方をご用意しました。切れ目を入れていますが切れ目の無いのを想像して頂きたいと思います。これは「打物」と言うのです。つくるのは難しくて簡単にぎゅぎゅっと抜けるものではなくて、私も食べるだけではなくて自分の趣味として和菓子を作るのですが、「打物」はこのサイズになるとちょっとやそっとの技術ではなかなか出来るものではなく丹六園さんの「志ほがま」はほんとうに美しく仕上がり、味も非常に良いと思います。藻塩としその香りがして、塩釜辺りで、藻塩が海の幸だとしますとクルミが山の幸として。東北の方ではクルミのお菓子がたくさんありますが、こちらは昭和60年位に若向きと言いますか親しみやすいお菓子として創案された黒糖とクルミを使った「長寿楽」です。黒糖とクルミがとても身体に良いという事で長寿によろしいと、「長寿楽」という名前をつけたものです。藻塩というのは古代製法によるお塩だそうでホンダワラと言う海藻を海水に浸してそれを乾かしてその作業を繰り返して出てきたその塩を藻塩と言うそうです。だから茶色がかったりグレーがかったりしているのですね、藻塩の色の雰囲気を出すためにしそを入れているそうです。風味とも塩らしさを出すという事でこのしそを使っているそうです。
こういう半生菓子とか干菓子という物は傷む、腐るという事はなくて風味がなくなったり硬くなったりなので賞味期限があるのですがカビたり傷んだりすることはそうないものなのです。だいたいお菓子は大きく分けて「生菓子」と「半生菓子」と「干菓子」に分かれます。この柔らかいらくがんは若干生感があるものは半生菓子と言ってもいいと思います。丹六園さんのおかみさんが茶器など器がとてもお好きでお店に行くと器屋さんかと思うくらい、お茶のお店なのですが、陶器などが沢山あります。

20116月気仙沼へ-「南郷地区泥上げ大作戦」に参加
微力ながらという感じですが、まず6月に気仙沼に。私は日々東京で暮らしているのでそんなに長くずっと行く事も出来ないしまずどうやって行くかも分からなかったので色々調べたら、金曜日の深夜から車中一泊して10~12時間かけて被災地まで行って土曜日に着いて土曜日に一日仕事をして夜に又バスで帰ってきて日曜日の朝東京に戻ってくるという。これは茨城県の筑波から当初発着していたのですが、筑波までだったら何とか金曜日の夜からだと一時間半程かければ行けるだろうと思って。バスに乗っても何処に行くかも分からないのですね、これはレーベンバスといって個人のボランティアをたくさん集めて出発してくれるバスで、たまたま見つかったのでこれで行きました。
(画像を指して)最初に行って見たのはこの景色だったのですが、気仙沼の南郷地区という所に行って色々な景色を目のあたりにしました。この「地震が来たら津波」という看板は、「この辺りの避難場所は南気仙沼小学校」と書いてあるのです。これは街の中の川なのですが家屋は浮かんでいるは、車は浮かんでいるはですごい感じだったのですが、この南郷地区というのは津波で被害にあうとは住民の人は思ってなかったくらいの内陸部だったので、そのような用意もないし3.11までここの小学校まで津波が来ると予想だにされないような所が津波に襲われてしまったようなのです。
この日に行ったのは側溝の泥上げ作業つまりドブさらいですね。個人で自宅の前だけドブさらいをやっても水は通らないから、大勢で一気にやらないと意味がないということです。(画像を指して)中はヘドロでどろどろになっているのですが表側は普通で裏に行くと木が家に刺さっていたりとそういう感じだったのです。(画像を指して)「南郷泥上げ大作戦」というのあって一番最初はこれに参加しました。側溝のふたを開けると中がヘドロでどろどろになっているのですけれどそれを皆でスコップで掘りあげて袋に入れ土嚢に入れてというのを2日間やりました。この時の参加ボランティアは東京と、秋田とか被害があまり深刻でない東北の他県の人たち、埼玉、茨城などの人々です。地元の方が私たちのために炊き出しをやって食事などあたたかい物を出して下さいました。
南郷地区という所は住宅地なのですが、その後港の方へ行ったらもう凄かったのです。最初に行った気仙沼のこの南郷地区で出来る作業はほんとうに大したことはなくて土曜日の朝に着いて暗くなる前に終らなくてはならないので3時半とか夏は4時位までで出来ればというのが実際でした。それぞれ皆生活があるので出来れば日曜日にまたがらないで、と思うのは帰りは筑波着なので。筑波に半端な時間に着くと始発までずっとバスで待っていないといけないので、出来れば土曜日の最終電車までに筑波に帰りたいと。4時位までそれからバスを飛ばしてと言う感じだったのです。結局あまり乱暴な運転をすると危ないので、飛ばしても終電には間に合わなくて明け方まで筑波でこのバスの中で寝ていました。

20117月大船渡へ-さいとう製菓「かもめの玉子」被災されたなかで425日に営業再開
ここから私はできるだけ毎月ボランティアに行く事にしました。東京からは行く方が多いのじゃないかなあと思います。7月は大船渡に行きました。大船渡に入ると「かもめの玉子」の看板があるのですけれど(画像を指して)中に入るとこういう状態です。この沿岸部は陸前高田辺りからずっとこの様な状態が続くのです。当時一番話題になっていたお店が「かもめの玉子 さいとう製菓」だと思うのですが、「さいとう製菓」の社長さんが自分でずっと地震が起きた時から社内でビデオを撮っているのです。その様子がYoutubeで見ることができて。社長さんはチリ地震の時も被災されて、チリ地震後も復興されていて色々紆余曲折があったのですが、防潮堤が出来た事でとても安心していたようなのです。ご本人がチリ地震の経験があるので、ビデオを撮りながら社員に向かって「津波くるぞ、津波くるぞ」「皆逃げろ、皆逃げろ」と言いながらビデオを回しているのですが、高台の方に逃げて目の前に自分の工場と会社があるのですが、防潮堤をとても信じていらっしゃるので最初は安心した様子で遠くの方で津波が起こるのを見ていたのですが、途中で津波がその防潮堤を越えてしまった時の何たる悲痛な、60代位の社長さんだと思いますがもうほんとうに泣き叫んでいる様子がYoutubeで見ると、見る間に自分が手塩にかけた工場や社屋が目の前で津波にさらわれて流されて行くのですよ。その様子を自分で撮って泣きながらものすごい大声で泣き叫びながら撮っているという、私も駄目だと思うような状況だったのです。
これはすごいと思ったのが少し離れた所に別の小さな工場が有ったらしいのですけど「逃げろ、逃げろ」と皆に声を掛けていたので社員の方はどなたも被害に逢わずにすんだのですけれど、4月25日に営業再開を告知しているのです。私には奇跡と思えたのですけど今ご覧にいれたように大船渡は全然もう何も無くなっている状態だったのですが、それでも4月25日にはお菓子作りに取り掛かってたぶん大阪にも来たんでしょうか、震災後に作った「かもめの玉子」4月の終わり位に東京では販売されてその頃は東京では気分的に支援の気持ちが盛り上がっていたので行列をなして「かもめの玉子」を買うといった様子がテレビなんかで放映されていました。

20119月陸前高田-報道が少なくなってきた時期、ボランティの存在意義
8月は少しお休みをしました。と言うのは8月はちょうどお盆の時期で行っても作業が出来ない、自分としては肉体労働がしたかったので肉体労働が出来ないのだったら、沢山の人が集る所にお邪魔するのも悪いかなあと思い8月は行かずに9月に行きました。最初に見せました画像ではバスがとてもきれいだったのですが、私は月一回だけの参加ですがこのバスは人が集れば毎週行くという事で、行った先で現地の方々が色々書き入れてくれるようになって、9月位には随分色々なことが書かれている状態になっていて。そして陸前高田に行きました。この時は県立高田高校の傍らでやはり側溝のドブさらいをしました。
(画像を指して)これが高田高校、3階建なのですが中は何も無くなっています。この場所からは海など何も全然見えないのですがここからはもうずっと何も無くなってしまっているのですね。何も無くなっているのでその前の状況はなかなかうまく想像出来なかったのですが、普通に沢山の人が住んでいる町だったそうです。ほんとうに何も無くて高田高校のすぐ内陸側から高台になっているのですが、たまたまその時年配の男性、もともとそこに住んでいらした方に会ったんですが、ここまで海になっていたのだよとおっしゃっていました。
(画像を指して)こうやって実際ドブさらいの仕事をしていると生活用品がどんどん出てくるのです。フィルムだったりおもちゃだったり花瓶だったり、作業しながらそこにいちいち気持ちがいくと作業が続かないのでとにかくどんどん掘り上げてこういった物が出てきた時はとりあえず遺品かもしれないので上げといて下さいと。あと言われたのが皆さん遺骨を探していらっしゃるので、遺骨のような物が出てきたら報告して下さいという事で後半になるとだんだんガレキを除去する作業の中で遺骨を探すみたいな気持ちも多くなってきました。9月は震災から半年位経つので東北支援だとか被災状況だとかの報道がだんだん少なくなっていました。最初に申し上げましたようにずっとブログを続けているのですが自分が出来る事と思って現地でボランティア作業を始めたのですが自分が出来ることってほんの少しだけで正味4~5時間かな、ほんとうにたいした事ないのですけど、ただ行くという事がとても大事で、住民の皆さんを勇気づける事になる。被災された方々が危惧していらしたのが、この震災そのものが風化してしまう、或は自分たちが被災したことを他の人々に忘れ去られてしまうとことに恐怖を抱いている、ボランティアがそこに行って何か作業をしている事が結構勇気づける事になる。と聞き行く事に意味があるのだと思いました。陸前高田は特に被害が多く、市庁舎も全壊し全世帯の7割以上が被害を受けたそうです。目で見ると7割ではなくほとんど10割が何らかの被害にあっているという感じだったのです。

自分の中での3つの柱ができる
-現地で作業する・そこで物を買う・買った物をブログで発信する
そういう中で沢山の人が暮らしていたのですが、住民が避難した地域では経済活動がそこでなされない訳なんです。ボランティアが行くと食べたり飲んだりするのでそこでお金をおとす事が出来るわけです、それも支援の一つに繋がるというのが、9月頃からだんだん判ってきました。最初の頃はとにかく生きていくのが精一杯だったと思われます。だんだんお店であるとかプレハブながらも出来てきたのです。(画像を指して)「川の駅よこた」という産地直送のお店ですが、この頃にこういう店で買い物するのはボランティアなのですよね、ここはもうお菓子好きとして支援しなくてどうするという感じですから、行って作業する事、何か色々買う事、私の場合は買ってきた物をブログで発信する事、それが私の中で三つの柱になりました。特に自分の中で出来るのは買うこと、ブログでこういう状況なのだ発信すること。また自分もボランティアに行かないと日々生活が元に戻ってきているので、東京も地下鉄の駅が暗かったというのがあったのですがだんだんテレビも普通にやっているので東京にいると忘れてしまいそうになるのです。又メディアなども取り上げる回数が減っているのでだんだん忘れそうになってしまうので自分もボランティアに行って再確認して、ブログで発信するのもお手伝いだと。口頭で周りの人に伝える事もそうなんですけれど、私の場合ブログアクセス数が日に1500人位いるのです。月にしてリピーターも含め2万~2万5千位の人が見に来てくれるのでブログで発信するというのはすごく大切だなあと思っています。

まずつかみで“お菓子をアーティスティックに”見せて、被災地の状況を発信する
ブログでただ被災状況だけを見せていると飽きられてしまうと言うか徐々に慣れてしまうという所もあります。「つかみはOK的に」お菓子を出すと皆が見てくれるのではないかと思ってなるべく魅力的に(画像を指して)こういうお菓子などを紹介しつつ被災地の状況を発信していく事がすごく大切であると思いそういう内容にしました。
陸前高田からの帰りに気仙沼の港の方に行くのですけれど被害状況は陸前高田もひどいのですが気仙沼もひどくって。そういった画像もお菓子と一緒に出しています。動画もブログで見てもらうようにしました。
「採れたてランド高田松原」というのはトタンのプレハブみたいな所だったのですが、9月位からこういう産直所が出来て中で農産物であるとか被災された家庭のおかみさんたちが色々手作りした物を売っています。

















(画像を指して)これが買ってきた果物でなるべく綺麗に撮って皆が見たくなるような画像で見せるというのが自分の中では大事だなあと思い、とにかく導入部でなるべく興味を引くような形にして皆に見てもらおうと、またこれは陸前高田のとれたての卵とトマトを使ってお料理を作って見せたりとか、このような事を9月位からするようになりました。
これはこれ位の(手で示して)大きなカリン糖でした。陸前高田のお茶屋さんが販売しているお茶を使ったふ焼きせんべいなのです。
あと手捲き揚げかりんとうというのと、小谷園茶舗という陸前高田のお茶屋さんが販売しているお茶を使ったお菓子なのです。これの表書きに「忘れないで陸前高田、頑張るっ茶」というメッセージの付いたふ焼きせんべいなのですが、これを見て「忘れないで陸前高田」というキャッチコピーが皆さんの正直な気持ちかなあと思ったのです。これは私にとってすごくグラフィカルでかっこいいおせんべいに見えたので、こういった物とかなるべくアーティスティックに綺麗にというのを心がけてブログを発信していました。
ふ焼きせんべい


















2011年9月 陸前高田























これは「がんづき」と言うお菓子なのですが「がんづき」というのは東北の色々な所で作られている郷土菓子ですが、こんなに普通に家庭でどんどん作るのだと知ってお菓子好きとして新たな発見で興味をそそられたのです。「がんづき」と言うのは一般的に知られているのはおしょうゆ風味です。山崎パンとかも作っていましておしょうゆ味とか黒糖味とかそういった物です。実際は岩手の気仙沼に行くとかぼちゃの「がんづき」とか牛乳を入れた物とか家庭で作っていてそういった事もお菓子好きとしては「ヘエー」と思いました。そう言う風に「がんづき」とか卵とかトマトとか色々な果物とか買ってとにかくお財布をゆるめるだけゆるめてきてバスで帰って来る。(画像を指して)道々はずっと陸前高田の高田松原だった所なのですがこういう状況、これが奇跡の一本松なんです。これなんかも橋げたなのですがスポッと抜けてしまっています。必ずこの奇跡の一本松を見ながら気仙沼の港の方に行くという感じなのです。

201110月陸前高田-遺体を探す日々のなかで起ち上げられた「産直はまなす」
10月は陸前高田で草刈をやりました。畑がある所だったのですが、草をちゃんと刈らないと中がガレキと言いますか土がボロボロになっているのでこれをきちんと耕していかないと田畑になかなか戻す事が出来ないそうです。ここまで「えっ、波が来たの」と全く海の気配がしない場所だったのですがこの場所まで津波が来たそうです。
先程遺骨うんぬんと言うお話をしましたが私がこの草刈をしている時にどうやら遺骨と思われる物を発見したのでリーダーの方に言ったら「発見者が報告しないといけないので今警察に電話をするから電話に出て下さい」という事で、その場でボランティアセンターの人が電話をしてくれて電話に出てこういう状況で発見しましたという事を言って、皆がいる前で生年月日とか言わされたのですね(笑)。
米崎町でお手伝いをするすぐ傍に「産直はまなす」という産直所がありました。これは元々あった産直所ではなく、これを立ち上げた方々は皆さん被害に遭われた方で、ご遺族の遺体や遺骨を探す日々の中でただ泣いてばかりでも仕方がない、息子さんは亡くされたけどお孫さんの面倒を見なくてはいけないと、生活費を稼がないといけないという事で11人位で始められたそうです。それが9月~10月位でこれは出来たばかりでこの時に何かお祭りのような事をしていました。私たちが作業をしていると、そのような状況なのに餅つきとかおもてなしをして下さいました。これがポン菓子という物です。そんな状況なのですが、日々大変だと思うのですが皆さん明るくて、逆に私たちの方が抱擁されているような気持ちになるという陸前高田という所は不思議な場所ですね。水産業と農業両方ある地域なのですが非常に皆さん力強く明るくて未だにどうしてなのかよく判らないのです。ごくごく個人的な話なのですが、陸前高田という地名は中学校1年生位から心に残っていて、震災後も陸前高田が度々取り上げられると「ああ、春の高校バレーで優勝した学校か」と思っていました。私が中学生位の時に春の高校バレーが始まって確か女子で第1回目の優勝が陸前高田高校です。変わったバレーボール部で、バレーボールは6人制でだいたい一チーム12名でやるのですが12名いなかった様な気がするのです。県立なのですが、、何故そんなに陸前高田高校を覚えているかと言うと、いつも試合開始前に皆で倒立逆立ちしてコートを歩くという高校だったのですね。それで優勝したわけなのです。優勝したからかどうか判らないのですが翌年陸前高田高校は春の高校バレーに出場したのですが倒立逆立ちで歩く事を禁止されたのですね、理由は相手に威圧感を与える行為はしてはいけないという事で、バレー部の監督のお話だと精神統一のためにやっているという事だったのです。禁止されて子供ながらに何故だろうと思ったのです。禁止されたので2年目に何をやったかと言うと試合前にバク宙転をやったのです。とにかくユニークで明るい人柄が育つ場所かどうか判らないのですが、印象が深い陸前高田高校の話でした。

201112月個人で訪問-気仙ゆべしの「お菓子工房木村屋」復活のお菓子「夢の樹バーム」
私のご紹介の中にボランティアをしながら和菓子屋さんめぐりという事だったのですが、ちょっと違っていてボランティアに行くと個人行動ができなくてお菓子屋さんがある場所にボランティアには行かなかったので、だいたい行ける所はこういう産直所でそこで地元の方が作ったお菓子や農産物を買ってご紹介する事とそれとは別に12月には福島と宮城に個人的に訪れてそれを記事にしたりしました。
これは「あけがらす」と言うお菓子で岩手、中でも遠野の方で知られていて、私は遠野の「松林堂」というお店のオリジナルだと思っていたのですがご家庭でも作ると言います。だいたいうるち米の粉で作るお菓子です。東北の方ではご家庭でも作るという事を初めて知って。うるち米を粉にして小麦粉も少しは入って、ごまとかクルミだとか地元で採れる農産物を混ぜ込んで蒸すのでしょうか。
今日はユベシの方もご用意しています。これは陸前高田のお菓子工房木村屋(元々はお菓子師木村屋)という名前なのです。こちらの方では気仙ゆべしと言う、こちらはニッキゆべしになります。これはおしょう油、ニッキ、こしょうを使ったお菓子で、この気仙地方の「気仙ゆべし」というのは人が集る時にかかせない郷土菓子だそうで今日は人が集るという事で準備しました。お菓子工房木村家さんというのは本社、工場、支店、自宅とも何もかも全部流されてしまい、2012年5月に仮設店舗と工場を作って今そちらの方でお菓子作りをしていらっしゃいます。「気仙ゆべし」に使われているお醤油は「ヤマニ醤油」のもので陸前高田で被災されました。ゆべしというのは全国各地にありまして、例えば石川県のゆべしはゆずの中にもち粉を使った物を固めています。東北ですと福島なんかだとお醤油を使った物が多いのですがこの「気仙ゆべし」という物は細長い形でうるち米を粉にした物ともち米の粉を両方使っていること、ニッキとおしょう油とこしょうを入れているものは「気仙ゆべし」以外知らないのですが、歯ごたえがとても良くて私は一番好きかもしれないです。これは黒ごまのゆべしでクルミがちょっと施されている。お菓子工房木村屋さんが作ってらっしゃいます。
お菓子工房木村屋「夢の樹バウム


















2011年11月 奇跡の一本松






















お菓子工房木村屋さんついて話します。「お菓子師木村屋」が元々で昭和元年からやっていまして郷土菓子を中心に地元では高い評価を得ていたお店なのです。こういう形で被災してしまってちょうど被災する前年に「どぶろく饅頭」のどぶろくの酒糟を提供されている「酔仙酒造」と新たなプロジェクトが始まっている所だったのですが、2月にプロジェクトを始めて「さあ」これから作るぞという3月に被災してしまったという事なのです、復活した時に新たに作られたのが「夢の樹バウム」と言うバウムクーヘンなのですね、私はこの「夢の樹バウム」で木村屋さんの事を知ったのですが今はお菓子工房という元々は和菓子だけだったのですがここ数年は洋菓子的な物と和菓子的な物両方を作るようになってこの「夢の樹バウム」という先程おみせした奇跡の一本松をイメージしたバウムクーヘンを基金を集めて発表されました。こういった形のゴツゴツした松の木をイメージした「夢の樹バウム」を作られています。「どぶろく饅頭」の酔仙酒造さんも被災されて蔵が無くなってしまい今年やっと自分の所で醸造した物が震災後初めて出来たという事を聞いております。
「ゆべし」の話に戻ります。今召しあがって頂いたのがニッキにお醤油を加えたもの、これはゴマとしそ、もう一つヨモギがあるそうですが私はヨモギを頂いた事はないのです。4種類作っていて今回この会で召し上がって頂く事にしたと木村屋さんにお伝えすると、3年経って今でも忘れないでいてくれる事はすごく力になるとおっしゃっていました。
私はこの後10月に陸前高田に行って、だんだんこのバスが東北道で有名になりましてこのバスを見てボランティアに加わりたいと言う方がだんだん増えて来たりもしました。

20121月-被災地の状況はあまり変わらず
これが南三陸なのですがボランティアに行くと各地域のボランティアセンターに従って行動するのですがボランティアセンターの各エリアですごく雰囲気が違っています。陸前高田はかなり明るくお祭り気分さながらにもてなして下さったりとか、陸前高田で作業される方々もツイッターだとかフェイスブックで色々出していてお互いフォローし合ったりする間柄なのですが、南三陸の方は写真の撮影禁止になっていて実際の作業現場は撮ることが出来ませんでした。と言うのは気持ちを考えるとそういう事もあるかなと考えたのですが自分たちの遺族が亡くなった場所を観光気分で写真を撮られるのが見ていられないという声があったそうで南三陸では作業現場の写真は撮る事が出来ませんでした。気仙沼の港の高台にあるホテルがありそこはわりと直ぐに営業を開始しているので、帰りに必ずそこのお風呂を使わせて貰えるのです。皆けっこうドロドロになっているので。そのホテルの直ぐ傍に気仙沼の商店街が出来まして、ここで被災されたお店が新たに仮設のお店を開始されている。(画像を指して)これが2012年1月位です。気仙沼の港の所に「お魚いちば」という所があり9月~10月位からその「お魚いちば」というのが開設されて、中で販売するお魚などは少なかったのですがそこで購入する事が出来て、寒い時期になると獲れたての秋刀魚が直接送れるので私はここから直接色々な方にお歳暮を送りました。「気仙沼の秋刀魚です、食べて下さい」と。
(画像を指して)これは1月の陸前高田です。このとおり1月になってもほんとうに状況は変わらなくてだいたいほとんどがこのような感じです。最初の5月、6月に比べると随分片付いてはいるのですがこのガレキの山はいつまで経ってもガレキの山で。1月は初めて海の方へお手伝いに行きました、広田半島の家の裏漁港です。土嚢を積み上げるお手伝いをしまして漁港と聞いていたのですが全然港らしくないのです。全然港っぽくないけれど何故だろうと思うと、先端地域が津波で分断されて孤立されてしまったそうなのですね。この広田半島の漁業に携わっている方たちは船からそれこそ長靴に至るまで全部流されてしまったそうです。だから港と言われている処へ行っても船もないし港に有るようなロープであり繋ぐ所も何も無くって何もかも根こそぎ失ってしまったので、未だに1月の時点でもちろん漁に出る事も出来ず非常に厳しい状況だったのです。
(画像を指して)土嚢をこのように最終的には積み上げて行くのですが地面を掘ってその土を袋に入れて縛って積むという事だったのですが地面が凍っているのですね、凍っている地面を初めて掘ったのですがスコップでは掘れなくてツルハシでちょっとずつ、ちょっとずつ掘って「あ、割れた」と言う感じでほんとうにこれ位を3~4人で汗だくになって2日間がんばってこれだけしか積めなかったのですけれど。これは2012年1月でした。

高田松原の産直所-おばさんたちの知恵の結晶「ころ柿チーズ大福」
必ず立ち寄っていたのが高田松原の方の産直所だったのですが、「ころ柿チーズ大福」と言ってこの辺だと柿がたくさん採れるので「ほんとうに鈴なりに」なっているのでそれをころ柿にしてそれでお菓子を地元のおばさんたちが知恵をしぼって作ったのが「ころ柿チーズ大福」です。
ころ柿チーズ大福


















2012年1月 広田湾沿岸部


















和菓子の元々の甘さの基準は干し柿と言われています。そう言った事を知らずに、いいんじゃないかと作ったと思うんですが、地元で採れるもち米と柿とあとはクリームチーズを混ぜ込んだころ柿です。おいしかったのですね。甘味がとてもさっぱりしてとてもおいしくて「パクパク」食べられ、お大福の方は日持ちがしないのですが、ころ柿を沢山買って家に帰って皆さんにお配りしたのです。非常に好評でした。これがおかみさんたちが作ったゆべし、こちらは羊羹です。こういった形でブログの方で発表しております。私のブログは暫らくの間、被災の状況とお菓子の写真が一緒に並んでいます。どうにかして自分自身のためにも忘れてはならないと、ブログを更新する度に忘れてはいけないと心に刻みながら書いています。(画像を指して)これは気仙沼で引っくり返っているのです。まだこの頃は行ってもほんとに人が全然少なくってガラガラの状態で、秋刀魚なんかこの袋にいっぱい入って1500円位で、お歳暮送った方がいないので言いますが。獲れたての秋刀魚を翌朝送ってくれると言う。でまたそれを直ぐその場で自宅に送って、自分たちも翌朝に着くのでそれを持って周囲の人々に「気仙沼の」というのでお配りしていました。そう思い出しました、イカの塩辛、私がこれまでの人生で一番美味しかったイカの塩辛はボランティア先で買った気仙沼のイカの塩辛です。冬だったのでだんだん私の方も慣れてきて必ず保冷バッグを持って行く、荷物を入れるのはバスの一番下なので、すごく寒い処を走っていくわけですから良い冷蔵庫になっていました。

福島県二本松「玉嶋屋」本煉羊羹-楢の薪が汚染し一時休業するがすぐに再開
12月に二本松に行きました。二本松の玉嶋屋さんの最中をご用意しています。玉嶋屋さんは二本松市で江戸時代からやっているお店なのですが未だに楢の薪で手練でやっています。(画像を指して)八重の桜でも紹介された「二本松少年隊」、智恵子抄の智恵子の実家が直ぐ傍の安達太良と言う所で造り酒屋さんだったそうです。これが玉嶋屋さんで非常に風格のある建物です。こちらは本煉羊羹です。ベスト3に必ず入れるのが玉嶋屋さんの本煉羊羹で、毎月11日の会でも召し上がって頂いています。大変立派で裏が土蔵になっているのです。この楢の薪を使っているのですがお店の建物は被害はあまりひどくなかったのですが薪がいつも使っていたところが二つあったそうですが、一つが汚染されてしまってそちらが使えなくて。普段はここにいっぱい薪が有るそうなんですが半分も無かった状況でそれで薪を探すのも大変ですとおっしゃっていました。(画像を指して)こちらは二本松城なのですが本丸なんかは立ち入り出来ません。本煉羊羹は昨年の全国和菓子協会から「選・和菓子職 伝統和菓子職」と言う、東京の「とらや」で最も知られた「夜の夢」と並んで受賞した羊羹です。こうやって未だに手作業で竹皮を作っておられます。
ちなみに江戸時代に伊達のお殿様と二本松のお殿様が交流があって、二本松の殿様が伊達の殿様に「そちらは羊羹作れないだろ」と言われ、伊達の殿様は「そちらはしおがまが作れないだろこちらはしおがまがあるぞ」と。それで口惜しくて職人にしおがまを作らせて今に至って二本松にはしおがまがあると聞いています。