2014年8月4日月曜日

「2014.1.11例会」-ぼくの見方 東日本大震災から3年-小田明志さん

スピーカー 小田明志さん 東京都世田谷区在住
        『LIKTEN』編集長 
日時・場所 2014111日(土)
大阪市立総合生涯学習センター第5研修室

3.11の時は東京にいまして被災は全くしていない。今迄に話された方々とは違って離れた所におり直接被災はしていないし初めに入った被災地は石巻だったのですが、それも5ヶ月とか6ヶ月後とかで確か夏だったのですが入るのも遅かったのです。だから直接震災の話は全く出来ないのですが、両親が気仙沼出身という事もあってわりと身近なトピックではありました。僕は震災の話というよりも震災が若者にどういう影響を与えていて、これからどういうスキルと言うかどういう力が社会に出る時に必要となるのか、若者がどう考えているかという事を話そうかなと思って今日準備して来ました。

■『LIKTEN』創刊後、若者のことなら「小田明志」というポジションに
僕は先程紹介にありましたように慶應義塾大学のSFCと言う所に入っていて、『LIKTEN』と言う雑誌を作っています。あまり編集者という自覚はないのですが編集者と言われる事が多く、最近では「ワイデン+ケネディトウキョウ」と言うアメリカのオレゴン州ポートランドに本社を置いている広告代理店の東京支部に籍を置いています。慶応義塾ではデザインとかブランディングのゼミに入っていて主に酒井直樹さんという90年代前半位に活躍したデザイナーの方の所で学びつつ、あとスポーツビジネスも専攻しています。だからJリーグの集客だとかスポーツを通じた街づくりだとか、スポーツビジネスのデザインとかブランディングはすごく密接な関係があるので今学校ではそういう勉強をしています。
次は雑誌で、『サピア』というこのピンクの表紙が一番古い物で実際僕が今から4年位前に出した物です。『LEKTEN』を何冊か持って来て、これが一番新しい号なのですけれどこれが最初の号で、これが2号で、これが多分一番売れたのかなあ、これがアマゾンで2位になったので一番話題になった号です。これが今の号ですね、表紙の女性は水原希子さんという村上春樹さん原作の『ノルウェーの森』の作品の劇場版、映画バージョンで女優デビューしたというモデルの女の子です。1号出した時、高校生の時に政治をテーマにして作ったのでわりと話題になりまして、何か日本のメディアは『サイゾウ』だとか何かちょっと癖のあるメディアから多かったのですが、ヨーロッパとか海外の通信社はわりあい真面目に取上げてくれて、これはイギリスの『テレグラフ』という新聞を出している新聞社なのですがそこでも取上げられたり、あとは「パラディオン」というフランスのブーツメーカーからも取材が来たり、あとこれもフランスですが「ズームジャポン」という日本の情報をフランス人に発信しているフリーペーパーで、そこが選ぶ日本の明日を作る50人と言うちょっとかっこいい奴に選ばれて、自分の雑誌を通じて露出の効果がありました。そういうような露出からいつの間にか若者の意見を聞くなら「おまえ」みたいなおいしいポジションに自然となって来まして、例えば企業が新しい商品を作る時に若者の意見を聞きたいという時にわかりやすくメディアに僕が出ていたもので話が来るようになったりして、その中の一環でナイキの話が一回来て、そのナイキのプロモーションを担当していたのが先程言いました「ワイデン+ケネディ」と言う外資系の広告代理店だったので、それがきっかけで僕はここに所属するようになりました。

■今必要な人―チームを組織する人、まんべんなく知っていて2つ以上深めている「π型人間」
ここで最初に任されたというか担当して関わった仕事の一つが「石巻2.0」と言う石巻の復興街づくりに関わる人達を特集したインタビューしてまとめたフリーペーパー作りですね。僕は雑誌を作った経験もあったのでインタビューしたりその素材を構成したりという作業とコラムを書いたりという作業で、一万部位刷って石巻市を中心に発刊しました。又、ウェブでも見られるので後でブログか何かにアップして頂けるといいです。http://ishinomaki2.com/ 
このフリーペーパーは2012年のグッドデザイン賞を取って街づくりのためのメディアという所ではすごく良い評価を頂きました。
他の仕事はナイキのフェールバンドと言う、着けているだけで動いたのを数値化してくれるバンドとかの広告を作っています。僕は友達のプロのスケートボーダーとか歌手だとかモデルなどスポーツ選手でない人達で、まだ皆が目を付けていない若いクリエイターとかをこの広告に取上げるなどスカウト係のような感じで仕事に携っています。
ずっと2009年に雑誌を出してからこういう事ばかりしていたのですが何か最近というか3.11以降というかずっと頭の中にクエッションマークがあったのですが、何か若いというだけでどんどん色々な仕事が来たり依頼が来たりするのですが、その度に編集者と言われたり、あとクリエイターと言われたり何か肩書きだけは言われるのですが全部自分にはしっくりこなくって、確かに自分でも絵も描くし自分で文章も書くのですが何だか自分は何をする人なのか判らなくて結局皆自分の若さを目当てに来ている。それを判って仕事を請けているのですが何かすごい不安に感じるというか、何かこのままで良いのかなあとずっと長い間疑問を持っていたのです。でもその疑問というのが最近晴れて来たのです。晴れてきたという実感というものがあったのですが、それはドラゴンクエストという90年代にすごく売れたゲームソフトです。これの真中にいるのは「勇者」で、左には魔法使いとか戦士とか後ろには特殊技能を持った仲間達が沢山いるのですが、この「勇者」というのは結局戦いはするのですが戦う能力だったら後ろにいる戦士の方が強いし、魔術を使うのだったら後ろにいる魔術師の方が強いし一番ぱっとしない奴なのです。真中にいる「勇者」と言うのは主人公なのですが、この「勇者」というのが自分に一番近いのじゃないのかなあと。一人じゃ何にも出来ないのにチームを作らせたら「うまい」みたいだから雑誌も結局は自分一人では作れない訳だし、文章を書く人がいて自分でも文章は書くのですが、作品を載せる人がいてあと写真を撮ってくれる人もいる。そういうチームをあまり特技みたいな物は無いのだけれど何か自分にやりたい事があってそれに向って仲間を集められるというのは自分では気付いていないだけで、それ自身が自分の大きな才能だと、自分で言うのも何だけど、他の人には無い物だと偶然それに気付いた時に「ああ」これで良かったのだと。それで震災の後、結構僕みたいな「勇者」タイプの人、一人じゃ何にも出来なくて役に立たない人間は何か生き辛かった実感があって、と言うのもすごく筋肉もりもりの訳じゃないから被災地に一人で行っても特に力仕事が出来る訳じゃないし、すごくお金を集められる訳でもないし、お金を持っている訳でもないという中途半端なポジションにいて何かそれこそ居場所が無いなあというのを3.11以降結構感じてたりしていたのです。実はこの「勇者」タイプというのは3.11以降の社会には必要なつまりチームを組織するという力が必要とされているのではないかと思うようになりました。
ちょっと「T型人間」と言うのを一時期メディアとかで聞いた事がある方がいらっしゃるかどうか判らないのですが、「I型人間」、「T型人間」でこれは僕が考えた「π型人間」です。「I型人間」と言うのは一つの分野をすごく深く掘っていく、だから一つの事に長所がある。例えば先程の魔術師のように魔術をやらせたらこの人が一番、プログラムを書かせたら一番とか、ガレキを撤去させたら一番とかそういう一つの事に長けている人これが「I型人間」、けれど「T型人間」というのは色々な事を浅く知っているのです。ガレキの撤去も知っている、街づくりもちょっと知ってるいし、お金集めもちょっと知っているし、政治の事も知ってる、政治のシステムの事とかあと地方の政治の成り立ちなど色々な事を知っていながら自分でも一つ何か持っている。こういう人を「T型人間」。これは一時期ビジネスの世界でも「T型人間」がこれから来るみたいな話をされていて、けれど何かこの一連の震災の色々な事を体験した結果この「π型人間」がすごく必要であるべきではないかなあと、こうやって色々な事を知っておきながら何か一つ自分でも長所を持っています。でももう一つ持ちたいなって、この人は結局一人じゃ何も出来ないのですよ、ここの事しか出来ないのでここの事だけだと世の中には結構いるのです。これだけだとI型人間なのですよ、ITでこれとこれで二つまんべんなく知っているという事がすごく重要で「T型人間」と「π型人間」がすごく重要なのです。だからこういう人材をもっと増やしていくべきと言うか、こういう人材を皆が目指していくのが大事ではないかと思っていて、けれど何か結構こういう事を言う人が多いはずなのに僕が学校とか行っていてもI型ばかり育てている。何か皆そうじゃないですか二つの事をやろうとすると中途半端だとかたぶん一つの事を極めなさいとか、例えばイチロー的生き方、一つの職人的生き方というのを日本人というのはすごく大事にしすぎる、二つやっている人を中途半端だと言ってみたり三つやっている人はよく分からない人みたいなレッテルを貼られてしまう、それがすごく不健全だなあと思って僕の周りにも日本人に限らず色々な国の友達がいるのです。けれど何となく日本人だけすごくサラリーマン一本、サラリーマンでも色々なサラリーマンがいるけれど、何か一つの事に熱中しているすごく職人、日本の職人技はすごいと言うじゃないですか、けれど世界中には色々な職人がいて日本の職人だけがすごい訳じゃなくて普通に考えて日本人はわき目を振らないだけであってわき目をふらないという事はそんなに難しい事じゃないんじゃないかと思って、二つやっている方がすごいし三つやっているのはもっとすごい、何かこういう教育というか皆こういう価値観を持てば良いのになあと思うのです。

■政治システムの限界を打ち破る-ひとの個人の思い
ちょっと似たようで似てない話なのですが、このグラフは平成17年の調査なのですが今から9年前だからちょうどこの世代が一つずつずれる。このグラフは何のグラフか予想がつく方いらっしゃいますか。このグラフは年金の負担額なのですが、40代はぎりぎりでプラス240万位得できる。50代は1250万オーバーで60代は5000万近く自分が支払った金額からオーバーで貰える、今平成17年なので僕はここの世代です。残念ながら僕は生まれながらに4,000万の借金を背負って生まれて来た訳です。これを言っている人がすごく多くてこれが問題だよと、これはどんどん増えていきますからこれからどういう風にやっていきますかとなって来た時に、これは一つの例として上げたのですが、政治のシステムを変えなければ解決しない問題をどうやって解決するのか、僕はこれは安倍さんでは解決できないと思うし、安倍さんで解決できると思っている人はあまりいないと思うのです。あまり期待していないこれは安倍さんが解決しようと思っても解決できないのです。と言うのは、40才代以上の世代で政治は成り立っているからです。30才代までの人達はもう選挙には行かないので40才代以上の人達が得をしている限り政治のシステムは変わらない、これは民主政治だからしょうがない事ですが、若い人達の中にはこれを変えたいと、政治システムを変えたいとか自分が政治家になって変えたいとか言う人は僕の周りにはすごくいて、やっぱり僕の学校はアドミッションズ入試と言うのですが自分のやりたい事を論文に書くとそれで採ってくれる学部なのです。だからやたらすごく詳しい奴だとか、政治の知識を持って政治家になりたくて学校に入って来ている人がいる。英語とか全然出来ないのにそういう人がいるのです。だけどそういう人達を見ているとちょっと無理じゃないかなあと変わらない気がする直感なのですが。すごく時間がかかる。だから50代以上の人達が死なないといけない。死ぬ人達を前にして言っているのも何なのですが、それまで変わらない訳なのにここですごく頑張ったところで数が違うからじゃあどうしたら良いのかなあと。
例えば他の問題にしましょう。例えば気仙沼にでっかい堤防が出来る計画があるのですがあれは多分被災者の感情から言ったら確実に建てるといった流れですね、勿論反対の意見もあるのですが、それを政治の問題にした途端にどんどん時間がかかる。決断そのものに時間がかかってしまう、この年金問題もそうなのですが政治システムの問題だから個人の考えがどうであれシステムの下に人が置かれている状態になっているのですごく不健全な状態が生まれている。これをどうすれば解決できるかと言ったら政治システムから抜け出した、人の良心?言葉がみつからないんですが、に注目することです。この人の個人の思いをそのままくみ取るシステムが出来ていないからこれは変わらないと言う事です。この問題に限って言えば日本に存在するすべてのお金の内大部分が貯金なのです。皆のタンスの中に入っているのです。運用もしない、死ぬまで使わないケースも多分あるのです。これはすごく勿体ないですよね。それをこの人達に使ってもらって増やしてもらえばいいのです。

■政治システムに頼らない問題解決の鍵-「クラウドファンディング」という仕組み
それでこういうのが最近出て来たのですが「クラウドファンディング」という考えです。「クラウドファンデング」というのは、政治システムの限界やお金の流れを打開しようと言われた訳ではないのですが、偶然そういうのに使えると言われ、どういう仕組みだと言うと、例えば僕が雑誌を作りたいのですが次の号に多分あと30万円位あれば僕の希望する部数の雑誌が作れるのです。今まで30万円出したと、例えばカフェなどお店を出したいと200万円あればカフェを出せる。自分で商売をしたいと会社員じゃなくてそうしたら初めはまず銀行に行ってみようとか、ベンチャーキャピタル、お金を出してそのリターンで投資家にリターンする、投資をビジネスにする人、もう一人この人は優しいです。エンジェル投資家一人で経済を活性化する事が自分の幸せだと思っているお金持ちの方です。これって結局一人一人が銀行がなくても例えば僕が30万円ほしいとして銀行ではなかなかお金が借りられない、そういう時にもっと沢山いれば皆で300万円を割れば、例えば100人いれば一人3万円出せば300万円集まる訳ですね。そうするとこういう人達は要らないようになってしまうのです。それは皆が少しずつ出してくれるからです。この人達が少しずつ出してくれる、300人が1万円ずつ出してくれる。これを群集の資金援助と言います。
こういう「クラウドファンディング」という仕組みを実際やっているサイトは実はすごく沢山あるのです。「クラウドファンディング」というのはインターネットと同じようにサービスの総称で「クラウドファンディング」という中に「クラウドファンディング」をやっている会社が沢山ありましてその中の一つが「キャンプファイヤー」と言う、これは例えば“商店街バンド新装開店プレミアライブ”これは商店街にバンドを呼びたい人だけど、こういうのに銀行はお金を貸してくれない又投資家がつくとも考えにくいし、インターネットでこういう事をやると今なんと84人がこれを支援して159万5500円集っているのです。これってすごい事だと思いましてこのサイトを見ている人達は若い人達だからまだそんなにお金に余裕のない人達です。先程のグラフで言うともっと上の人達貯蓄額もあって年金も沢山貰える人達がこういうサイトだとか、僕のように色々な若いアーティストを知っている人間と巡り合うことでもっと若者にお金が回るように出来たり、これは政治システムを変える訳ではなくもっと流れが円滑になればどんどん本来はこんがらがっている政治の問題もスムーズに解決できるしそこで大きなエネルギーを使う事もないし時間をかける事もないし、これは先程のフリーペーパーの印刷費だとか震災で流された店のノボリをもう一度印刷したいだとか小さい物から、海外シンポジユムに出席するための渡航費がほしいだとかそう言った若者が沢山こういう所に投稿しているのです。こういう政治システムの変革に頼らない問題解決がこれからすごく大きなカギになると思っていて、例えばこれから被災地というのは福島県を観光スポットにすると言っている友人がいて今はまだ観光地化するというのは心情的にも健康上の理由もあって難しいけれど必ずやその3.11という事そのものをコンテンツとして、今言葉にしてしまうとちょっと抵抗があるんですが、消費財として売り物に出来るそういった事を考えた時にこういう「クラウドファンディング」とか政治システムに頼らない解決法がどんどん重要になって行くのではないかと思っています。

■簡単に自分の声を情報発信できる時代-メディアの使い方を広げる
実は『LIKTEN』の次の号では坂本龍一さんにインタビューしているのですが、彼が言っているのはメディアの力がすごく大切になって来ると言っています。1号目は政治特集だったのですが今度の4号目は情報をテーマにしていてどういう事を書いているかと言うと「クラウドファンディング」とかのような大掛かりな物ではなくても、自分たちが簡単に作れるブログだとか、どうメディアを使っていけば良いのかということを取上げている、このようなインフォメーションがあまりにも少なすぎると思うので。ブログなんかはメールアドレス一つあれば誰でも簡単に作れる。50年前に僕とか皆様みたいな個人が世界中の人達に文章を公開したり写真を公開したり出来るシステムが存在しなかったけれど情報の扱い方や処理の仕方、例えばテレビの情報を見て正しく判断する力とかを「メディアリテラシー」という言葉を使ったりしますけれど、与えられた物をどう消化しどう処理するとかばかり語られていて、だからこういう「クラウドファンディング」とか自分達が主体となってやるあるいは動かしていくシステムというのはあまり広まりが良くないし、未だにテレビとかラジオとか、僕の周りの人は観ている人が多くないのですが、多分まだ20代~30代以上の人にはテレビがまだまだ力を持っていると思うのです。自分達が観るメディアの教育はされているけれど自分達で使っていく、例えばブログを書いたり自分の声を発信したりするメディアの使い方というのは教育されていないしそういう使い方がある事すら解っていない、これは何かもったいない事なのです。だからこういう会とかこういう小さなコミュニティーを沢山作って情報を公開していくのは僕はすごく良い事だと思っていてこれをきっかけに「キャンプファイヤー」だとか「クラウドファンディング」とかこれだけじゃなくてブログを書いたりだとか自分で情報を発信する事にチャレンジする事も大事だと思います。

■「東京ライジング」-政治システムに頼らずお金もかからなず「日本」のPRできる
あと「クールジャパン」政策というのが国がやっているのですが、日本だけじゃ市場がどんどん小さくなっているので今どんどん大きくなっているアジアの市場にアニメだとか日本の映画を売り込んでいこうという、松岡正剛さんとか編集者の方々が中心になってやっているのですがなかなか上手くいっていない、麻生さんが総理の時にアニメの施設を作ろうとした時にすごく批判にさらされたりだとか、けれど一方で韓国というのはソフトパワーコンテンツを発信する力はすごく強い、例えば「少女時代」だとか「KARA」だとか2~3年前紅白歌合戦に出ていたりしたけど、日本の「AKB48」があそこまで海外に広まる事はあまりない、「KARA」とか「少女時代」はアメリカでもすごく人気があるのですよ。韓国ってすごく小さい国で市場規模もそんなに大きい所ではないのに何故ヨーロッパとかアメリカに自分たちの持っている資源、コンテンツを売り込めるかと言うと単純にそれを担当しているのは海外の人なのですよ、日本の映画とかアニメを売る担当の人っていうのは松岡さんとか結局は中の人なのですね残念ながら。役員も全員日本人だしそれを取りまとめているのも日本人だし決定を下すのも日本人だし、アイデアを出すのも日本人なのだけど、韓国は違うのですよ、韓国が好きな外国人というのはその部署にいっぱい入っている。       
何故そんな話を始めたかと言うと実は日本好きの外国人というのはすごく多いのですよね。これを少し見てほしいのですがこれはすごく海外では話題になって、何故か日本ではあまりニュースにはならない、これは「ファラウィ ウィリアムス」と言う黒人の男性で世界的な音楽プロデューサーで例えば「イチロー」よりも有名で知名度で言うとちょっと難しいけれど世界の若者100人に聞いたら99人が知っている世界的なミュージシャンなのですが、彼は日本が大好きで3.11の後にどうしても日本を応援したいと言って「東京ライジング」というドキュメンタリーフィルムを作ったのです。僕も取材を受けたのです。100人位のスタッフを日本に呼んで、福島でF1ドライバーとかが日本の水を飲まなかった時、海外から来たドライバーが水を飲まない位警戒をしていた時に彼は200人のスタッフを連れて日本に泊まって福島に行ったり、彼の友人の日本のアーティストにどんどんインタビューして今日本はどういった状態なのかとかこういうデモの主催者にインタビューしたり、これは素人なんですが高円寺で古着屋さんをやっている人なのですが彼らが取材したテーマというのが一番大きかったのです。これを取り上げたメディアというのが残念ながら海外のメディアだけでしたね、日本語で出たのはニューズウィークの日本語版だけでした、この米国人ラッパーが作った最強の東京PRビデオを。これはレディースアローと言う『フィガデオロッシュ』のフランスの新聞記者が書いたコラムなのですが、「もし責任者に外国人を起用していれば。韓国ではそうだが、日本観光のPRがもっと成功していたかも知れない。日本の良さを謳う外国人が作った映画や音や歌やアートは素晴らしい上に無料の広告だ。」これも実は先程言いました政治のシステムを変えないでより状況を良く出来る方法の一つです。もう莫大なお金を掛けてアニメの博物館を作ってみたり海外にアニメの教育をするアニメーターを派遣したりするのだけど、今のムービーは日本の政府は全くお金をかけていない、全く作ってと言って頼んでもいないのに、彼は自分から来て200人ものスタッフを引き連れて自分達でビデオを作って、これはニューヨークの映画館でも上映したのですけれどこれはトータルだと30分のファイルがパート6位まであるので約180分位ですねもうほとんど映画と変わらない位の分量のものを日本の政府からお金を取らずに勝手にPRしてくれる。日本のポジティブな情報を世界に向けて発信してくれる、けれど残念なのはその事を日本人自身がそれに気づいていないそのお得さとか日本の持っている力に全然気づいていない。日本というのを説明しなくてもすごいと思わせてくれる。

■欲しいモノは欲しいと思う消費者が、開発費用を出し作れる消費者が作る
これも海外ではすごく話題になったiPadiPhone向けのアプリなのですが携帯を楽器として使えるという仕組み的にはたいした事ないのですが、ムービーを作ってこういう風にネタをどんどん録音していくのです、こうやって色々な音を集めた後にこの音を使って皆を集めてパーティーをする。実は最終的にはソフトを売る事によってお金になった仕事、プロジェクトなのですけれど結局初めはこういうのを作ったらおもしろいよねとこれも先程の「クラウドファンディング」で資金も皆に募ってこういった物を作りたいのだけどほしい人はお金を出してほしいというのと同じです。先程説明するのを忘れたのですが「クラウドファンディング」は基本的にはお金は戻ってきません。例えば僕が皆から1万円下さいと言って貰ったとしても僕は貰うだけで皆様には1万円は返しません。その代わりに僕のサイン入りで送るからとか、これだったらオリジナルのこの演奏データの入った物を返してあげるとか、ちょっと普通に買う人よりも少しお得な特典が換って来る。そういう仕組みでやっていて、これだったらステッカーが付いてくるお金を出すとほしかったソフトと、お金を出した人しか貰えないオリジナルステッカーが貰えるという、結局いくら集ったかというと300万円位集まったのです。こういう皆の力があれば全然政府だとか役人さん達が頑張って企画した物より遥かにすごい物が作れるのです。これは絶対国が作れない。先程言ったのは日本国内の物だったのですが「クラウドファンディング」という仕組みのブームの火付け役になったのが「キックスターター」というサイトです。
この間までアップル製品がすごい家電というかタブレット業界でイノベーションを起こして日本のメーカーが全然ついて行けなかった、それはほんとうに消費者が欲しかった物をメーカーが作らないから、例えばエアコンだって自分がいる所にダイレクトに風が来てほしいとは誰も思っていないのに日本の企業というのはどれだけダイレクトに当てられるかとか言う事にすごく気を使ったりしているのですね。それは結局消費者と作る人が別れてしまっているのでそういう問題が起きるのです。この「キックスターター」の面白い所は皆自分達が欲しい物を自分達で作ろうとしている所なのです。例えばこれはお金がほしい人達であり開発者です。これは犬用のおもちゃです。彼らはこのように犬用のおもちゃを自分達がまずほしい、売りたいのじゃなくて自分達がほしい、中に餌が入れられたり遊んだ分だけ餌が自動的に出て来るものを作りたいので、このサイトで皆がお金を出して集った金額が数億円を越えるものがあるだから皆が欲しければ作れる人が作ってしまう。だから大きなメーカーが動いたりしなくっても日本ではここまでサービスが盛り上げっていない事もあってそういう気分になっていないのですが将来的には皆が企業とか第三者に頼らなくても作りたい人が作った商品に必要な分だけお金を出せばその商品が手に入ったり、全く無駄がない商品の入手が可能となるのです。
僕こういう事が雑誌だとか若者が作るメディアにも広がって行くと思っていて興味があれば積極的にこの若いアーティストだとか若いクリエイターとかに無理にお金をあげたらと言う訳ではなくて自分達が欲しい物があればそこにお金を惜しまないでほしいということです。先程のメディアの使い方も一緒でどう自分だけで消費するかではなく商品の出来た向こう側の事を考えてお金を使うという事、商品を買う事が投票行為だと思って、あなたの作っている商品が良いしあなたの作っている商品をこの先買い続けたいからという事で買い物をする事、それがこれからすごく大事ではないかなあと思います。
僕が用意して来たのはこのような感じなのです。

<質疑>
Q.『LIKTEN』を紙で出した意図は?
A.ルイヴィトンのお店がありますけどルイヴィトンのお店が表参道にあるのですが、高校生とかあまり入れるような感じではない、いわゆる気軽に入れるお店ではないからこそそういう所を越えたお客様だけ相手にすればいい、来るお客様の層は大体決まっているから店のサービスを高める事が出来るし買う気で来る人が来ている訳だから、より良いサービスを提供できる。だから逆にスーパーとかは全然敷居なんて無いような物で誰でも入れるしけれどサービスなんてルイヴィトンに比べたら全然落ちる訳ですよね、何故かと言うと色々な人が入って来る訳ですよね買う気のある人も無い人も入ってくるし、そもそも高い商品を買う気なのか安い商品を買う気なのかとかばらつきが多すぎる、だけどルイヴィトンだったら高いバッグを買いに来ている人達だけ、だから例えば紙も同じでこの紙の本と言うのでかなりフィルタリング出来るのです。買いに行くのがまず面倒くさいしまず本屋さんも選べば例えばこれは代官山にあるツタヤさんで代官山のツタヤは他のツタヤと違って年齢層の高い人向けにやっているのです。ちゃんと選書をする人がいて良い本しか置いていないのです。そういう事をする事によって本に元々興味がある人しか役に立たない場所に置いてある。そういう事で本に興味もないしあまり今まで文章を読まない人にはあまり実は読めないようになっている。逆にこれは見せたもの勝ち、出来るだけ多くの人に見てもらいたいというのが若者には陰りを見せて来たのかなと、だから仲間内のメールも1対1のメールじゃないのです。「メーリングリスト」と言って一つのアドレスに一度に何人の人にもメールを送れるというのです。この会にもメールがあるのかどうか判らないのですが、このアドレスに登録している人が一気に一通のメールを共有したり、それを返信すると又一気にメールが届くだから開かれているのですがすごく小さい、フェイスブックとかツイッターに比べるとすごく小さいコミュニティーでコミュニケーションをとる事が出来る。それがすごく若者には流行りっぽくなって来て若者の流行というのは必ずどんどん上の世代に上がっていくので

Q.何故流行りになっているのですか?
A.こう言ったツイッターとかフェイスブックは結局色々な人を相手にしないといけないし、嫌いな人も見ているし、昔はネットと言うのは現実では言えない事をつぶやいたり発信する場所だったのに、いつの間にかそれが逆転してしまっているのです。あまりネットでは言えない事を現実でひそひそと言うような逆転現象が起きてそれで皆疲れてしまったのかなと、だからネットの方がしがらみが強くなって来た。コンビニの冷蔵庫に入ってコンビニがつぶれてしまったりしました、そう言った監視社会、昔だったらこのような事は気にしなかったしコンビニがつぶれるような事もなかった。まるで落語のようじゃないですか冷蔵庫に入ったらコンビニがつぶれたなんて言うのは、ちょっとギャグみたいですよね。そういう息苦しさみたいな物が徐々にこれから社会に蔓延するのではないか、だからフェイスブックの利用者に(皆様フェイスブックをやっているかどうか判らないけど)若者はアメリカではどんどん減っているのです。ツイッターもすごく減っている、こんなに盛り上がっているのは元々日本だけなのです。アメリカではユーザーはもう頭打ちになって減って来ている。
皆メールだとかこういう会ですねネットで難しい事をやろうと言ってるのじゃなくてこういう小さなコミュニティーをいかに熱狂させるか、今までは広く浅く知ってもらいたい例えばテレビのCMでもそうですが、うちの企業理念とかはどうでもいいから商品の名前だけ覚えてくれ「チョコ棒」だとか「ガリガリ君」だよ、だとかそうじゃなくてうちの会社の理念を知った上で買ってくれだとか色々な人に買って貰いたいと思わないからサポーターを増やしていくだから僕が「ワイデン+ケネディ」と言う会社で担当しているのが「ベン&ジェリーズ」と言うアイス屋さんなのですが、これも元々はアメリカの企業で環境に良いというこう言う企業理念をどんどん表に出してCMはほとんど打たないこの企業理念に引っかかって来れる人だからCMなど打たないので、広告代理店としてはあまりおいしくない仕事なのですが出来るだけ小さなコミュニティーにどれだけ熱烈な人を持つかという事、ウェンディーズだかバーガーキングだったか、これは一昨日位のニュースなのですがフェイスブックに企業も色々ページを持っているのです。例えばホームページのような物がフェイスブック上にあるのですが、それに「いいね」とするとその企業の情報がどんどん流れて来るけれど「バーガーキング」がほんとうに好きな人だけ「いいね」をしてくれ、マックが好きな人にはマックのクーポン券をあげる。その結果3万人減ってしまったのです。バーガーキングの元々の情報を見ていた人が3万人減ってしまったのですが残ったのは熱狂的なファンだからそれで良しという、これは今までの広告の流れでは絶対に無かった事なのです。
先程言ったメールの話から広まりましたがこれからはどんどんそういう流れになって行くと思います。
コミュニティーが小さければ小さい程掛かるお金も小さくなる。例えばこれも僕が何百人もの人を相手にするような大きな会であればここでは足りないのでちょっと違う会場費の掛かる所に変わる訳ですよね、そういう事を考えるとこういうコミュニティーというのはどんどん色々な所に出て来るその中で熱狂して例えばこういう会じゃなくても、つぎの会とかお茶会とかそういうのがどんどん増えていくとそういう物が社会だとか行く々は国の力みたいな物に繋がって行くのではないかなあと思っています。それは被災地も一緒でだから被災地の仮設住宅で暮らしている方々にもボランティアの方の主な役割というのが小さなコミュニティーを作ってあげる事、だからわざわざ手芸をする場所とかはちょっと離れた場所に作ったりするのです。離れた所というのは、バラバラに近い所に作るのではなく皆が集りやすい場所一つだけ作るのです。そう言った小さな集まりを作ってどんどんコミュニティーを増やしていくというそういうコミュニティーが沢山出来てくるとどんどん元気になって行くという事です。

Q.「東京ライジング」のなかに震災があってこれから変わると言う人がいるのですが、ほんとうに変わっているのか?
A.変わると言う人がいたと言うのが不思議に思っていて、僕は偶然両親の実家で起こった出来事だったから僕の中では大きな地震だったけれど、あれは全然若者には影響与えていないです。全く変わっていないです。勿論少なからず影響を受けた方もいますが皆様が言う程、本とか雑誌で読む程の若者のマインドチェンジになる様な出来事ではないのです。残念ながらだから関西の方々はどうなのですか。
(-関西は東京なんかと比べると非常に遠いです。私達はこの会をやっているから被災地の方々の話を聞いているので少し位関心はあるのかも知れないですけれど時系列で見れば随分関心が薄くなっているし忘れられているなあと言う私の感想ですけれど)
けれど僕は忘れても良いと思っているのです。勿論細かい所の教訓例えば原発の人達が忘れてしまったら困るのですが、3.11というのは「パールハーバー」とかではないので自然現象な訳なので、誰が悪いとか誰かがいけない事をした訳じゃないので震災自体忘れるという事が僕は絶対駄目だとかそういう風には全く思わないのです。むしろそこから得た教訓を忘れなければ良いと思っていてその教訓を得たのは何かという事は別に忘れても良いと思っているので全然捉え方が年代によって違うのかなあと思います。

Q.お話としては非常に面白かったのですが、一つ気になったのは最初に政治に対する失望したような部分が「言っても仕方がない」と言う諦めの部分がありまして、そこの所を乗り越えているのか乗り越えていないのかよく判らないのですが、形でITのコミュニケーションの仕組みを変えれば世の中が変わるのではないかというふうに私は受け取ったのですが。実際に20~30年前或いは40~50年前にそういうコミュニケーションの仕組みを変える事で政治を変えようという活動が、例えば昔で言えばアングラ劇場とかいわゆるサブカルチャーの部分で非常にそう言った影響の強いインパクトの強いコミュニケーションの手段を色々な人が作って来てやっていたと思うのです。今のお話を聞くとそれでもないし何か非常に繋がり方が平板な形で広く繋がるという、たまたまITの技術が入って来たからそういう感覚になるのかと思ったのです。もう一つは同感だなあと思ったのは今非常にハードルを高くする事によって人を選別する、要はコミュニケーションしたい人とコミュニケーションするという事をもし念頭に置けばそうせざるをえないような状態要するについ最近言われている「いいね」と言う事が非常に問題だと国家を滅ぼすという。まあツイッターとかフェイスブックで「いいね」と言う事を連発して基本的に「いいね」が組織的に来ると日本の国家を見誤っているのではないかという位の事を言われています。それが非常に問題であると言われていると思うのです。実際はそういうITを利用した形の政治的な活動、この間の原発なんかにツイッターとかに写真で集まるというあれも当初はすごいなあと思ったのですが結局そういう形で集まった人達は直ぐに散ってしまう、その持続性の問題をどういう風に担保するのかをもう少し考えないと限界があると思うのです、先程言われた「クラウドファンディング」にしても確かに昔からあるのですよ、それは大阪の街のお金持ちの人がお金を出して公共の橋を作るとかねそういうのはあるのですけれど、そういう事をもう少し密度を高くした形で要するに持続する必要はないのでしょうけどもう少し政治の方へ引っ張ると言うのに努力しないと結局それが強い物にならないのかなあと思っているのです。
A. 勿論政治の部分と両立するのが大事で政治に対し完全に失望しているから、そこに全くアプローチをしなくってもいいと言う事ではないのです。それにはすごく時間がかかるからその間の繋ぎとしてその例として「クラウドファンディング」で、今日の僕のすごい反省としては僕たち側がかなりグループというか小さなコミュニティーになりすぎてしまって全然思ったよりも使ってらっしゃらないと言うか思った以上にハードがつくパソコンとか携帯とか実際に使う、これが生み出す壁というのが高すぎると言うのが、僕こんなに世代が違う人と話すのはあまり機会がないので初めて今日久々にその田中さんの携帯を見て、ちょっとミスったなあと思ってそれはだから「どうにかしろ」とか言う事じゃなくて、だからそれはむしろ僕たちに必要な改善点かも知れない。こっちに引っ張ってくると言う考え方じゃなくて言い方は悪いかもしれないがどんどん降ろしていく、寡占しないで自分達が作ったサイトとか技術とか言うのをもっともっと簡単にしていく、もっともっとユニバーサルな物にしていく努力が僕もソフトを作る側の大学だし。
Q. 僕の感覚ではそれは逆かなあと思うのですが、要はたやすくリンク出来るとか誰でも参加出来るとかねそういうシステムはおのずとそれが限界になっていて非常に問題であると思っています。特にアメリカの企業は人のために商品を作るとか、より便利な物を作るとか、先程の犬の餌の商品ですが私なんかは絶対投資しないのですが、だからそういう商品に対する考え方も非常に安易と言うか言葉ではうまく言えないのですが、非常にハードルが低いという事を追求していく論理と言うか、追求していく社会と言うのが非常に問題があるのではないかと僕個人的には思っているのです。むしろ多様性をいかにパソコンの中にしてもあるいは社会にしてもそのまま保証するという事が出来るような、それは多分政治なのです。政治のシステムを作るという事でしか逆に今の状態をなかなか乗り越えれないのかなあとずっと思っています。
A. それは大方の考え方ですよね、それは普通の考え方であり完全に同意しますけどこのままでずっと腐れ縁で来てその考えが3.11によって少しずつ変わり始めていると初めて若者にとって僕達の世代にはインパクトだったのです。昔から繋がり方を変える事によってコミュニティーだとか街を変える事は知っていたけれど僕達にとっては初めての出来事、変化点がそうだったのですね。昔に比べてハードルの差は縮まって来ていると僕達は思っていたのです。それは勘違いだったという、今日はちょっと勿論情報としては皆様がスマホを使っているとは勿論思ってはいないが予想以上です。
Q. 事例的にね先程言われたこの「ベン&ジェリーズ」企業がうちの商品買ってくれなくてもいいですよと言うマーケティングをするというのは、有名なのは「パタゴニア」なんかがそうなのですが、アウトドアの衣料なのですがパタゴニアのダウンを買わないで下さい。買って欲しい人は「こうこうこういう人」なのですと、最終的に手直ししてずっと使うか要らなくなったら確実に次の人にリユースさせるという活動をしてくれる人に買って欲しいのだという事をやっている。買わないで欲しいというのをヘッドコピーで出してそういう事をやっているのです。それはまだちょっとねマーケティングの業界から言うとちょっと光かなあと言う感じを持っているのです。
A.パタゴニアのポップキャンペーンというのは初めはわりとそういう見方もわりと多かったのですがけれど、ちょうどナイキの仕事をしていてパタゴニアがやったことでナイキも1%だけを無農薬の原料を使うことに変えたのです。ナイキの1%と言うとパタゴニアの一社分なのですよ、それが増えてくるという事でその結果が出始めているのです。そういう広告、マーケティングを知っている方にすれば「あきあき」してすごく見慣れているものこういう「ベン&ジェリーズ」なんかもそういう感じみたいな20~30年前からあるからと言う感じなのですが、これも総体的にはすごく増えているそういう事を志向する企業というのが一過性のブームのものではなく、その積み上げが出て来ている。それがアイスの企業にまで降りて来てこれに刺激された、例えばパタゴニアに刺激されたナイキと同じようにこれがハーゲンダッツも刺激し、ガリガリ君を刺激しそういう積み重ねが出来て、それと共に政治的なシステムの変化がちょっとずつどちらもちょっとずつですけれど、同時進行によって変わりつつあるだろう、変わり行くようにと信じた方が楽しく生きれるだろうとそういう事です。

2014年5月3日土曜日

「毎月11日の会」12月例会―東北のお菓子屋さんと東日本大震災―高 由貴子さん

 スピーカー 高 由貴子さん 神奈川県藤沢市在住
        和菓子文化研究家 東京いとしの和菓子著者
       ブログ「近所の和菓子屋さんの豆大福、パン屋さんのあんぱん」を発信        ブログURL: http://yuki-ssg.seesaa.net/
日時・場所 20131211日(火)
大阪市立総合生涯学習センター第3研修室
                      ※写真は上記ブログから転載しました。
                      
町の小さなお菓子屋さんをほめる
-ブログ「近所の和菓子屋さんの豆大福、パン屋さんのあんぱん」を始めたワケ
私は東京の渋谷区で生まれ育ちました。東京で和菓子屋さん特に町の個人商店の和菓子屋さんというのは衰退する一方でどんどん無くなってしまうのが現状です。日々皆様が楽しむ、例えば東京で言いますと「豆大福」とか「どら焼き」とか「たい焼き」みたいなもの、とても安価なのですけれどそれでも一生懸命作っているお店が沢山あります。今もそうなのですが洋菓子の方はやはりスポットライトが当りやすいしメディアも取り上げます。職人魂を発揮し、たとえ百円のものでも手を抜かないで一生懸命作っている町の小さな和菓子屋さんが沢山あるのに、どうして誰もそれを取り上げない、誰も注目していないことが腑におちなくて「褒めようよ」もっと褒めないと無くなってしまうよと思いました。どこのメディアも取り上げないのだったら、その頃から身近に扱えるようになったブログというものがあるので、私が「褒める」と言う事で始めたのがきっかけです。
国産のシンプルな素材の豆大福みたいな物ですと、国産のもち米と国産の小豆とお砂糖あとは赤えんどうなどだけで作れるお菓子なのですけれど、それだけにどれだけ心をこめて手を抜かないで作るという事が重要なポイントになってくると思います。そういった事を「褒めて」街から無くならないようにしたい、豆大福だとかたい焼きとかどら焼きは、東京発祥のお菓子とされているのですが、そういう物は大切な東京の食文化であると思うのでその食文化を誰もフォローしないというのは腑におちない、半分「このやろう的な」気持ちで始めました。そんなこんなで色々な和菓子を紹介する事を始めたわけなのです。最初は近所の自転車で行ける所なら何処までも行って、自分が好きだと思うもの以外、自分が良いと思うもの以外は紹介しない、美味しくないとか好きでないと思ったものはあえてそれを「いやだ」という事は書かないでそれはそのままで、ただ褒めたいものだけを褒めていく、そういう形で続けてきました。最初は近所の自転車で行ける範囲だったのですがだんだんそれが全国に興味が広がっていき、東北のお菓子もとても好きで憧れていました。岩手であっても宮城でも福島でもそれぞれに憧れて実際に私は東北に行ったことはなかったのですが憧れて好きなお菓子が沢山ありました。

2011311日-東北のお菓子屋さんの安否を探る
 そして2011年3月11日私は東京でその日を迎えました。自宅におりすごい揺れでパニックになったのですが私の所は建物も人も無事でした。周囲には帰宅難民になった友達も沢山いたのですが特にひどいけがをする人とか建物が全壊するような知人友人は周囲にはいなかったです。
東北が大変な事になっているのを目の当りにして、自分が好きなお菓子屋さんは一体どうなっているのだろうという事で、最初に自分がやった事はグーグルアースを見ることでした。もうこれはだめだと思ったお菓子屋さんが沢山ありました。今ではどんどんお菓子を作っている、例えば「かもめの玉子」と言うお菓子があるのですが、岩手県の「かもめの玉子」の大船渡がひどい事になっているので見たら「さいとう製菓」は大船渡のもろに津波の真っ只中にある処のようだったので、「ああ、もう一生かもめの玉子を食べる事はないのだなあ」とその時は思いました。今日ご紹介する宮城県の丹六園さんもグーグルアースで見るとその時はすっかり姿が無くなっているのですね、300年以上続いているお菓子屋さんなのですが「あそこも無くなってしまう」「ここも無くなってしまう」ここはどうだろうそこはどうだろうとホームページを見たら止まったままになっている。でも少しずつそれでも一週間、二週間すると何らかの反応がありました。大変な事になっていて今営業は出来ませんけど何らかの反応が色々なかたちで、ネット上で誰かがここのお店はこうでしたとかあるいはホームページを持っているところは今営業休止しているとかそういうのがあったのですが1ヶ月経っても全然判らないお店が三つありました。
一つは宮城県の松島にある「紅蓮屋心月庵」という、「毎月11日の会」のこちらの会でもお菓子をお出しになった「松島こうれん」というお菓子を作っている600年位続いているお店です。あとは同じく仙台市の若林地区という所にある「石橋屋」という仙台駄菓子を作っているお店が1ヶ月経っても一体どうなっているのか判らない、それからもう一つが今日これからご紹介する宮城県の塩釜市の「丹六園」というお菓子屋さんで、知り合いのデパートのバイヤーさんにこのお店は「一体どうなっているのでしょう」と訊いたら「その3軒は連絡がとれないのです」特に丹六園さんの場合はお嬢さんが都内に住んでいるという事だったのですが、お嬢さんからも連絡が取れないって言うからこれはもう駄目だなあとその時は思ったのですね、これで300年続いたお店なのに無くなってしまうのだなあと思っていたのですが、それがちょうど1ヶ月と1日位で、連絡が取れました、FAXが入りましたと聞いてちょっと胸をなでおろしたのです。

300年の伝統をもつ塩釜市「丹六園」を支えたお客さんとボランティの力
-ボランティアに行く決心をする
私はそういった話をブログに書きました。4月25日位に「丹六園さん大丈夫だったようですが、ご当主は無事だったようですが店は滅茶苦茶でガレキに埋め尽くされてしまったようです」というのをブログに書きましたら、塩釜に実家があるという方が私のブログを見て連絡を下さいました。その方の実家は塩釜でつい最近行ったのですけれど丹六園さんは床上浸水はしているのですがガレキで滅茶苦茶にはなっていません。良かったら画像をお送りしましょうという事で送って下さいました。それを見ると確かに建物は残っていますし、その時のお話を画像と共にお見せしたいと思います。これはちょっと判りにくいと思いますが、4月の初めの頃の丹六園さんの建物で、江戸時代の材料で造った建物でとても立派な大黒柱もあり建物本体は無事だったのですが中がかなりヘドロや何かでグチャグチャになっていて、すごく重い什器や何もかも引っくり返っていて大変だったそうです。この次の画像を観て私はボランティアに行く決心をしました。
2011 年4月 塩釜


















これに参加しているのは国内外から来たボランティアの方なのですけれど中のどろどろになった畳などを全部ボランティアの人たちが来て、これが5月の3日の状態でここまできれいになったのです。だいたい3月終わりから4月の頭ぐらいまでボランティアが塩釜の各家庭に密に入って色々手伝ったそうなのです。塩釜の様子を教えていただいた話を読みます。「多くのボランティアの方々が被災地に入って下さっています。男性は泥水を含んで非常に重くなった畳や床下のヘドロをすくって捨てるだとか、女性はヘドロで汚れた床や家具をきれいにするとか家族だけではとても出来ない仕事をして下さっています。3月29日に実家に来られたボランティアの方々は、18枚の畳とカーペットを剥して捨てて下さいました。男性8名女性2名のチームがあったそうですが男性の内2名はイタリア人とインドネシア人で、母が伺ったところによるとイタリアの方は東京在住で30名教会に来て泊まっているという事です。日本人だけでなく外国人の方々も助けて下さってほんとうに感謝です。被災地はどこもまだまだ元の状態に戻るまで時間がかかり大変です。」
私がブログに掲載する丹六園さんの記事を書いていたそのときに、丹六園さんは無事だったというメールで飛び込んで来たのです。そのメールに添えられたのは大分きれいになった画像だったのですけれど300年続いている丹六園さん、今は11代目のご主人さんがいらっしゃるのですけどそのご主人が「ボランティアの人たちが泥の除去作業を手伝ってくれなかったらあるいは、歩いて見に来てくれるお客さんがいなかったらもう私の代でお終いにする気でおりました」とそういう事をおっしゃっていたそうです。私はそれを聞いて自分が大好きなお菓子屋さんがそのボランティアが助けてくれる事によって300年の伝統をひょっとしてそこで終ってしまったかもしれないのだけれども、それで続けようと思ったと聞いたとき「じゃあ、自分でも何か出来るんじゃないか」と思って私は6月からボランティアに行く事にしました。

木型とレシピとご主人が無事だった「丹六園」-20115月「志ほがま」「長寿楽」が復活
丹六園さんについて少しお話します。今、おもな営みは茶舗です。お茶屋さんでいらっしゃいます。元々は伊達藩で廻船問屋として営んでいたようなのですが、その時伊達家に元々の先祖は製菓業も営んでいたとのことです。今は11代目なのですが8代目か9代目位の時に廻船問屋みたいなものはなかなか安定しないので茶舗となって、昭和25年に元々は先祖が塩釜と言うお菓子を元々先祖が作っていたという事を調べて「志ほがま」を昭和25年から作り始められました。宮城産のもち米の粉と藻塩という古代製塩法によるお塩があるのですがそちらを混ぜて「ぎゅっと」押し固めた柔らかい軟落雁で、それに青じその粉を混ぜたものです。地震が来た時には凄い揺れが来た時、お店にはご主人がいらしてお客様もいらしたそうなのです。その時ご主人はこれは絶対に津波が来ると思ったので、その時お店にいたお客様ら全員を車に乗せて塩釜神社までとりあえず行き、皆様の命だけは救われたそうなんです。でも戻ってみたらお店はグチャグチャになっているし水浸しになって什器は倒れているしと言う事だったのですが、2階は水に浸たらなかったらしくてたまたまこの「押物」の、この木型とレシピとご本人が大丈夫だったのでこれで「志ほがま」作りは出来ると、5月の初め位からまた始められました。
お菓子の話になりますけど、木型が残っているという事が重要で、今お菓子の木型を作る人がいないのですね、全くいないのではなくて良い木型を得るのが難しいようで、老舗のお菓子屋さんに行くとよく店内に木型が飾ってあったりするのですが、木型が無事であったりレシピが無事であったりあとはご本人の技術が大丈夫であったという事で作り始める事が出来たんですね。鹽竃神社に「鹽竃桜」と言う天然記念物の桜があるそうなのです。鹽竃神社の門にもなっているという「鹽竃桜」を打ち出した“軟らくがん”で、その風味とちょっと塩気があるお菓子です。今日実際に「志ほがま」をご用意致しましたので味わって頂きたいと思います。「志ほがま」ともう一つ、二つだけなのですね丹六園さんが作っているお菓子は、両方とも柔らかいらくがんで、あともうひとつはクルミと黒糖を使った「長寿楽」です。
丹六園 「志ほがま」
















今皆様に召し上がって頂けるように割った状態なのですが、表側が「鹽竃桜」を打ち出したものなので裏を返すと「長寿楽」のように山型チョコのようにラインが入っていて分けやすいようになっています。「志ほがま」は特に茶席用のお菓子として香りの良さと美しさで高い評価を得ています。完成品は大型とその半分のサイズがあるのですが、今日は大型の方をご用意しました。切れ目を入れていますが切れ目の無いのを想像して頂きたいと思います。これは「打物」と言うのです。つくるのは難しくて簡単にぎゅぎゅっと抜けるものではなくて、私も食べるだけではなくて自分の趣味として和菓子を作るのですが、「打物」はこのサイズになるとちょっとやそっとの技術ではなかなか出来るものではなく丹六園さんの「志ほがま」はほんとうに美しく仕上がり、味も非常に良いと思います。藻塩としその香りがして、塩釜辺りで、藻塩が海の幸だとしますとクルミが山の幸として。東北の方ではクルミのお菓子がたくさんありますが、こちらは昭和60年位に若向きと言いますか親しみやすいお菓子として創案された黒糖とクルミを使った「長寿楽」です。黒糖とクルミがとても身体に良いという事で長寿によろしいと、「長寿楽」という名前をつけたものです。藻塩というのは古代製法によるお塩だそうでホンダワラと言う海藻を海水に浸してそれを乾かしてその作業を繰り返して出てきたその塩を藻塩と言うそうです。だから茶色がかったりグレーがかったりしているのですね、藻塩の色の雰囲気を出すためにしそを入れているそうです。風味とも塩らしさを出すという事でこのしそを使っているそうです。
こういう半生菓子とか干菓子という物は傷む、腐るという事はなくて風味がなくなったり硬くなったりなので賞味期限があるのですがカビたり傷んだりすることはそうないものなのです。だいたいお菓子は大きく分けて「生菓子」と「半生菓子」と「干菓子」に分かれます。この柔らかいらくがんは若干生感があるものは半生菓子と言ってもいいと思います。丹六園さんのおかみさんが茶器など器がとてもお好きでお店に行くと器屋さんかと思うくらい、お茶のお店なのですが、陶器などが沢山あります。

20116月気仙沼へ-「南郷地区泥上げ大作戦」に参加
微力ながらという感じですが、まず6月に気仙沼に。私は日々東京で暮らしているのでそんなに長くずっと行く事も出来ないしまずどうやって行くかも分からなかったので色々調べたら、金曜日の深夜から車中一泊して10~12時間かけて被災地まで行って土曜日に着いて土曜日に一日仕事をして夜に又バスで帰ってきて日曜日の朝東京に戻ってくるという。これは茨城県の筑波から当初発着していたのですが、筑波までだったら何とか金曜日の夜からだと一時間半程かければ行けるだろうと思って。バスに乗っても何処に行くかも分からないのですね、これはレーベンバスといって個人のボランティアをたくさん集めて出発してくれるバスで、たまたま見つかったのでこれで行きました。
(画像を指して)最初に行って見たのはこの景色だったのですが、気仙沼の南郷地区という所に行って色々な景色を目のあたりにしました。この「地震が来たら津波」という看板は、「この辺りの避難場所は南気仙沼小学校」と書いてあるのです。これは街の中の川なのですが家屋は浮かんでいるは、車は浮かんでいるはですごい感じだったのですが、この南郷地区というのは津波で被害にあうとは住民の人は思ってなかったくらいの内陸部だったので、そのような用意もないし3.11までここの小学校まで津波が来ると予想だにされないような所が津波に襲われてしまったようなのです。
この日に行ったのは側溝の泥上げ作業つまりドブさらいですね。個人で自宅の前だけドブさらいをやっても水は通らないから、大勢で一気にやらないと意味がないということです。(画像を指して)中はヘドロでどろどろになっているのですが表側は普通で裏に行くと木が家に刺さっていたりとそういう感じだったのです。(画像を指して)「南郷泥上げ大作戦」というのあって一番最初はこれに参加しました。側溝のふたを開けると中がヘドロでどろどろになっているのですけれどそれを皆でスコップで掘りあげて袋に入れ土嚢に入れてというのを2日間やりました。この時の参加ボランティアは東京と、秋田とか被害があまり深刻でない東北の他県の人たち、埼玉、茨城などの人々です。地元の方が私たちのために炊き出しをやって食事などあたたかい物を出して下さいました。
南郷地区という所は住宅地なのですが、その後港の方へ行ったらもう凄かったのです。最初に行った気仙沼のこの南郷地区で出来る作業はほんとうに大したことはなくて土曜日の朝に着いて暗くなる前に終らなくてはならないので3時半とか夏は4時位までで出来ればというのが実際でした。それぞれ皆生活があるので出来れば日曜日にまたがらないで、と思うのは帰りは筑波着なので。筑波に半端な時間に着くと始発までずっとバスで待っていないといけないので、出来れば土曜日の最終電車までに筑波に帰りたいと。4時位までそれからバスを飛ばしてと言う感じだったのです。結局あまり乱暴な運転をすると危ないので、飛ばしても終電には間に合わなくて明け方まで筑波でこのバスの中で寝ていました。

20117月大船渡へ-さいとう製菓「かもめの玉子」被災されたなかで425日に営業再開
ここから私はできるだけ毎月ボランティアに行く事にしました。東京からは行く方が多いのじゃないかなあと思います。7月は大船渡に行きました。大船渡に入ると「かもめの玉子」の看板があるのですけれど(画像を指して)中に入るとこういう状態です。この沿岸部は陸前高田辺りからずっとこの様な状態が続くのです。当時一番話題になっていたお店が「かもめの玉子 さいとう製菓」だと思うのですが、「さいとう製菓」の社長さんが自分でずっと地震が起きた時から社内でビデオを撮っているのです。その様子がYoutubeで見ることができて。社長さんはチリ地震の時も被災されて、チリ地震後も復興されていて色々紆余曲折があったのですが、防潮堤が出来た事でとても安心していたようなのです。ご本人がチリ地震の経験があるので、ビデオを撮りながら社員に向かって「津波くるぞ、津波くるぞ」「皆逃げろ、皆逃げろ」と言いながらビデオを回しているのですが、高台の方に逃げて目の前に自分の工場と会社があるのですが、防潮堤をとても信じていらっしゃるので最初は安心した様子で遠くの方で津波が起こるのを見ていたのですが、途中で津波がその防潮堤を越えてしまった時の何たる悲痛な、60代位の社長さんだと思いますがもうほんとうに泣き叫んでいる様子がYoutubeで見ると、見る間に自分が手塩にかけた工場や社屋が目の前で津波にさらわれて流されて行くのですよ。その様子を自分で撮って泣きながらものすごい大声で泣き叫びながら撮っているという、私も駄目だと思うような状況だったのです。
これはすごいと思ったのが少し離れた所に別の小さな工場が有ったらしいのですけど「逃げろ、逃げろ」と皆に声を掛けていたので社員の方はどなたも被害に逢わずにすんだのですけれど、4月25日に営業再開を告知しているのです。私には奇跡と思えたのですけど今ご覧にいれたように大船渡は全然もう何も無くなっている状態だったのですが、それでも4月25日にはお菓子作りに取り掛かってたぶん大阪にも来たんでしょうか、震災後に作った「かもめの玉子」4月の終わり位に東京では販売されてその頃は東京では気分的に支援の気持ちが盛り上がっていたので行列をなして「かもめの玉子」を買うといった様子がテレビなんかで放映されていました。

20119月陸前高田-報道が少なくなってきた時期、ボランティの存在意義
8月は少しお休みをしました。と言うのは8月はちょうどお盆の時期で行っても作業が出来ない、自分としては肉体労働がしたかったので肉体労働が出来ないのだったら、沢山の人が集る所にお邪魔するのも悪いかなあと思い8月は行かずに9月に行きました。最初に見せました画像ではバスがとてもきれいだったのですが、私は月一回だけの参加ですがこのバスは人が集れば毎週行くという事で、行った先で現地の方々が色々書き入れてくれるようになって、9月位には随分色々なことが書かれている状態になっていて。そして陸前高田に行きました。この時は県立高田高校の傍らでやはり側溝のドブさらいをしました。
(画像を指して)これが高田高校、3階建なのですが中は何も無くなっています。この場所からは海など何も全然見えないのですがここからはもうずっと何も無くなってしまっているのですね。何も無くなっているのでその前の状況はなかなかうまく想像出来なかったのですが、普通に沢山の人が住んでいる町だったそうです。ほんとうに何も無くて高田高校のすぐ内陸側から高台になっているのですが、たまたまその時年配の男性、もともとそこに住んでいらした方に会ったんですが、ここまで海になっていたのだよとおっしゃっていました。
(画像を指して)こうやって実際ドブさらいの仕事をしていると生活用品がどんどん出てくるのです。フィルムだったりおもちゃだったり花瓶だったり、作業しながらそこにいちいち気持ちがいくと作業が続かないのでとにかくどんどん掘り上げてこういった物が出てきた時はとりあえず遺品かもしれないので上げといて下さいと。あと言われたのが皆さん遺骨を探していらっしゃるので、遺骨のような物が出てきたら報告して下さいという事で後半になるとだんだんガレキを除去する作業の中で遺骨を探すみたいな気持ちも多くなってきました。9月は震災から半年位経つので東北支援だとか被災状況だとかの報道がだんだん少なくなっていました。最初に申し上げましたようにずっとブログを続けているのですが自分が出来る事と思って現地でボランティア作業を始めたのですが自分が出来ることってほんの少しだけで正味4~5時間かな、ほんとうにたいした事ないのですけど、ただ行くという事がとても大事で、住民の皆さんを勇気づける事になる。被災された方々が危惧していらしたのが、この震災そのものが風化してしまう、或は自分たちが被災したことを他の人々に忘れ去られてしまうとことに恐怖を抱いている、ボランティアがそこに行って何か作業をしている事が結構勇気づける事になる。と聞き行く事に意味があるのだと思いました。陸前高田は特に被害が多く、市庁舎も全壊し全世帯の7割以上が被害を受けたそうです。目で見ると7割ではなくほとんど10割が何らかの被害にあっているという感じだったのです。

自分の中での3つの柱ができる
-現地で作業する・そこで物を買う・買った物をブログで発信する
そういう中で沢山の人が暮らしていたのですが、住民が避難した地域では経済活動がそこでなされない訳なんです。ボランティアが行くと食べたり飲んだりするのでそこでお金をおとす事が出来るわけです、それも支援の一つに繋がるというのが、9月頃からだんだん判ってきました。最初の頃はとにかく生きていくのが精一杯だったと思われます。だんだんお店であるとかプレハブながらも出来てきたのです。(画像を指して)「川の駅よこた」という産地直送のお店ですが、この頃にこういう店で買い物するのはボランティアなのですよね、ここはもうお菓子好きとして支援しなくてどうするという感じですから、行って作業する事、何か色々買う事、私の場合は買ってきた物をブログで発信する事、それが私の中で三つの柱になりました。特に自分の中で出来るのは買うこと、ブログでこういう状況なのだ発信すること。また自分もボランティアに行かないと日々生活が元に戻ってきているので、東京も地下鉄の駅が暗かったというのがあったのですがだんだんテレビも普通にやっているので東京にいると忘れてしまいそうになるのです。又メディアなども取り上げる回数が減っているのでだんだん忘れそうになってしまうので自分もボランティアに行って再確認して、ブログで発信するのもお手伝いだと。口頭で周りの人に伝える事もそうなんですけれど、私の場合ブログアクセス数が日に1500人位いるのです。月にしてリピーターも含め2万~2万5千位の人が見に来てくれるのでブログで発信するというのはすごく大切だなあと思っています。

まずつかみで“お菓子をアーティスティックに”見せて、被災地の状況を発信する
ブログでただ被災状況だけを見せていると飽きられてしまうと言うか徐々に慣れてしまうという所もあります。「つかみはOK的に」お菓子を出すと皆が見てくれるのではないかと思ってなるべく魅力的に(画像を指して)こういうお菓子などを紹介しつつ被災地の状況を発信していく事がすごく大切であると思いそういう内容にしました。
陸前高田からの帰りに気仙沼の港の方に行くのですけれど被害状況は陸前高田もひどいのですが気仙沼もひどくって。そういった画像もお菓子と一緒に出しています。動画もブログで見てもらうようにしました。
「採れたてランド高田松原」というのはトタンのプレハブみたいな所だったのですが、9月位からこういう産直所が出来て中で農産物であるとか被災された家庭のおかみさんたちが色々手作りした物を売っています。

















(画像を指して)これが買ってきた果物でなるべく綺麗に撮って皆が見たくなるような画像で見せるというのが自分の中では大事だなあと思い、とにかく導入部でなるべく興味を引くような形にして皆に見てもらおうと、またこれは陸前高田のとれたての卵とトマトを使ってお料理を作って見せたりとか、このような事を9月位からするようになりました。
これはこれ位の(手で示して)大きなカリン糖でした。陸前高田のお茶屋さんが販売しているお茶を使ったふ焼きせんべいなのです。
あと手捲き揚げかりんとうというのと、小谷園茶舗という陸前高田のお茶屋さんが販売しているお茶を使ったお菓子なのです。これの表書きに「忘れないで陸前高田、頑張るっ茶」というメッセージの付いたふ焼きせんべいなのですが、これを見て「忘れないで陸前高田」というキャッチコピーが皆さんの正直な気持ちかなあと思ったのです。これは私にとってすごくグラフィカルでかっこいいおせんべいに見えたので、こういった物とかなるべくアーティスティックに綺麗にというのを心がけてブログを発信していました。
ふ焼きせんべい


















2011年9月 陸前高田























これは「がんづき」と言うお菓子なのですが「がんづき」というのは東北の色々な所で作られている郷土菓子ですが、こんなに普通に家庭でどんどん作るのだと知ってお菓子好きとして新たな発見で興味をそそられたのです。「がんづき」と言うのは一般的に知られているのはおしょうゆ風味です。山崎パンとかも作っていましておしょうゆ味とか黒糖味とかそういった物です。実際は岩手の気仙沼に行くとかぼちゃの「がんづき」とか牛乳を入れた物とか家庭で作っていてそういった事もお菓子好きとしては「ヘエー」と思いました。そう言う風に「がんづき」とか卵とかトマトとか色々な果物とか買ってとにかくお財布をゆるめるだけゆるめてきてバスで帰って来る。(画像を指して)道々はずっと陸前高田の高田松原だった所なのですがこういう状況、これが奇跡の一本松なんです。これなんかも橋げたなのですがスポッと抜けてしまっています。必ずこの奇跡の一本松を見ながら気仙沼の港の方に行くという感じなのです。

201110月陸前高田-遺体を探す日々のなかで起ち上げられた「産直はまなす」
10月は陸前高田で草刈をやりました。畑がある所だったのですが、草をちゃんと刈らないと中がガレキと言いますか土がボロボロになっているのでこれをきちんと耕していかないと田畑になかなか戻す事が出来ないそうです。ここまで「えっ、波が来たの」と全く海の気配がしない場所だったのですがこの場所まで津波が来たそうです。
先程遺骨うんぬんと言うお話をしましたが私がこの草刈をしている時にどうやら遺骨と思われる物を発見したのでリーダーの方に言ったら「発見者が報告しないといけないので今警察に電話をするから電話に出て下さい」という事で、その場でボランティアセンターの人が電話をしてくれて電話に出てこういう状況で発見しましたという事を言って、皆がいる前で生年月日とか言わされたのですね(笑)。
米崎町でお手伝いをするすぐ傍に「産直はまなす」という産直所がありました。これは元々あった産直所ではなく、これを立ち上げた方々は皆さん被害に遭われた方で、ご遺族の遺体や遺骨を探す日々の中でただ泣いてばかりでも仕方がない、息子さんは亡くされたけどお孫さんの面倒を見なくてはいけないと、生活費を稼がないといけないという事で11人位で始められたそうです。それが9月~10月位でこれは出来たばかりでこの時に何かお祭りのような事をしていました。私たちが作業をしていると、そのような状況なのに餅つきとかおもてなしをして下さいました。これがポン菓子という物です。そんな状況なのですが、日々大変だと思うのですが皆さん明るくて、逆に私たちの方が抱擁されているような気持ちになるという陸前高田という所は不思議な場所ですね。水産業と農業両方ある地域なのですが非常に皆さん力強く明るくて未だにどうしてなのかよく判らないのです。ごくごく個人的な話なのですが、陸前高田という地名は中学校1年生位から心に残っていて、震災後も陸前高田が度々取り上げられると「ああ、春の高校バレーで優勝した学校か」と思っていました。私が中学生位の時に春の高校バレーが始まって確か女子で第1回目の優勝が陸前高田高校です。変わったバレーボール部で、バレーボールは6人制でだいたい一チーム12名でやるのですが12名いなかった様な気がするのです。県立なのですが、、何故そんなに陸前高田高校を覚えているかと言うと、いつも試合開始前に皆で倒立逆立ちしてコートを歩くという高校だったのですね。それで優勝したわけなのです。優勝したからかどうか判らないのですが翌年陸前高田高校は春の高校バレーに出場したのですが倒立逆立ちで歩く事を禁止されたのですね、理由は相手に威圧感を与える行為はしてはいけないという事で、バレー部の監督のお話だと精神統一のためにやっているという事だったのです。禁止されて子供ながらに何故だろうと思ったのです。禁止されたので2年目に何をやったかと言うと試合前にバク宙転をやったのです。とにかくユニークで明るい人柄が育つ場所かどうか判らないのですが、印象が深い陸前高田高校の話でした。

201112月個人で訪問-気仙ゆべしの「お菓子工房木村屋」復活のお菓子「夢の樹バーム」
私のご紹介の中にボランティアをしながら和菓子屋さんめぐりという事だったのですが、ちょっと違っていてボランティアに行くと個人行動ができなくてお菓子屋さんがある場所にボランティアには行かなかったので、だいたい行ける所はこういう産直所でそこで地元の方が作ったお菓子や農産物を買ってご紹介する事とそれとは別に12月には福島と宮城に個人的に訪れてそれを記事にしたりしました。
これは「あけがらす」と言うお菓子で岩手、中でも遠野の方で知られていて、私は遠野の「松林堂」というお店のオリジナルだと思っていたのですがご家庭でも作ると言います。だいたいうるち米の粉で作るお菓子です。東北の方ではご家庭でも作るという事を初めて知って。うるち米を粉にして小麦粉も少しは入って、ごまとかクルミだとか地元で採れる農産物を混ぜ込んで蒸すのでしょうか。
今日はユベシの方もご用意しています。これは陸前高田のお菓子工房木村屋(元々はお菓子師木村屋)という名前なのです。こちらの方では気仙ゆべしと言う、こちらはニッキゆべしになります。これはおしょう油、ニッキ、こしょうを使ったお菓子で、この気仙地方の「気仙ゆべし」というのは人が集る時にかかせない郷土菓子だそうで今日は人が集るという事で準備しました。お菓子工房木村家さんというのは本社、工場、支店、自宅とも何もかも全部流されてしまい、2012年5月に仮設店舗と工場を作って今そちらの方でお菓子作りをしていらっしゃいます。「気仙ゆべし」に使われているお醤油は「ヤマニ醤油」のもので陸前高田で被災されました。ゆべしというのは全国各地にありまして、例えば石川県のゆべしはゆずの中にもち粉を使った物を固めています。東北ですと福島なんかだとお醤油を使った物が多いのですがこの「気仙ゆべし」という物は細長い形でうるち米を粉にした物ともち米の粉を両方使っていること、ニッキとおしょう油とこしょうを入れているものは「気仙ゆべし」以外知らないのですが、歯ごたえがとても良くて私は一番好きかもしれないです。これは黒ごまのゆべしでクルミがちょっと施されている。お菓子工房木村屋さんが作ってらっしゃいます。
お菓子工房木村屋「夢の樹バウム


















2011年11月 奇跡の一本松






















お菓子工房木村屋さんついて話します。「お菓子師木村屋」が元々で昭和元年からやっていまして郷土菓子を中心に地元では高い評価を得ていたお店なのです。こういう形で被災してしまってちょうど被災する前年に「どぶろく饅頭」のどぶろくの酒糟を提供されている「酔仙酒造」と新たなプロジェクトが始まっている所だったのですが、2月にプロジェクトを始めて「さあ」これから作るぞという3月に被災してしまったという事なのです、復活した時に新たに作られたのが「夢の樹バウム」と言うバウムクーヘンなのですね、私はこの「夢の樹バウム」で木村屋さんの事を知ったのですが今はお菓子工房という元々は和菓子だけだったのですがここ数年は洋菓子的な物と和菓子的な物両方を作るようになってこの「夢の樹バウム」という先程おみせした奇跡の一本松をイメージしたバウムクーヘンを基金を集めて発表されました。こういった形のゴツゴツした松の木をイメージした「夢の樹バウム」を作られています。「どぶろく饅頭」の酔仙酒造さんも被災されて蔵が無くなってしまい今年やっと自分の所で醸造した物が震災後初めて出来たという事を聞いております。
「ゆべし」の話に戻ります。今召しあがって頂いたのがニッキにお醤油を加えたもの、これはゴマとしそ、もう一つヨモギがあるそうですが私はヨモギを頂いた事はないのです。4種類作っていて今回この会で召し上がって頂く事にしたと木村屋さんにお伝えすると、3年経って今でも忘れないでいてくれる事はすごく力になるとおっしゃっていました。
私はこの後10月に陸前高田に行って、だんだんこのバスが東北道で有名になりましてこのバスを見てボランティアに加わりたいと言う方がだんだん増えて来たりもしました。

20121月-被災地の状況はあまり変わらず
これが南三陸なのですがボランティアに行くと各地域のボランティアセンターに従って行動するのですがボランティアセンターの各エリアですごく雰囲気が違っています。陸前高田はかなり明るくお祭り気分さながらにもてなして下さったりとか、陸前高田で作業される方々もツイッターだとかフェイスブックで色々出していてお互いフォローし合ったりする間柄なのですが、南三陸の方は写真の撮影禁止になっていて実際の作業現場は撮ることが出来ませんでした。と言うのは気持ちを考えるとそういう事もあるかなと考えたのですが自分たちの遺族が亡くなった場所を観光気分で写真を撮られるのが見ていられないという声があったそうで南三陸では作業現場の写真は撮る事が出来ませんでした。気仙沼の港の高台にあるホテルがありそこはわりと直ぐに営業を開始しているので、帰りに必ずそこのお風呂を使わせて貰えるのです。皆けっこうドロドロになっているので。そのホテルの直ぐ傍に気仙沼の商店街が出来まして、ここで被災されたお店が新たに仮設のお店を開始されている。(画像を指して)これが2012年1月位です。気仙沼の港の所に「お魚いちば」という所があり9月~10月位からその「お魚いちば」というのが開設されて、中で販売するお魚などは少なかったのですがそこで購入する事が出来て、寒い時期になると獲れたての秋刀魚が直接送れるので私はここから直接色々な方にお歳暮を送りました。「気仙沼の秋刀魚です、食べて下さい」と。
(画像を指して)これは1月の陸前高田です。このとおり1月になってもほんとうに状況は変わらなくてだいたいほとんどがこのような感じです。最初の5月、6月に比べると随分片付いてはいるのですがこのガレキの山はいつまで経ってもガレキの山で。1月は初めて海の方へお手伝いに行きました、広田半島の家の裏漁港です。土嚢を積み上げるお手伝いをしまして漁港と聞いていたのですが全然港らしくないのです。全然港っぽくないけれど何故だろうと思うと、先端地域が津波で分断されて孤立されてしまったそうなのですね。この広田半島の漁業に携わっている方たちは船からそれこそ長靴に至るまで全部流されてしまったそうです。だから港と言われている処へ行っても船もないし港に有るようなロープであり繋ぐ所も何も無くって何もかも根こそぎ失ってしまったので、未だに1月の時点でもちろん漁に出る事も出来ず非常に厳しい状況だったのです。
(画像を指して)土嚢をこのように最終的には積み上げて行くのですが地面を掘ってその土を袋に入れて縛って積むという事だったのですが地面が凍っているのですね、凍っている地面を初めて掘ったのですがスコップでは掘れなくてツルハシでちょっとずつ、ちょっとずつ掘って「あ、割れた」と言う感じでほんとうにこれ位を3~4人で汗だくになって2日間がんばってこれだけしか積めなかったのですけれど。これは2012年1月でした。

高田松原の産直所-おばさんたちの知恵の結晶「ころ柿チーズ大福」
必ず立ち寄っていたのが高田松原の方の産直所だったのですが、「ころ柿チーズ大福」と言ってこの辺だと柿がたくさん採れるので「ほんとうに鈴なりに」なっているのでそれをころ柿にしてそれでお菓子を地元のおばさんたちが知恵をしぼって作ったのが「ころ柿チーズ大福」です。
ころ柿チーズ大福


















2012年1月 広田湾沿岸部


















和菓子の元々の甘さの基準は干し柿と言われています。そう言った事を知らずに、いいんじゃないかと作ったと思うんですが、地元で採れるもち米と柿とあとはクリームチーズを混ぜ込んだころ柿です。おいしかったのですね。甘味がとてもさっぱりしてとてもおいしくて「パクパク」食べられ、お大福の方は日持ちがしないのですが、ころ柿を沢山買って家に帰って皆さんにお配りしたのです。非常に好評でした。これがおかみさんたちが作ったゆべし、こちらは羊羹です。こういった形でブログの方で発表しております。私のブログは暫らくの間、被災の状況とお菓子の写真が一緒に並んでいます。どうにかして自分自身のためにも忘れてはならないと、ブログを更新する度に忘れてはいけないと心に刻みながら書いています。(画像を指して)これは気仙沼で引っくり返っているのです。まだこの頃は行ってもほんとに人が全然少なくってガラガラの状態で、秋刀魚なんかこの袋にいっぱい入って1500円位で、お歳暮送った方がいないので言いますが。獲れたての秋刀魚を翌朝送ってくれると言う。でまたそれを直ぐその場で自宅に送って、自分たちも翌朝に着くのでそれを持って周囲の人々に「気仙沼の」というのでお配りしていました。そう思い出しました、イカの塩辛、私がこれまでの人生で一番美味しかったイカの塩辛はボランティア先で買った気仙沼のイカの塩辛です。冬だったのでだんだん私の方も慣れてきて必ず保冷バッグを持って行く、荷物を入れるのはバスの一番下なので、すごく寒い処を走っていくわけですから良い冷蔵庫になっていました。

福島県二本松「玉嶋屋」本煉羊羹-楢の薪が汚染し一時休業するがすぐに再開
12月に二本松に行きました。二本松の玉嶋屋さんの最中をご用意しています。玉嶋屋さんは二本松市で江戸時代からやっているお店なのですが未だに楢の薪で手練でやっています。(画像を指して)八重の桜でも紹介された「二本松少年隊」、智恵子抄の智恵子の実家が直ぐ傍の安達太良と言う所で造り酒屋さんだったそうです。これが玉嶋屋さんで非常に風格のある建物です。こちらは本煉羊羹です。ベスト3に必ず入れるのが玉嶋屋さんの本煉羊羹で、毎月11日の会でも召し上がって頂いています。大変立派で裏が土蔵になっているのです。この楢の薪を使っているのですがお店の建物は被害はあまりひどくなかったのですが薪がいつも使っていたところが二つあったそうですが、一つが汚染されてしまってそちらが使えなくて。普段はここにいっぱい薪が有るそうなんですが半分も無かった状況でそれで薪を探すのも大変ですとおっしゃっていました。(画像を指して)こちらは二本松城なのですが本丸なんかは立ち入り出来ません。本煉羊羹は昨年の全国和菓子協会から「選・和菓子職 伝統和菓子職」と言う、東京の「とらや」で最も知られた「夜の夢」と並んで受賞した羊羹です。こうやって未だに手作業で竹皮を作っておられます。
ちなみに江戸時代に伊達のお殿様と二本松のお殿様が交流があって、二本松の殿様が伊達の殿様に「そちらは羊羹作れないだろ」と言われ、伊達の殿様は「そちらはしおがまが作れないだろこちらはしおがまがあるぞ」と。それで口惜しくて職人にしおがまを作らせて今に至って二本松にはしおがまがあると聞いています。

2014年3月17日月曜日

「毎月11日の会」11月例会 ―「毎月11日の会」を振り返る―事務局

スピーカー 事務局 阿部健・田中淳介・大森俊子・徳山明美
日時・場所 20131111日(水)
大阪市立総合生涯学習センター第3会議室

■阿部健
いつもと違って私どもこれまで運営に携わってきたものが毎月11日の会のこれからを振り返るというタイトルでお話させていただきます。
振り返りますと「毎月11日の会」は、昨年3月11日の追悼の会これを出発点といたしまして、二年近く続けてきました。この間運営に携わってきた事務方は約4名です。今日はこの四名がお話をさせて頂く事にしました。はじめに私阿部が全般的なお話をさせていただいて、次いで各自がそれぞれ話をさせて頂きたいと思います。
「毎月11日の会」は色々なスピーカーの方を招いてお話を聞くというだけの会です。当初は同じような事を続けているとマンネリになるとも考えたのですが、実際はそんな事は全くなく今日まで20回近く続けてきました。東北大震災の話はその方の命がけの体験であったり、決断だったりするからだと思います。いつも身が引き締まる思いで話をうかがってきました。また1~2か月後には録音テープを文字にしてお話を文章で再読しました。そうしますと非常に大切な点を聞き逃したり、曖昧にしていた点に気がつく事もありました。毎月の例会ではスピーカーの話を巡って討論したり、議論を深めたりということには至りませんでしたが参加者全員が充実感を共有する事は出来たと思います。これからの予定も来年3月までは決まっておりまして、それは今日お配りする来月からの予定のチラシの裏に出ているのですが、来年3月まで予定は決まっています。その先も同じように続けていくことも出来ないではないし、続けていくことの意義もあり又やりがいもあると考えています。しかしながら私どもは来年月、まる2年を持ってこれまでの動きに一区切りをつけようという気持ちです。後でこの運営のやり方をどういうふうにしたかという話も出て来るかもしれませんが、あまり4人でしっかりして物事を運ぶというようなやり方はしないできましたので、この一区切りつけようということではもちろん一致して今日その事をお話しようということになっているのですが、細かい事になってきますと皆それぞれという所があると思いますが、私の方から言えることは各人の気持ちの最大公約数を求めるとここで一区切りつけようとか、これまでの11日の会は休止しようという事になるかと思います。これからについて今のところ幸か不幸か何のプランもありません。発展的解消という言葉が出てきたり、「毎月11日」に対して「ときどき11日」といのはどうかというアイデアも出た事がありますがその程度です。むしろ先の長い話だからゆるゆる考えていこうかと言うのが共通した気持ちかも知れません。その上でよいアイデアがあれば今までの事務方に限らずアイデアをお持ちの方も、一緒に何かやれるかもしれないと言う事でしょうか。
それではこれから運営に携わってきた皆の話を伺いたいと思います。最後に時間があれば私も自分の気持ちをお話できたら幸いです。

■田中淳介
私としては今の阿部さんの話を受けてしばらく今の形での「11日の会」というのは一度立ち止まって考えてみたいと思った部分もありまして今のご提案にも同意しているのですけれども先程も話がありましたが、2012年3.11追悼の会をやってその後2012年8月11日ですねこれからほぼ20回、来年の3月位までやろうと言う事ですが二十回数えるわけです。その間実際には20数名の人が2時間しゃべっているとしゃべっている時間を換算するとほぼ40時間というかなり膨大な色々なお話を聞けていると言うふうに思っているわけですが、その中で私も全てを読んだ訳ではないのですがいくつか色々な情報を貯めて行くだけでこれで良いのかなあとこの膨大な話をですね、特に被災体験のお話というのが一番私の気持ちの中にありましてそれを引き継いでいかないというのがあります。そういうことも含めまして一度立ち止まってほんとうに3.11どうだったのかとい事ももう一度じっくり聞いた話を咀嚼してみたいという事もあります
それから避難者の方の話ですね、特に母子避難者の話を聞いている数名の方もおられるし、そしてボランティアで支援に行かれてこちらから色々な支援されている方のお話もありました。それから3.11を契機に、私もそうなんですけど自分の物の見方や考え方が変わったという人がおられましてそういう方たちのお話も聞いています。その中でずっと続けてこの話を聞きっぱなしでいいのかなあという事が非常にありまして、それともう一つは20名前後の人間で二時間色々スピーカーの方から話を聞くというこのやり方がほんとうに、人を決めていくというのも大変ですしそれを記録していく、これ以上たとえばずっとやってそれを文章に残していくのも非常に大変な作業なのでそれをまとめるという事も含めてこの辺りで一度立ち止まってきちっと考えたいなあというふうに思いましたので、私にしてもそれでは何をするかという事を切り返されるとノーアイデアというかほんとうに無いのですが。
今の所考えていますのは「個人的事なんですが」これを記録として本にしたいという気持ちはあります。実際二時間しゃべられますとA4にしてだいたい10ページ位のボリュームになるのですがこれを単純に計算すると200数十ページの膨大な本になるのですけれどもこれをきちっと中味の構成も考えて本にしていきたいなあと思っています。特に一つは3.11で被災された方とか、母子避難の方から色々お話を聞いて思ったのは人の生きる力はすごいものがあるなと感じたことです。これらを何らかの形で文章なりに記録したいという事がひとつ、もう一つはボランティアされている方このボランティアの力というか、この方たちの話も対応の仕方とか、被災された方への支援のやり方があるのかなと色々教えられましたし、そういった事が力になるのかなと。もう一点被災地との交流を色々やられて、阿部さんもそうなんですけどあるいは徳山さんとか大森さんも行かれまして「私は行っていないのですが被災地の人たちとの実際の交流を通じたそういう力と言いますかそういうものも非常に感じました。この三点ぐらいを中心にしたまとめ方で整理してらというのがあります。実は20人近くの方の原稿というのは徳山さんと大森さんが起された文について読ませていただいているのですが、自分で実際その文章をかなり細かく構成したというのは5月11日の森松明希子さんのなんですね、これはかなり組み入れもさせていただきましたし何回も校正もしました。たまたま阿部さんが色々事情がありまして私にやってくれないかという事で言われたのですが、これはきちっとやらないといけないと思いそれを読ませていただいて森松さんの最終結論ですがやっぱり私は福島県人でいたいというのがスピーカーとしての最後の言葉として載っているわけです。その言葉を継いでその後つい最近ですが避難者の訴訟を大阪の代表として、やられたという活動がありましてそれは要するに福島の県人としてこれからも住民票を変えずにやって行きたいという決意と、大阪で福島県人としてあるいは避難者として訴訟を起こされるいうこの辺を次に繋げて行く力という凄いものがありましてそういう力を自分の物にして、それを残して色々な人に記録として読んで頂きたいという風に、私としては今の段階では出来ないのかなあという感じで思いまして、やって行きたいと思っています。今の所はそれぐらいの事しか思っていないのですがかなりきっちりしゃべられた事を一字一句というか記録として残していきたいという今の私の大きな気持ちという事になっています。そのような事で一度今までの事を見直したいというのが私の今日に至った思いという事です。

■徳山明美
これまで経験したことのない、大きな自然災害でした。それまで仕事の関係で東北に住む方と縁がありました。その方とのやりとりがきっかけで2012年3月11日に追悼の会を行い、その後「毎月11日の会」を約2年続けてきました。ただ自ら行動を起こすのはなかなかできませんでした。行動の人である阿部さんがやはり動かれました。それこそ老体に鞭打って2012年の猛暑の8月に福島に単独でいかれました。そこから「毎月11日の会」がスタートしたと思っています。私は引っ張られるようにその後についてきました。
私は今日ふたつの事を話します。ひとつめが「被災者支援」です。
ついていきながら最初は「私は何をしてるんやろ?」「これでええんやろか?」と前進し後退しを繰り返しふらふらとやっていました。その理由は自分の個人的な生活や環境のことも含めていくつかが絡み合っているのですが、芯となることは「支援とは何か?」ということでした。
被災していない私が「東日本大震災」について何かをするということは、被災者に見える形としての支援でないといけないという思いがあったからです。2012311追悼の会に誘った知人からこんな言葉をもらいました。「募金をするでもない、ボランティアの道筋をつける訳でもない、そんな会に何の意味があるの」その言葉の裏には「自己満足」「胡散臭い」ということが見え隠れしていました。その言葉は私の気持を一部代弁していたので、反論することもできませんでした。
「毎月11日の会」を何回か重ねいろんな方の話を聞くうちにだんだん自分の考えが変化してきました。「当事者ではない被災していない者」から「大震災を経験した日本という土地に住み日本の社会で生活する当事者である」という考えを持つようになりました。それはさまざまな立場や境遇をもつゲストスピーカーのナマの声が原動力だったと思います。起ったことによって人はどのように動いたのか考えたのか、マスメディアでもWeb上でも伝わらない、生身のひとの声と言葉を聞くことがどれだけ大事なことか、実感しました。そして、自分だけのためではなく間接的に当事者である被災者の支援に繋がっていることも感じました。お金や労働力という形ではない支援があると思いました。この会で話してくださった森松さん、あれよあれよと原発賠償訴訟原告代表になられました。原告として申し立てに行かれる前々日のある催しで話をされる時、聞く機会を得て講演の前に一言二言言葉を交わしました。翌日「徳山さんの顔をみたら落ち着いて話す事ができました」というメールを頂きました。少しは役にたったんだなと思いました。ほんとにささいなことです。
直接的に支援をされておられる方々の話も聞きました。「NPOハーティ」の藤崎さん、「かしば女性会議」の鈴木さん、「これから行動隊」の菱倉さん、「田歌舎」の藤原さん、「避難者子ども健康相談会」の高松さん、それぞれご自分がずっと活動してこられたテリトリーで具体的な支援をされています。私たちができることは、ひとりひとりの生身の声をきくことだったのだと思います。しかし周辺の知人友人にお誘いして感じたことは、この会に足を運んでもらうことの難しさです。忙しい時間を割いて話を聞くことは簡単ではないし参加するという行動を起こさせるような力にも欠けているのだと思います。そういうことから参加して頂いたみなさまにはほんとうに感謝し頭が下がります。ありがとうございます。主催している側の問題点もあります。先ほど挙げたスピーカーの方々はこれまでずっと活動されてこられた蓄積があります。私たちはゼロからの出発でした、この人の話が聞きたいと思う人に出会うためには、足で歩いて時間をかけなければいけません。これまでのスピーカーの方々のほとんどは阿部さんが行動して縁を作ってくださいました。この形で続けることの限界を感じています。
ふたつめは「原発」です。福島に留まっている方、自主避難した方、自主避難しその後福島に戻られた方、いろんな選択をした方の話を聞きました。これらの方々の話はこの会の財産だと思います。その発言は私にとっては考えるためのものすごい贈り物だと思っています。
朝起きて食事の支度をして仕事にでかけまたは子どもの世話をしてその日を終えるとまた朝日がさすはずが、朝起きると真っ暗で何を頼りにどうすればよいのか突然手掛りのないところに身を置くことになった、彼女達はその状況を自分の言葉で話してくれました。判断する基準がない、何を信じていいのかわらない、という状況で自分の感覚を頼りに一瞬一瞬どうするのかを決めていかれました。こんな状況におかれることは私は皆無でした、日本のどの場所にいたとしても大勢の方がそうだと思います。「普通の主婦だった自分が、訴訟の原告になるなんて、思いもしなかった」という森松さん、がらっぱちで肝っ玉かあさんの木幡さんは「政府や東電は安全ですとしか言わない、何が安全なん?東京におって何が安全といえる。放射能のある場所にいないだろう」と放射能から離れようとあちこち転々とし関西への避難を選択されました。福島に留まっておられる酒井さん「原発がある自治体の小学校の体育館、全自動のブラインドがわーっと降りてくる。世界大会もできるんじゃないかと思える体育館。原発があるとこんなお金持ちになれるんだ、と」「大きくなったら原発で働けるともう安定。できれば東電で働いている旦那さんを見つけなさいみたいなことを言われ育ったりもする」という話は原発立地の姿を何よりもストレートに訴えてきました。「世の中を変えるために、『かえる新聞』を作っているわけではなく自分たちが変わる先で世の中が変わっていくことがあるんだと思う」という言葉はさまざまな葛藤のなかで生まれた確信なんだと思いました。
福島原発の事故について、色んなことが複雑に詰っていてうまく整理は出来ていませんが、私が思うことを話します。国が責任、国が悪い、東電の責任、東電が悪い、と犯人を決めつけることで決着するということに同意しません。単純に、脱原発、再稼働ということについてはどうすればいいかわかりません。感じていることは、高度成長を経てバブル景気を経験し経済成長を目標に舵をとってきたがその先はもうないことを表わにしたのが原発事故ではないかということです。私は1952年生まれです。高度成長期は10代、バブル景気の時は働き盛りのサラリーマン、バブルの恩恵を受けています。ずっと経済的に豊かになりたい、高価な素材の仕立てのよい洋服が着たい、快適な心地よい住居に住みたい、新鮮な素材に手をつくした料理も食べたい、そんな豊かな暮らしがしたい、と40代まで思ってきました。こんなひとりひとりの消費の在り方が、原子力発電は当たり前、というより意識にさえ登らない状況を作ってきたと思います。原発事故は、そんな日本に暮らし豊かな生活を追及してきた私たちすべてが関わっていると思います。少しずつ少しずつ方向転換していかないといけないと思います。どういう方向かはわからないし何もできないのですが自分の暮らしから変えていくのでしょうか。私は90年代位から、徐々に消費することに対して意欲を感じなくなってきていました、今もその延長の気持かもしれません。その経緯はいろいろありますがもう少しよく考え整理しないといけないと思っています。
高度成長期、バブル期を経験していない人達が社会に出てきています。30前後までの人たちです。経済成長なんか望まないと言う人もいます。身近には私の姪がいます。考え方や志向が違うことを感じます。今タイにいますが、ゆっくりとこんな話をしてみることもやるべき必要なことだと思っています。

■大森俊子
運営に携わっていましたと言うのがおこがましいくらい何も出来なかったというのが「11日の会」で一番思っている事です。ただ被災地から来られたスピーカーの人たちが口を揃えて言われたのが、知らない所でこんな集まりがあった、忘れないでくれた人たちがいたのだという事をすごくうれしかったという事、何人もの人たちから聞きました。
私はこの会が始まる時何も思いませんでした。ただただ話しを聞く集まり、何という良い集まりと思ったぐらいで何も思いませんでした。何か自分を天に上げて俯瞰した時に日本か世界かわからないけれど東北から離れた所で小さい集まりでこういう事をしているってすごく良いなあとずっと思っていました。今もそう思っています。ただ少しずつ私が変わってきた気持ちはわからないんですが、森松さんとかのエネルギーとかに関してすごく立派やと思うんですが、母子家庭で避難して来ているとか言われても「私もそう思うわ」とか、そういう頷きが出来ない。色々のスピーカーの人のお話にそんな人もいるし福島に留まって酒井さんみたいに思っている人もいるし、「そんな人もいる、あんな人もいる」という事以上に私はもっと「私はどう、あなたはどう思う」と言ったそういうやり取りが出来るような集まりがもっと間隔が空いてもいいから、私はもてたら良いなあとそのように思っています。もし自分がもっと若くて子供がいてそこにいた時にはどうしたら良いだろうか「たら」とかそういうことが分からないかもしれないが、あまりにも分からなすぎて、森松さんの話とかで「うんうん」と頷いているのなら、そうしたら自分のすごく親しい若い人たちが東京、埼玉,茨木にいたらあなた達「こちらにいらっしゃい」と心から言えないし何かそこにどんどん自分の気持ちのあやふやさみたいなものが積もって来て、ちょっと欲求不満になって来たり、だからいって何か計画しましょうかという時に自分が何か率先して動けるかというと出来ないし、私はそういう気持ちです。ただ色々なご縁があって色々な人と巡り会えて毎月巡り会えて、野島さんのご本を読ませてもらったり、田中さんから紙芝居の本を読ませてもらったりとか、毎月平塚さんにお会いしたりとかこの会が無かったら私の人間関係は細かい小さい所で終わっていたなあと思うのでそれはほんとうに非常に嬉しかったです。たいへん得をした、ありがとうございます。

■阿部健 2
「ここでちょっと休止しよう」という事について四人が一致したというわけではないがだんだん同じような気持ちになって来て、振り返ってみたら一番最初どうだったかというと、非常に素朴なスタートをしたと思います。一人でも二人でも毎月11日に集ろうと、まだ去年の春ぐらいの事ですから、まだほとぼりも今よりも強かったわけです。追悼の会というのを初めてやってそこでやっぱりこういう事も必要かもしれないと皆が思ってその後どうしたら良いのか分からないけれども、一人でも二人でも毎月11日に集ろうという事が話として出てきて自分たちが知りたい事を話してもらうというその事だけでスタートしたと思います。ですから初めの頃は、私が福島に行ったことが話にも少し出ましたけど9月11日にしゃべってますし、行ったのは8月1日から2日のその時だったと思います。それは直接的にその前にお話をいただいた寺川さんという方にうまく連絡がとれなくて、お願いしてOKはして頂いたのですが果たして8月11日にこの人に連絡が取れないのでほんとうに大丈夫なのかよく分からないのが事実でその事で保険をかけるつもりで福島に行った事を思い出します。もしだめな時は自分が福島の話をしようと考えて行った事を今思い出しました。
それから資料にあるように様々な方にお話をして頂いたように事務局の人はみんな思っていると思うのですが、得をしたというか良いお話を聞けたなあと思うんですね、ただだんだん自分の気持ちの中でこのまま続けていていいのだろうかという事が強くなってきたと思うんです。どういう事かまず来られる人が少ないとスピーカーの人に悪いなあと、せっかく特に福島や東京など遠くから来た人に対して悪いなあというだんだんと感じるようになったですね。参加者があまり少ないと、それからスピーカーだけじゃなくて集って来て頂いた方私ら自身あまり少ないと張り合いがないそういう気持ちがだんだん出て来るわけです。スピーカーに悪いというのがだんだん高じて来ると参加の人数が多ければ良くて、少なければ悪くて人数が多ければ満足できて少ないと不満など、達成感があったりなかったりという事が自分の気持ちの中で比重が増していく訳です。そうするとそれを避けようとするからお願いをしてでも来て頂くようなそのような動きもするわけですね、そういう事をやっているとだんだん自分がしんどくなってくる。声をかける人は自分の付き合いの範囲の人に声をかけるそうすると付き合いというのは色々な事でお付き合いしているのですから何かいつでも「私からの話が例会の話だとかそういう話ばかりだとか」だったら付き合いということが歪になって来る。そんな感じをして来ています。ちょっと考えましたね。
それからこのまま続けていて良いのかという疑問を持ち始めたもう一つの大きな事としては、ここでやっているテーマというのは良い事をしている、それから正面きって反対できない、そういう事ばっかりと言ってもいいくらいなんですね。「毎月11日」でそういう事ばかりやっているこれはどうかなという考えが出てきました。という事で二つの事を言いましたがより本質的には人が正面切って反対できない事をずっと同じようにやっていて良いんだろうか、「何か違うなあ」という事、さらに参加する人が少ないとどうこうという事の気持ちが自分の中でだんだんウエイトが増してくるこの二つがある。これは「ちょっとおかしいんじゃないか」と何がおかしいのか今でも分からないのですが、おかしいと考えてこれは中断した方がいいなあと、休んだ方がいいなあとこのように思っています。これが一つ目の話です
二番目の話はこういう事をやって来てもうひとつ思った、かなり痛切に思ったのですが我々はほんとうに「芸がないな」「レパートリーが狭いなあ」という事を思ったですね。つまり被災地に行って何が出来るんだあるいは被災した人とどんな話が出来るんだ、被災地に行って被災した人と話をする時は、「なかなかですよね」うっかりした事を言えない何か役に立つ事は出来るんだろうか、これはやはりいやですね。これは初めから今日まで思いますね、ひたすら思うとか、祈るとか話を聞くとか問題を考えるとか、それはそれで良いとは思うけれども形に表さないと伝わって行きにくいというネックみたいなものが、その点行かれた人の様子を見ていると、芸の話とか具体的に歌が唄えるとか音楽が出来るとか伝わりやすくて良いですね、ほんとうに羨ましいです。絵を描く人、絵描きさんですら何か色々な形で子どもに絵を描かせたり、それを向こうの子どもが描いた絵とこちらの子どもが描いた絵を交換させるとか、巻物みたいにして展覧会をやったりしている例も見ましたけど「ああいいなあ」とこのような事が出来たらと、藤崎さんみたいにハンドマッサージを一生懸命やられるあれも具体的でいいですね。そういう事が我々なかなか出来なかった。いわゆる昔の言葉で言えば「つぶしがきかない」のでしょうね。そういう事を考えると二年間よく続けて来たなあと言う見方も出来るかも知れない。何をしたかと言うと結局私だったら仕事として来たのは「データーとか情報」を扱う事でしたからやっぱり情報を扱うような事を結局やって来た、話をする人を見つけ出してその人に話をしてもらってそれを記録に残してそういう事が私ららしい活動だった。結局そういう事かなあと思っています。そういう事にしてはよく続いたなあと言えます。
次のお話ですが感想です。この二年間で頼もしい人にわりと会えたなあと思います。スピーカーの方はもちろんスピーカー以外の方でも頼もしいとはどういう事かと言うとこの間に出会った人は不思議に自分で何でもやる人が多かったですね。「やる又はやれる」自分で何かをやる、人にあまり頼っていない、身軽に動くそういう人が非常に多かった、ですから今までそういうタイプの人と付き合いがなかった訳ではないがそういう人との出会いが非常に多いと感じたものだから、何かそういう人には将来期待できるんじゃないかそういう人が最近増える傾向があるんじゃないかこういう人が増えていくとそういう人が30代、40代の人も結構いましたからもう20年も経ったらそういう人たちが力を持って世の中が変わるんじゃないだろうかそういう事も思いました。そうしてそこから自分で何でもやるという事からそれを自給自足の「自給と自立」という事を結びつけて自給自立した人という風に自分の中で名付けて、その代表という訳でもないのですがこの間聞いた藤原誉さんなどはほんとうに何でもやる人でした。驚いたのは二十歳までは全くそのような事はなくて、普通に枚方市で生活をして育ったのですよね、ところが今は美山町でかなり広い田んぼや畑をやり、山林も手に入れて山林の仕事もしている。冬を中心に猟をやる、これも又びっくりしたのですが自分の住まい、人を泊める宿泊棟、家畜小屋に至るまで全部自分で建ててそれが立派なんですよ、バラックじゃないのです。地元の木を使ってほんとうに見事な住宅、建物を建てたほんとうにそれをこの間聞いたら美山町に行って初めの3年間に大工の弟子入りして3年後に造ったみたいですね。普通の大工だったらそうはいかんだったろうけど、何でもさせて育てるような大工に付いたのが良かったのですね。つまり分業があまりないのだと思います。一方ピアノも自分で弾かれると言うので「まあ、なんと言う人」だろうと私は思って。この人は自家発電することもやっておられるのです。確か今月の15日、16日に美山町で自然エネルギーフォーラムをやられる。こういうのは私達まね出来ない、考えもしない自分で発電までやってしまおうなんて考えないですよね。ほんとうにこれからどうなるかわかりませんしね、私も藤原さんと一度一緒にお酒を飲んで一度お話を聞いただけでそれだけの事ですから違う誤解をしている面もひょっとしてあるかも知れません。
もう一つ美山町みたいな所ではなくこの間石巻の萱場祐子さんから連絡頂いたのですが、あの人は非常に元気でやっているというお便りで良かったなあと思ったのですが、石巻に「恋しちゃった」略称「石恋」と称して、先生役をやる人を達人という名前を付けて色々な趣味とか特技とかをお持ちの人を見つけてその人を今度は企画をそれぞれ立ててそれをアピールして、そこへ習う人をそれぞれ集めて、夏は夏で、春は春でシーズンごとみたいですね。それを夏恋とか春恋とか、石巻に恋しちゃった春の部とかそういうような事でしょうね。そういう風な事でパンフレットを見ると20~40名位の達人を作って、そして1000人も2000人もの人をそれぞれ習いに行く人を出会わせる。これもやはり自分らが必要なものを自分らで賄うという自給に該当する、ただし農作業とか大工とかそういう物ではない。都会的なものかなと思ったりします。

■田中淳介 2
私が思ったのはこれをずっと聞いてですね、ほんとうにそれで良いのかなあと非常に「ふんづまり」のような、頭の中でどんどん思ってくるという感覚がずっとありましてこれを何とかせんとだめだという事がありました。そうかと言って今阿部さんが言われたように何か才があってですね、それで活動して行くという事もなかなか自分にはできないし、という意味で言うと阿部さんと最初の頃だったと思うのですが去年に「田中さん、何でこれをやってるんですか」と阿部さんから質問されてですね、基本的にイベントみたいや支援をやっている訳ではなくとりあえず情報を知りたいと具体的には現場の人、あるいは現場で色々な支援をしている人の話を直に聞きたいと言う所しかないと阿部さんに言った記憶があるんですが、その時にはそれを聞いてどうするかという事はノーアイデアだったんですが、先程も言ったように結局記録に残してそれを皆さんに読んで頂ける程度の物にしていく事が僕らの出来る力量というか領域がないのかなあという感じが非常にしました。一時福島の芸能みたいなものを呼んでイベントするという話もあったんですが、どうも気持ちとしてしっくり来ないと言うこともありまして、なかなかご協力出来なかったのですが、そういう意味で言うと今までの性格の限界というか仕事の限界というかその辺を強く感じています。その中で色々多彩な人とたくさん会えて良かったなあと思っているのですが、ただ私がそれを出来るのかなあと、それはなかなか難しいかなあと思ったりもしています。