2014年3月17日月曜日

「毎月11日の会」11月例会 ―「毎月11日の会」を振り返る―事務局

スピーカー 事務局 阿部健・田中淳介・大森俊子・徳山明美
日時・場所 20131111日(水)
大阪市立総合生涯学習センター第3会議室

■阿部健
いつもと違って私どもこれまで運営に携わってきたものが毎月11日の会のこれからを振り返るというタイトルでお話させていただきます。
振り返りますと「毎月11日の会」は、昨年3月11日の追悼の会これを出発点といたしまして、二年近く続けてきました。この間運営に携わってきた事務方は約4名です。今日はこの四名がお話をさせて頂く事にしました。はじめに私阿部が全般的なお話をさせていただいて、次いで各自がそれぞれ話をさせて頂きたいと思います。
「毎月11日の会」は色々なスピーカーの方を招いてお話を聞くというだけの会です。当初は同じような事を続けているとマンネリになるとも考えたのですが、実際はそんな事は全くなく今日まで20回近く続けてきました。東北大震災の話はその方の命がけの体験であったり、決断だったりするからだと思います。いつも身が引き締まる思いで話をうかがってきました。また1~2か月後には録音テープを文字にしてお話を文章で再読しました。そうしますと非常に大切な点を聞き逃したり、曖昧にしていた点に気がつく事もありました。毎月の例会ではスピーカーの話を巡って討論したり、議論を深めたりということには至りませんでしたが参加者全員が充実感を共有する事は出来たと思います。これからの予定も来年3月までは決まっておりまして、それは今日お配りする来月からの予定のチラシの裏に出ているのですが、来年3月まで予定は決まっています。その先も同じように続けていくことも出来ないではないし、続けていくことの意義もあり又やりがいもあると考えています。しかしながら私どもは来年月、まる2年を持ってこれまでの動きに一区切りをつけようという気持ちです。後でこの運営のやり方をどういうふうにしたかという話も出て来るかもしれませんが、あまり4人でしっかりして物事を運ぶというようなやり方はしないできましたので、この一区切りつけようということではもちろん一致して今日その事をお話しようということになっているのですが、細かい事になってきますと皆それぞれという所があると思いますが、私の方から言えることは各人の気持ちの最大公約数を求めるとここで一区切りつけようとか、これまでの11日の会は休止しようという事になるかと思います。これからについて今のところ幸か不幸か何のプランもありません。発展的解消という言葉が出てきたり、「毎月11日」に対して「ときどき11日」といのはどうかというアイデアも出た事がありますがその程度です。むしろ先の長い話だからゆるゆる考えていこうかと言うのが共通した気持ちかも知れません。その上でよいアイデアがあれば今までの事務方に限らずアイデアをお持ちの方も、一緒に何かやれるかもしれないと言う事でしょうか。
それではこれから運営に携わってきた皆の話を伺いたいと思います。最後に時間があれば私も自分の気持ちをお話できたら幸いです。

■田中淳介
私としては今の阿部さんの話を受けてしばらく今の形での「11日の会」というのは一度立ち止まって考えてみたいと思った部分もありまして今のご提案にも同意しているのですけれども先程も話がありましたが、2012年3.11追悼の会をやってその後2012年8月11日ですねこれからほぼ20回、来年の3月位までやろうと言う事ですが二十回数えるわけです。その間実際には20数名の人が2時間しゃべっているとしゃべっている時間を換算するとほぼ40時間というかなり膨大な色々なお話を聞けていると言うふうに思っているわけですが、その中で私も全てを読んだ訳ではないのですがいくつか色々な情報を貯めて行くだけでこれで良いのかなあとこの膨大な話をですね、特に被災体験のお話というのが一番私の気持ちの中にありましてそれを引き継いでいかないというのがあります。そういうことも含めまして一度立ち止まってほんとうに3.11どうだったのかとい事ももう一度じっくり聞いた話を咀嚼してみたいという事もあります
それから避難者の方の話ですね、特に母子避難者の話を聞いている数名の方もおられるし、そしてボランティアで支援に行かれてこちらから色々な支援されている方のお話もありました。それから3.11を契機に、私もそうなんですけど自分の物の見方や考え方が変わったという人がおられましてそういう方たちのお話も聞いています。その中でずっと続けてこの話を聞きっぱなしでいいのかなあという事が非常にありまして、それともう一つは20名前後の人間で二時間色々スピーカーの方から話を聞くというこのやり方がほんとうに、人を決めていくというのも大変ですしそれを記録していく、これ以上たとえばずっとやってそれを文章に残していくのも非常に大変な作業なのでそれをまとめるという事も含めてこの辺りで一度立ち止まってきちっと考えたいなあというふうに思いましたので、私にしてもそれでは何をするかという事を切り返されるとノーアイデアというかほんとうに無いのですが。
今の所考えていますのは「個人的事なんですが」これを記録として本にしたいという気持ちはあります。実際二時間しゃべられますとA4にしてだいたい10ページ位のボリュームになるのですがこれを単純に計算すると200数十ページの膨大な本になるのですけれどもこれをきちっと中味の構成も考えて本にしていきたいなあと思っています。特に一つは3.11で被災された方とか、母子避難の方から色々お話を聞いて思ったのは人の生きる力はすごいものがあるなと感じたことです。これらを何らかの形で文章なりに記録したいという事がひとつ、もう一つはボランティアされている方このボランティアの力というか、この方たちの話も対応の仕方とか、被災された方への支援のやり方があるのかなと色々教えられましたし、そういった事が力になるのかなと。もう一点被災地との交流を色々やられて、阿部さんもそうなんですけどあるいは徳山さんとか大森さんも行かれまして「私は行っていないのですが被災地の人たちとの実際の交流を通じたそういう力と言いますかそういうものも非常に感じました。この三点ぐらいを中心にしたまとめ方で整理してらというのがあります。実は20人近くの方の原稿というのは徳山さんと大森さんが起された文について読ませていただいているのですが、自分で実際その文章をかなり細かく構成したというのは5月11日の森松明希子さんのなんですね、これはかなり組み入れもさせていただきましたし何回も校正もしました。たまたま阿部さんが色々事情がありまして私にやってくれないかという事で言われたのですが、これはきちっとやらないといけないと思いそれを読ませていただいて森松さんの最終結論ですがやっぱり私は福島県人でいたいというのがスピーカーとしての最後の言葉として載っているわけです。その言葉を継いでその後つい最近ですが避難者の訴訟を大阪の代表として、やられたという活動がありましてそれは要するに福島の県人としてこれからも住民票を変えずにやって行きたいという決意と、大阪で福島県人としてあるいは避難者として訴訟を起こされるいうこの辺を次に繋げて行く力という凄いものがありましてそういう力を自分の物にして、それを残して色々な人に記録として読んで頂きたいという風に、私としては今の段階では出来ないのかなあという感じで思いまして、やって行きたいと思っています。今の所はそれぐらいの事しか思っていないのですがかなりきっちりしゃべられた事を一字一句というか記録として残していきたいという今の私の大きな気持ちという事になっています。そのような事で一度今までの事を見直したいというのが私の今日に至った思いという事です。

■徳山明美
これまで経験したことのない、大きな自然災害でした。それまで仕事の関係で東北に住む方と縁がありました。その方とのやりとりがきっかけで2012年3月11日に追悼の会を行い、その後「毎月11日の会」を約2年続けてきました。ただ自ら行動を起こすのはなかなかできませんでした。行動の人である阿部さんがやはり動かれました。それこそ老体に鞭打って2012年の猛暑の8月に福島に単独でいかれました。そこから「毎月11日の会」がスタートしたと思っています。私は引っ張られるようにその後についてきました。
私は今日ふたつの事を話します。ひとつめが「被災者支援」です。
ついていきながら最初は「私は何をしてるんやろ?」「これでええんやろか?」と前進し後退しを繰り返しふらふらとやっていました。その理由は自分の個人的な生活や環境のことも含めていくつかが絡み合っているのですが、芯となることは「支援とは何か?」ということでした。
被災していない私が「東日本大震災」について何かをするということは、被災者に見える形としての支援でないといけないという思いがあったからです。2012311追悼の会に誘った知人からこんな言葉をもらいました。「募金をするでもない、ボランティアの道筋をつける訳でもない、そんな会に何の意味があるの」その言葉の裏には「自己満足」「胡散臭い」ということが見え隠れしていました。その言葉は私の気持を一部代弁していたので、反論することもできませんでした。
「毎月11日の会」を何回か重ねいろんな方の話を聞くうちにだんだん自分の考えが変化してきました。「当事者ではない被災していない者」から「大震災を経験した日本という土地に住み日本の社会で生活する当事者である」という考えを持つようになりました。それはさまざまな立場や境遇をもつゲストスピーカーのナマの声が原動力だったと思います。起ったことによって人はどのように動いたのか考えたのか、マスメディアでもWeb上でも伝わらない、生身のひとの声と言葉を聞くことがどれだけ大事なことか、実感しました。そして、自分だけのためではなく間接的に当事者である被災者の支援に繋がっていることも感じました。お金や労働力という形ではない支援があると思いました。この会で話してくださった森松さん、あれよあれよと原発賠償訴訟原告代表になられました。原告として申し立てに行かれる前々日のある催しで話をされる時、聞く機会を得て講演の前に一言二言言葉を交わしました。翌日「徳山さんの顔をみたら落ち着いて話す事ができました」というメールを頂きました。少しは役にたったんだなと思いました。ほんとにささいなことです。
直接的に支援をされておられる方々の話も聞きました。「NPOハーティ」の藤崎さん、「かしば女性会議」の鈴木さん、「これから行動隊」の菱倉さん、「田歌舎」の藤原さん、「避難者子ども健康相談会」の高松さん、それぞれご自分がずっと活動してこられたテリトリーで具体的な支援をされています。私たちができることは、ひとりひとりの生身の声をきくことだったのだと思います。しかし周辺の知人友人にお誘いして感じたことは、この会に足を運んでもらうことの難しさです。忙しい時間を割いて話を聞くことは簡単ではないし参加するという行動を起こさせるような力にも欠けているのだと思います。そういうことから参加して頂いたみなさまにはほんとうに感謝し頭が下がります。ありがとうございます。主催している側の問題点もあります。先ほど挙げたスピーカーの方々はこれまでずっと活動されてこられた蓄積があります。私たちはゼロからの出発でした、この人の話が聞きたいと思う人に出会うためには、足で歩いて時間をかけなければいけません。これまでのスピーカーの方々のほとんどは阿部さんが行動して縁を作ってくださいました。この形で続けることの限界を感じています。
ふたつめは「原発」です。福島に留まっている方、自主避難した方、自主避難しその後福島に戻られた方、いろんな選択をした方の話を聞きました。これらの方々の話はこの会の財産だと思います。その発言は私にとっては考えるためのものすごい贈り物だと思っています。
朝起きて食事の支度をして仕事にでかけまたは子どもの世話をしてその日を終えるとまた朝日がさすはずが、朝起きると真っ暗で何を頼りにどうすればよいのか突然手掛りのないところに身を置くことになった、彼女達はその状況を自分の言葉で話してくれました。判断する基準がない、何を信じていいのかわらない、という状況で自分の感覚を頼りに一瞬一瞬どうするのかを決めていかれました。こんな状況におかれることは私は皆無でした、日本のどの場所にいたとしても大勢の方がそうだと思います。「普通の主婦だった自分が、訴訟の原告になるなんて、思いもしなかった」という森松さん、がらっぱちで肝っ玉かあさんの木幡さんは「政府や東電は安全ですとしか言わない、何が安全なん?東京におって何が安全といえる。放射能のある場所にいないだろう」と放射能から離れようとあちこち転々とし関西への避難を選択されました。福島に留まっておられる酒井さん「原発がある自治体の小学校の体育館、全自動のブラインドがわーっと降りてくる。世界大会もできるんじゃないかと思える体育館。原発があるとこんなお金持ちになれるんだ、と」「大きくなったら原発で働けるともう安定。できれば東電で働いている旦那さんを見つけなさいみたいなことを言われ育ったりもする」という話は原発立地の姿を何よりもストレートに訴えてきました。「世の中を変えるために、『かえる新聞』を作っているわけではなく自分たちが変わる先で世の中が変わっていくことがあるんだと思う」という言葉はさまざまな葛藤のなかで生まれた確信なんだと思いました。
福島原発の事故について、色んなことが複雑に詰っていてうまく整理は出来ていませんが、私が思うことを話します。国が責任、国が悪い、東電の責任、東電が悪い、と犯人を決めつけることで決着するということに同意しません。単純に、脱原発、再稼働ということについてはどうすればいいかわかりません。感じていることは、高度成長を経てバブル景気を経験し経済成長を目標に舵をとってきたがその先はもうないことを表わにしたのが原発事故ではないかということです。私は1952年生まれです。高度成長期は10代、バブル景気の時は働き盛りのサラリーマン、バブルの恩恵を受けています。ずっと経済的に豊かになりたい、高価な素材の仕立てのよい洋服が着たい、快適な心地よい住居に住みたい、新鮮な素材に手をつくした料理も食べたい、そんな豊かな暮らしがしたい、と40代まで思ってきました。こんなひとりひとりの消費の在り方が、原子力発電は当たり前、というより意識にさえ登らない状況を作ってきたと思います。原発事故は、そんな日本に暮らし豊かな生活を追及してきた私たちすべてが関わっていると思います。少しずつ少しずつ方向転換していかないといけないと思います。どういう方向かはわからないし何もできないのですが自分の暮らしから変えていくのでしょうか。私は90年代位から、徐々に消費することに対して意欲を感じなくなってきていました、今もその延長の気持かもしれません。その経緯はいろいろありますがもう少しよく考え整理しないといけないと思っています。
高度成長期、バブル期を経験していない人達が社会に出てきています。30前後までの人たちです。経済成長なんか望まないと言う人もいます。身近には私の姪がいます。考え方や志向が違うことを感じます。今タイにいますが、ゆっくりとこんな話をしてみることもやるべき必要なことだと思っています。

■大森俊子
運営に携わっていましたと言うのがおこがましいくらい何も出来なかったというのが「11日の会」で一番思っている事です。ただ被災地から来られたスピーカーの人たちが口を揃えて言われたのが、知らない所でこんな集まりがあった、忘れないでくれた人たちがいたのだという事をすごくうれしかったという事、何人もの人たちから聞きました。
私はこの会が始まる時何も思いませんでした。ただただ話しを聞く集まり、何という良い集まりと思ったぐらいで何も思いませんでした。何か自分を天に上げて俯瞰した時に日本か世界かわからないけれど東北から離れた所で小さい集まりでこういう事をしているってすごく良いなあとずっと思っていました。今もそう思っています。ただ少しずつ私が変わってきた気持ちはわからないんですが、森松さんとかのエネルギーとかに関してすごく立派やと思うんですが、母子家庭で避難して来ているとか言われても「私もそう思うわ」とか、そういう頷きが出来ない。色々のスピーカーの人のお話にそんな人もいるし福島に留まって酒井さんみたいに思っている人もいるし、「そんな人もいる、あんな人もいる」という事以上に私はもっと「私はどう、あなたはどう思う」と言ったそういうやり取りが出来るような集まりがもっと間隔が空いてもいいから、私はもてたら良いなあとそのように思っています。もし自分がもっと若くて子供がいてそこにいた時にはどうしたら良いだろうか「たら」とかそういうことが分からないかもしれないが、あまりにも分からなすぎて、森松さんの話とかで「うんうん」と頷いているのなら、そうしたら自分のすごく親しい若い人たちが東京、埼玉,茨木にいたらあなた達「こちらにいらっしゃい」と心から言えないし何かそこにどんどん自分の気持ちのあやふやさみたいなものが積もって来て、ちょっと欲求不満になって来たり、だからいって何か計画しましょうかという時に自分が何か率先して動けるかというと出来ないし、私はそういう気持ちです。ただ色々なご縁があって色々な人と巡り会えて毎月巡り会えて、野島さんのご本を読ませてもらったり、田中さんから紙芝居の本を読ませてもらったりとか、毎月平塚さんにお会いしたりとかこの会が無かったら私の人間関係は細かい小さい所で終わっていたなあと思うのでそれはほんとうに非常に嬉しかったです。たいへん得をした、ありがとうございます。

■阿部健 2
「ここでちょっと休止しよう」という事について四人が一致したというわけではないがだんだん同じような気持ちになって来て、振り返ってみたら一番最初どうだったかというと、非常に素朴なスタートをしたと思います。一人でも二人でも毎月11日に集ろうと、まだ去年の春ぐらいの事ですから、まだほとぼりも今よりも強かったわけです。追悼の会というのを初めてやってそこでやっぱりこういう事も必要かもしれないと皆が思ってその後どうしたら良いのか分からないけれども、一人でも二人でも毎月11日に集ろうという事が話として出てきて自分たちが知りたい事を話してもらうというその事だけでスタートしたと思います。ですから初めの頃は、私が福島に行ったことが話にも少し出ましたけど9月11日にしゃべってますし、行ったのは8月1日から2日のその時だったと思います。それは直接的にその前にお話をいただいた寺川さんという方にうまく連絡がとれなくて、お願いしてOKはして頂いたのですが果たして8月11日にこの人に連絡が取れないのでほんとうに大丈夫なのかよく分からないのが事実でその事で保険をかけるつもりで福島に行った事を思い出します。もしだめな時は自分が福島の話をしようと考えて行った事を今思い出しました。
それから資料にあるように様々な方にお話をして頂いたように事務局の人はみんな思っていると思うのですが、得をしたというか良いお話を聞けたなあと思うんですね、ただだんだん自分の気持ちの中でこのまま続けていていいのだろうかという事が強くなってきたと思うんです。どういう事かまず来られる人が少ないとスピーカーの人に悪いなあと、せっかく特に福島や東京など遠くから来た人に対して悪いなあというだんだんと感じるようになったですね。参加者があまり少ないと、それからスピーカーだけじゃなくて集って来て頂いた方私ら自身あまり少ないと張り合いがないそういう気持ちがだんだん出て来るわけです。スピーカーに悪いというのがだんだん高じて来ると参加の人数が多ければ良くて、少なければ悪くて人数が多ければ満足できて少ないと不満など、達成感があったりなかったりという事が自分の気持ちの中で比重が増していく訳です。そうするとそれを避けようとするからお願いをしてでも来て頂くようなそのような動きもするわけですね、そういう事をやっているとだんだん自分がしんどくなってくる。声をかける人は自分の付き合いの範囲の人に声をかけるそうすると付き合いというのは色々な事でお付き合いしているのですから何かいつでも「私からの話が例会の話だとかそういう話ばかりだとか」だったら付き合いということが歪になって来る。そんな感じをして来ています。ちょっと考えましたね。
それからこのまま続けていて良いのかという疑問を持ち始めたもう一つの大きな事としては、ここでやっているテーマというのは良い事をしている、それから正面きって反対できない、そういう事ばっかりと言ってもいいくらいなんですね。「毎月11日」でそういう事ばかりやっているこれはどうかなという考えが出てきました。という事で二つの事を言いましたがより本質的には人が正面切って反対できない事をずっと同じようにやっていて良いんだろうか、「何か違うなあ」という事、さらに参加する人が少ないとどうこうという事の気持ちが自分の中でだんだんウエイトが増してくるこの二つがある。これは「ちょっとおかしいんじゃないか」と何がおかしいのか今でも分からないのですが、おかしいと考えてこれは中断した方がいいなあと、休んだ方がいいなあとこのように思っています。これが一つ目の話です
二番目の話はこういう事をやって来てもうひとつ思った、かなり痛切に思ったのですが我々はほんとうに「芸がないな」「レパートリーが狭いなあ」という事を思ったですね。つまり被災地に行って何が出来るんだあるいは被災した人とどんな話が出来るんだ、被災地に行って被災した人と話をする時は、「なかなかですよね」うっかりした事を言えない何か役に立つ事は出来るんだろうか、これはやはりいやですね。これは初めから今日まで思いますね、ひたすら思うとか、祈るとか話を聞くとか問題を考えるとか、それはそれで良いとは思うけれども形に表さないと伝わって行きにくいというネックみたいなものが、その点行かれた人の様子を見ていると、芸の話とか具体的に歌が唄えるとか音楽が出来るとか伝わりやすくて良いですね、ほんとうに羨ましいです。絵を描く人、絵描きさんですら何か色々な形で子どもに絵を描かせたり、それを向こうの子どもが描いた絵とこちらの子どもが描いた絵を交換させるとか、巻物みたいにして展覧会をやったりしている例も見ましたけど「ああいいなあ」とこのような事が出来たらと、藤崎さんみたいにハンドマッサージを一生懸命やられるあれも具体的でいいですね。そういう事が我々なかなか出来なかった。いわゆる昔の言葉で言えば「つぶしがきかない」のでしょうね。そういう事を考えると二年間よく続けて来たなあと言う見方も出来るかも知れない。何をしたかと言うと結局私だったら仕事として来たのは「データーとか情報」を扱う事でしたからやっぱり情報を扱うような事を結局やって来た、話をする人を見つけ出してその人に話をしてもらってそれを記録に残してそういう事が私ららしい活動だった。結局そういう事かなあと思っています。そういう事にしてはよく続いたなあと言えます。
次のお話ですが感想です。この二年間で頼もしい人にわりと会えたなあと思います。スピーカーの方はもちろんスピーカー以外の方でも頼もしいとはどういう事かと言うとこの間に出会った人は不思議に自分で何でもやる人が多かったですね。「やる又はやれる」自分で何かをやる、人にあまり頼っていない、身軽に動くそういう人が非常に多かった、ですから今までそういうタイプの人と付き合いがなかった訳ではないがそういう人との出会いが非常に多いと感じたものだから、何かそういう人には将来期待できるんじゃないかそういう人が最近増える傾向があるんじゃないかこういう人が増えていくとそういう人が30代、40代の人も結構いましたからもう20年も経ったらそういう人たちが力を持って世の中が変わるんじゃないだろうかそういう事も思いました。そうしてそこから自分で何でもやるという事からそれを自給自足の「自給と自立」という事を結びつけて自給自立した人という風に自分の中で名付けて、その代表という訳でもないのですがこの間聞いた藤原誉さんなどはほんとうに何でもやる人でした。驚いたのは二十歳までは全くそのような事はなくて、普通に枚方市で生活をして育ったのですよね、ところが今は美山町でかなり広い田んぼや畑をやり、山林も手に入れて山林の仕事もしている。冬を中心に猟をやる、これも又びっくりしたのですが自分の住まい、人を泊める宿泊棟、家畜小屋に至るまで全部自分で建ててそれが立派なんですよ、バラックじゃないのです。地元の木を使ってほんとうに見事な住宅、建物を建てたほんとうにそれをこの間聞いたら美山町に行って初めの3年間に大工の弟子入りして3年後に造ったみたいですね。普通の大工だったらそうはいかんだったろうけど、何でもさせて育てるような大工に付いたのが良かったのですね。つまり分業があまりないのだと思います。一方ピアノも自分で弾かれると言うので「まあ、なんと言う人」だろうと私は思って。この人は自家発電することもやっておられるのです。確か今月の15日、16日に美山町で自然エネルギーフォーラムをやられる。こういうのは私達まね出来ない、考えもしない自分で発電までやってしまおうなんて考えないですよね。ほんとうにこれからどうなるかわかりませんしね、私も藤原さんと一度一緒にお酒を飲んで一度お話を聞いただけでそれだけの事ですから違う誤解をしている面もひょっとしてあるかも知れません。
もう一つ美山町みたいな所ではなくこの間石巻の萱場祐子さんから連絡頂いたのですが、あの人は非常に元気でやっているというお便りで良かったなあと思ったのですが、石巻に「恋しちゃった」略称「石恋」と称して、先生役をやる人を達人という名前を付けて色々な趣味とか特技とかをお持ちの人を見つけてその人を今度は企画をそれぞれ立ててそれをアピールして、そこへ習う人をそれぞれ集めて、夏は夏で、春は春でシーズンごとみたいですね。それを夏恋とか春恋とか、石巻に恋しちゃった春の部とかそういうような事でしょうね。そういう風な事でパンフレットを見ると20~40名位の達人を作って、そして1000人も2000人もの人をそれぞれ習いに行く人を出会わせる。これもやはり自分らが必要なものを自分らで賄うという自給に該当する、ただし農作業とか大工とかそういう物ではない。都会的なものかなと思ったりします。

■田中淳介 2
私が思ったのはこれをずっと聞いてですね、ほんとうにそれで良いのかなあと非常に「ふんづまり」のような、頭の中でどんどん思ってくるという感覚がずっとありましてこれを何とかせんとだめだという事がありました。そうかと言って今阿部さんが言われたように何か才があってですね、それで活動して行くという事もなかなか自分にはできないし、という意味で言うと阿部さんと最初の頃だったと思うのですが去年に「田中さん、何でこれをやってるんですか」と阿部さんから質問されてですね、基本的にイベントみたいや支援をやっている訳ではなくとりあえず情報を知りたいと具体的には現場の人、あるいは現場で色々な支援をしている人の話を直に聞きたいと言う所しかないと阿部さんに言った記憶があるんですが、その時にはそれを聞いてどうするかという事はノーアイデアだったんですが、先程も言ったように結局記録に残してそれを皆さんに読んで頂ける程度の物にしていく事が僕らの出来る力量というか領域がないのかなあという感じが非常にしました。一時福島の芸能みたいなものを呼んでイベントするという話もあったんですが、どうも気持ちとしてしっくり来ないと言うこともありまして、なかなかご協力出来なかったのですが、そういう意味で言うと今までの性格の限界というか仕事の限界というかその辺を強く感じています。その中で色々多彩な人とたくさん会えて良かったなあと思っているのですが、ただ私がそれを出来るのかなあと、それはなかなか難しいかなあと思ったりもしています。

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