2013年12月23日月曜日

「毎月11日の会」10月例会-避難者子ども健康相談会の活動-髙松昌子さん

スピーカー 髙松昌子 大阪府枚方市在住
      「福島県避難者子ども健康相談会実行委員会」
日時・場所 20131011日(水)
大阪市立総合生涯学習センター第5研修室

「福島避難者子どもの健康相談会おおさか」の窓口をさせてもらっています。いろいろな専門の職種の人がスタッフとして関わって下さっています。私が直接相談を受けるという立場じゃないので、あまり具体的なくわしい話はできないと思いますが、写真もご覧頂きながら健康相談会のことが少しでも伝わるようなお話になったらいいかなあと思います。

「子ども全国交歓会」の活動を続ける
私は「子ども全交(子ども全国交歓会)」といいまして、子育てグループでずっと活動しています。私はもうずいぶん年をとっていて参加している子ども達は孫世代なんですが、私の子どもたちがここに参加していたのでそのままお世話係をずっと続けています。「友だちが好き」「自然が好き」「平和が好き」、そんな子どもになって欲しいと思い、お友達といっしょに子ども自身が遊びとか表現活動を創りだすという事、アジアの子どもたちと仲良くなる交流だとかそういう所で子どもたちが輝いて育つように、大人は見守り支える、そういう事を柱に活動しています。私自身二人子どもがいましてもう成人しているんですが、上の子一人は働いています。共働きで夫はなかなか家にいつかないで、いつも時間に追われて一人で余裕のない生活をずっとしてきました。子どもたちにはほんとうに申し訳なかったという思いを抱えつつ、今の子育て世代のお母さんたちは、子どもたちには「たっぷり甘えさせてね」「しっかり受けとめて抱きしめてあげてね」という私には出来なかったことを伝えながら関わっています。
今の子どもたちは成績とか結果を出すことが求められていて、教育の分野でも出来の良し悪しとか、点数の順列で子どもを格付けする競争の社会です。体罰問題も今でも続いていますがそういう背景があるんだと思っています。自分はだめな人間だと思う中高生が六割を占めるんです。随分前から日本の子どもの自己肯定感の低さが際立っている状況があるのだなあと思っています。2007年に全国学力テストが復活したということがありまして、序列化につながるから文科省は結果を公表しないようにと言ってるんですが、学校順位までも明らかになっていくというようです。今年大阪市は来年度学校選択制を導入するので学校別の成績公表をすると言っています。私はそういう事が子どもたちの選別につながっていくんじゃないかと、そういうテストに莫大な税金を使って行うという事は良くないと異議を唱えてきました。そういう過程で出会ったのが子供の権利条約です。1984年に国連で作られて、日本でも1994年に批准した子どもの権利条約です。子どもを豊かに育てていこうとそういう事を思いながら活動をしていましたが、私たちもこの子どもの権利条約というものをよく知らなくて、子どもの権利のための国連NGOという団体、DCIと言うんですが、その運営委員である木附千晶さんという女性に来てもらって学習会などをしました。それは子どもたちが自分の思いとか願いを自由に出しながら大人に向き合ってもらって、大きくなっていくという、そういう権利なんだという事を私たちは教わりました。ほんとうに子どもが真に必要としているのはこの人となら生きていけるという自己肯定感とか、人って信頼していいんだという共感能力を生み出していく、親とか教師などの身近な大人との継続的な受容的、応答的な人間関係という事が必要なんだという事を教えてもらいました。これなしには子どもたちは尊厳をもって今を幸せに生きて、調和のとれた人格に発達することはできないという事、それが子どもの権利条約の本質であると言われています。「ねえ、ねえ」と言う子どもに「なあに」と答えることの関係に自分はかけがえのない大切な存在であるそういう感覚の人になる、そういうことであることを学びました。だから赤ちゃんにでも、意見表明権はある。泣いて訴えることに対して「どうしたの」と向き合ってもらうということ。“おっぱい”なのか“おむつが濡れているのかなあ”“ねむたいのかなあ”とか、そういう行動をしてもらい、ここちよくなる関係性を継続することが大切なんだという事を知りました。そこでもう相手にしてもらえなかったら、子どもは人間不信に陥るし、自分の言いたいことも言えないし、そういう事が後々とても大きな問題であるという事を教わりました。これはほんとうに目から鱗で、大人たちはあなたのためと言いながら実は自分の具合のいいように、子どもたちを思うように管理する支配する、子どもの尊厳とか、成長とか発達を押さえ込んでいる。私達もややもしたらそういう事をしていたのではないかと思い返しながら、「何故そういうことができないの」「どうしてそういう事をするの」と言ってしまう。ほんとうに子どもの声とか思いなどに耳を傾けているかなと、そういう事を思い返しながら子どもが自主的に進める活動を作って行こうということで歩んできました。なかなか難しいですけどね。

20116月、郡山から避難してきた二組の母子と出会う
避難者とは、震災があった年、2011年6月に出会うきっかけがありました。原発事故を子どもたちにも分かる話をしようという事で、原発事故と未来を支えるエネルギーを考えようという学習会をしました。子どもにも学習させたいという、そこに郡山から非難した二組のお母さん、母子避難者の人が来られました。これは子どもたち自身のこれからの問題だから子どもにはしっかりと向き合ってほしいという思いで来られました。そういうお母さんたちの出会いが、すごく甚大な被害をもたらした3.11と原発事故を一気に身近に引き寄せてくれました。一人のお母さんは、小学生の子どもの鼻血が止まらなくて避難を決意したのですが、子どもはとても渋るので「お母さんより先に死んでほしくないんだ」と子どもを説得して連れてきた。事故直後放射能が降り注ぐ中、水を求めて子どもと給水場に並んだそうです。やっぱり正しい情報を流してくれてさえいたら子どもにそういう事をさせなかったと思い悔んでおられました。
もう一人のお母さんはとても元気な人で、生きていかないといけないし、子どもを育てていかないといけないから落ち込んでばかりいられないから前に進んで行かないと、こっちでがんばって生活を作っていくんだとおっしゃっていました。せっかく放射能から避難してきたのにこっちで危険があっては何もならないと、「プールは安全なのか」「給食は大丈夫か」そういう事を学校や保育所にかけ合って線量を測って、そういう事をやっておられてかなり私たちの背中をぐいぐい押して下さり、「そういうことが大事よ」という事を教えてもらいました。普通の人たちがそこに住んでいたと言うことだけで、自分で情報を集めて自力で逃げてこなければいけなかったことを直に話を聞きました。子どもたちは大切な家族と離れ、子どもを育ててくれた色々な「自然や地域」や「おじいちゃん、おばあちゃん」や「海や山」やそういう所の関係性を断ち切って、まったく初めての土地で生活し人間関係を進めていかないといけないという、ほんとうに何と理不尽なことだろうと思いました。そんな避難者の人との出会いがあったので、健康相談会を大阪でもという話が持ちあがった時にぜひ関わりたいなあと思ったわけです。

福島健康相談会を大阪でもという呼びかけに応じる
福島では原発事故後の2011年6月から福島現地の呼びかけに応じて健康相談会をスタートさせています。東京の山田真さんという医師が代表の「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」というのがあるのですが、そこの協力で福島での子ども健康相談会がずっと続けられています。「子どもを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」の呼びかけで福島の健康相談会に参加協力してきた医療問題研究会の医師が全国に避難した福島の子供の健康相談会の話が出ているので、大阪でも出来ないかなあという話が出てきました。私の夫がこの研究会に加わっている医師だったので、そこから話を聞きましてぜひ私もやりたいと、その医療問題研究会のお医者さんが対応し、事務局は私達が引き受けて「子ども全交」の仲間と運営を行うことになりました。
大阪の健康相談会の目的はまだ空間放射線量が高い福島の現実から避難されてきて、避難生活の中で生じてくる子どもたちの健康の不安とか、被害を受け止める事とか、同時に悩みや心配、不安を受け止めて避難先での安心した生活をいっしょに整えていく、そういう様々な分野でのかかわりを作っていく事を目的として始めました。

20124月一回目-試行錯誤の末、17家族36人が参加
第一回目の福島避難者子ども健康相談会は昨年の2012年4月クレオ大阪西で開催しました。立上げの実行委員会には医師とか看護師とかハンドマーサージのボランティアの人とか、教育、子育てNPO団体の方、司法書士の方、当事者である避難グループの方、何かやりたい何かに関わりたいと思う人たちが集って下さいました。第一回目の実行委員会の一週間前にした学習会に来られた方、ブログや避難ママのメーリングで知った方、初めて顔を会わす人ばかりでしたがこれまでに避難者の支援活動をされている多くの方が協力してくださいました。
避難者の人には、まず申し込みをしてもらうという事から始めますので、チラシがいる、申し込みフォームがいる、今の人達はみんな携帯でやり取りをしますからそこから申し込みが出来るようにとか、そういう事が必要だということで、さあどうしようかと。チラシはスタッフの娘さんが作って下さいました。これを日付だけ変えて四回目まで使っています。申し込みフォームはそこを開けると、色々な項目が出てきてそれに入力して送信すればメールが届くというフォームなのですが、実行委員会に来られたスタッフの方が作って下さいました。チラシの裏にFAXでの申し込み書を私が作成したのですが、自宅のFAX番号を一部逆に記載して、実際に存在したその番号のお宅にお詫びして転送をお願いする失敗もありました。やはり初めてのことで、少々てんぱっていたのだと思います。
避難者の人にアナウンスと言ってもまったく情報を持っていないので、避難者の人が何処にいるか何人いるかなど分からないです。これもスタッフの支援に関わる人から教えてもらって、ちょうど2012年は3.11から一年ということで関心が向けられる時期でもあり催し物がたくさんありました。避難者の人の集りとか、3.11の集いなどもありました。ボランティア情報センターで避難者向けの広報誌ですが『IMONIKAI』というのが出てるんですがそれに挟み込んでもらったり、避難ママ、関西の避難者団体のメーリングリスト、弁護士会の会報とか色んな所にお願いして配布してもらいました。新聞掲載もしてもらいました。スタッフは各自在住の自治体で避難者支援の窓口、危機管理室がありますので、そこに避難者支援に送って下さいと持って行ったりと、当日までの活動でした。そんなこんなしながら申し込みのメールが一人、1家族、2家族という感じで届くわけです。当日は看護師10人ほどで問診表の記入に付き添って、医師8人が交替で個別に面談を行うという形にしました。健康相談会以外にも教育・法律相談も設け、保育室、お茶会、ハンドマッサージのブースを作りました。入り口から会場までの案内、駅から案内してくれる人とか50人を越えるスタッフの人たちが動いて下さいました。その人たちはほとんど専門家ですが、それぞれ準備してメンバーを集めて参加して下さいました。大阪への避難者の17家族36人が参加しました。事故直後に避難された方、一年悩んだ末に避難された方など様々でした。家族は福島と関西に離ればなれと言う人がほとんどでした。ほとんど母子避難の人です。

参加者の不安-被曝、避難が正しかったのか、これからの生活、家族
一人30分の枠で、予約してもらって朝10時半位から、2~3家族づつを順番に30分おき位で来られるんです。子供は保育室にいって遊ぶ、面談が終わったらハンドマッサージとか先ほどのお茶会とかそこで過ごされる方が多かったです。私達は最後の反省会をやって戸締りをして「さあ帰りましょう」と外に出たんですが、まだクレオ西の向いの公園で遊んでいるのは避難者の方たちです。日頃孤立しているのかなあと、そういう同じ身の上の人達とたまに会ってほんとうにほっとできるというか安心できる、その時間がとても大事になってきているのだなと思いました。ずっと暗くなるまで遊んで帰ったとおっしゃってました。
相談の内容は具体的には微熱とか、鼻炎、疲れやすいとかそういう症状に関わることもあったみたいですが、今後への不安、特に生活への不安に加えて避難が正しかったのだろうかという不安、がんになっていくんじゃないかなという不安とかを訴える人も多かったです。面談にあたった医者の報告ですが、「家族はバラバラで向こうに残る友人も多くて自分が正しかったかどうかと揺れ動いていて、かといってがんは恐いし、孤立している中で、このような相談会を開いてくれるだけでうれしいという言葉。ほんとうの話が聞けて気持ちが落ち着きますといった人、事故直後にのがれて来た人が涙ながらに不安を訴えられてそれに対して“手放しで大丈夫とは言えないけれど、10万人に一人か二人ふえる程度のリスクをどう考えていくか、発熱が数日続くようであったら、すぐに医療機関に連絡できるようなルートを作りましょう”といったそういう会話を交わす中で少し先が見えてきましたという人もいた」と。
他のブースでは「ハンドマッサージはほんとうに鳥肌が立つほど気持ちが良かったし、保育もあったので茶話会室でゆっくり話をすることが出来ました。これからも私たちのような避難者の相談にのっていただけたら大変心強いです」と感想をいただきました。
参加された親子さんにとって少しでも胸のつかえをおろすことのできる場になったのかなあとスタッフ皆思いました。当時直ちに健康に影響はありませんと事故後繰り返し言われていましたので、心配や不安があるなかで、気のせい心配しすぎと言われ続けてきたお母さんたちです。医療機関にかかっても真摯に答えてもらえない、そんな経験をもつお母さんたちが子どもを避難させて正しかったそう思えること、低線量・内部被曝の危険性を科学的な根拠をもって理解する人たちに向き合ってもらう事がとても大事なことであると思いました。子どもの将来も心配ですし避難してきても決して不安が取り除けるわけではないというのが実状ですので健康問題とともに避難生活が長期化する中で福島に残す家族のこと、子どもの学校のこと経済的にこの生活が続けられるか様々な問題に対するサポートが必要だと確認していきました。

「低線量被曝の学習会」「避難者の声を聞くつどい」を開催
次の相談会は9月ということを決めて準備していくことになるんですが、スタッフの中から避難者の人に関わり、寄り添って関西でよりよい生活ができるようにサポートいくためにも避難者が一番心配しているのは低線量被曝の問題なのでそういう学習をしようという声があがりました。4月が終わって次の9月までの間に、6月にスタッフの入江紀夫医師に講師になってもらって、「低線量被曝・内部被曝の危険性-その医学的根拠」と題して学習会を行いました。30人程度の参加だったのですが福井から避難者支援の方が来られたとか、ネットで見てとびこみで松戸からの避難者の方も来られました。その方はとっても子どもが体調が悪くてどうしようもなくこちらに来た、こちらに来て子どもがとても元気になってという話をされていました。「私も大きなのう胞が見つかったんです」と。こういう学習会を聞けないかと必死で探して来られる避難者の人たちの現状に胸が痛かったです。
「避難者の声を聞くつどい」というのを9月直前の二週間ぐらい前に行いました。二人の避難者の方に話を聞きました、このつどいと相談会の予告記事とか報告記事が新聞に載りました。

20129月第二回目開催、事故後1年半後、被災者がせねばならない選択
第二回目の相談会は9月に行いました。この時はドーンセンターで行いました。避難者家族は11家族子どもは21人ということで、前回に引き続いて来ていただいた家族の方は4家族おられました。7家族は初めての方でした。スタッフも入れ替わり参加者も含め同じ位の人数の人が集って来てくれました。
避難者の方は「質問に答えてもらったり、ゆっくり話を聞いてもらえて不安とか疑問とかが解消された」「細かい話にも答えてもらったしアドバイスを具体的に教えてもらった。甲状腺の状況について丁寧に説明を頂いた」「四月と同じ先生で引き続き相談にのってもらえてとても安心感があった。福島県民の健康不安によりそった相談もしてもらった」「放射能に理解のある先生に相談できてとてもありがたい、健康相談会だけでなく他のコーナーも充実していてとても満足している」「子どもの健康今後どうなるかとても不安で引き続きあればうれしいです」「定期的にやってほしい」というそういう声もありました。健康検査をしてほしい方、事故後一年半たって福島にもどろうか、もどっても大丈夫かということを、家族の関係での悩みも出されたそうです。一年半たって戻るのかどうかの選択をまたそこでしなければいけないという方がやっぱり増えてきたなあと思いました。

20134月三回目は関東圏へ対象を広げる
二回目を終えて次はどうしようかと考えていくわけですが、当初から言われてきたことですが対象を関東圏にも広げていこう、最初は福島で始まった健康相談会だったので、福島の避難者という事で始めたんですが、近畿への避難者は関東地方の福島県以外の方がほんとうに多いです。マンパワーの問題もあって福島の子どもに照準を当ててきましたけれど、関東圏にも多くのホットスポットが存在して一家で移住を選択した家族もおられます。健康問題とか避難生活の不安とか心配は同じであるはずですので、どれだけの申し込みがあるか分からないけれども、すべての避難した子どもたちを対象に受け入れていこうということで、三回目は福島ということを外して、避難者子ども健康相談会おおさか、ということで同じくドーンセンターで行いました。
第三回目は13家族でした福島県からは7家族、福島以外は6家族で千葉県銚子市、浦安市、松戸市、東京都は杉並区、葛飾区などの避難者の方が来られました。
参加された避難者の方のアンケートをここに紹介しています。「はじめて対象者を福島以外に拡大していただきありがとうございます。私は東京からの放射能避難なので神経質なヒステリーママと二年以上受け止められてきました。言われるとおり原発事故を恐がっています。残されて東日本に暮らし続ける子どもたちが心配で冷静でいられない事もありました。事故当時3才の娘を守ったつもりでのう胞が見つかり不安になったり、楽観したり、揺れると長女の娘にも影響が出て、このような日々に健康相談会にたくさん助けていただきました。準備と運営に関わって下さるたくさんの方々、ありがとうございました」避難者という言葉でひとつにくくれないなと、それぞれの避難者の状況が違いますので、一人一人に寄り添う健康相談会でありたいとそれを大事にしていこうと皆で話をしました。

20139月第四回目 避難者に広がる「こどもの甲状腺がん」の不安
先月の9月に第四回目の健康相談会を行いました。だいたい健康相談会は一年に2回、4月・9月に開催で、落ち着いてきたかなと感じます。
福島県が行う福島県民健康管理調査というのが2011年から浜通り、中通りで今年は会津地方というのでずっと順番に健康調査をやってきているのですが、そこで福島の子ども43人に甲状腺がんが診断されたという調査結果が出ています。震災当時18才以下の約36万人が対象ということで行われているのですが、通常子どもの甲状腺がんは100万人に1人~2人と言われていますので、これだけを見ても深刻な問題になってきていると思います。第四回目9月の開催時には「子どもに甲状腺の超音波検査を受けさせるべきか、両親、夫との間での考え方が異なることをどうしたらいいものか」と言う。「避難後に妊娠して出生した子はほんとうに大丈夫なんだろうか」「異状が出た甲状腺血液検査の再検を希望したいけどどうすればいいのか」「前回は問題なかった甲状腺検査に要観察所見が出て以前より膿胞とか結節が見つかっているけど二年後に再検と言われてほんとうにそれでいいのか、これからどんな症状が出るのか注意することはないのか」親はほんとうに心配でたまらない、そういう相談をされました。
今問題のない子どもも次の時は見つかるかもしれないという不安を抱えて行かないといけない、がんが多発という異常事態、こういう状況の中でお母さんたちはほんとうに心配でたまらないと来られました。9月の相談会は相談会が午前の時間として、午後からはセミナーを開催しました。ずっと一回目からかかわってもらっている大阪青年司法書士会の方がずっと被災地に入って活動されているのですがその報告、医療問題研究会の高松ドクターが「甲状腺がんの多発を受けて原発事故の健康被害の実態の報告」、避難者の森松明希子さんから「今も福島に帰れない~避難の権利を求めて~」の話をしていただきました。「毎月11日の会」で5月に話に来られた方です。福島第一原発の終息にはほど遠い状況にありますし、原発事故子ども被災者支援法というのが去年の6月に超党派で成立したのですがそれが放置されたままでこの8月30日に被災者生活支援施策の推進に関する基本的な方針案が公表されたのですが、避難者がずっと求めてきた、特に避難の権利はまったく無視されているという批判の声が上がってきています。その中で被災者の人たちは国と東京電力の責任を問うということで集団提訴にふみきっています。森松さんも、大阪の原告団長ということでこの時も思いをせつせつと語って下さいました。9月17日は大阪地裁・京都地裁、9月30日は神戸地裁に集団提訴にふみきったということで新聞にも載っていたと思います。
森松さんはこの時も提訴について触れていて「避難の権利を認めてほしい、未来の担い手である子どもを守る姿勢だけでも国に示してほしいし、放射能からのがれる自由を認知してほしい、子どもを守るのはすべての大人の責任であるから子どもと共に原告として加わった人、そうでない人もその事を思いを一つに一致団結して頑張っていこうと思っている」と話されました。生きる権利・育つ権利・守られる権利・参加できる権利そういうことを柱にする子どもの権利条約、ほんとうにそのものであるとそのように思いました。

参加する避難者が1人になっても関わり続けていく
終了後スタッフで健康相談会の反省会をしました。集団提訴では家族で原告に立つという人たちがたくさんいて、子どもたちも原告に立つことになります。これは子ども自身の事であるし、子どもの未来を守るという事を子ども自身が背負っていくということです。原告であるという事をその子どもが背負っていく、それに対して健康相談会も支えていかないと、そういう状況にある子どもたちを支えていきたいという声がでました。健康相談会に来られる避難者の方が一人になっても関われる体制を作っていくことが大切だという発言がありました。こういう思いで関わってこられるスタッフの人たちがいますのでそういう人たちと一緒に今後も「避難者こども健康相談会おおさか」を続けていきたいと思っています。
森松さんからこの間、「高松さん、11日の会がんばって下さいね」と言うエールが送られてきたんです。彼女の3才の娘さん、0才で大阪に来て3才になる子ですが、甲状腺検査でA2判定(注)だったのです。「私はこの相談会で毎回毎回救われているし、こうして冷静に経過を追っていこうと思えるのも相談会で支えてくれる先生方、皆様のおかげです」と言っていただきました。「避難できても私は子どもたちの健康をずっと案じ続けることになるし、それは福島に留まっている人も同じ気持ちなんです。避難者、被災者の支えになっているのでこれからも頑張ってください」といわれてそういうことを思っていただいている避難者の方たちに応える中身で今後も頑張って続けていきたいと思っています。
スタッフの人たち皆さんなんとか自分がここでできる事を頑張ってやっていきたいなあと集って来てくださっているのでそういう思いを持ったスタッフの人がいる限り一緒に頑張ってやっていきたいと思っています。
       
注)福島県民健康管理調査の甲状腺超音波検査の判定内容
A1=結節、のう胞なしA25mm以下の結節20mm以下ののう胞 B=5.1mm以上の結節20.1mm以上ののう胞 C=甲状腺の状況から直ちに2次検査 
A1A2は次回検査(H26年度以降)まで経過観察、BCは二次検査実施
(出所:福島県「第12回県民健康管理調査」検討委員会(H25.11.8開催)資料 

2013年9月10日火曜日

「毎月11日の会」6月例会 –大震災に思いをよせて~これから行動隊の仕事 – 菱倉佳代さん

スピーカー 菱倉佳代 これから行動隊理事
日時・場所 2013611日(火) 大阪市立中之島公会堂

『これから行動隊』の成り立ちと活動
私たちは8年前に『これから行動隊』という市民の会を作りました。目的は「市民が健康で未来に希望をもって生活できる社会を実現し、そういう希望のある社会を次世代に残すことを目的として活動する」というものです。会員年齢は60歳以上で、今20数名が会員になっている市民活動です。毎年いままで市民に向けて、“変えよう守山”という表題で約百名程集客のフォーラムをずっと開催してきました。8年前に、高齢者になってからも将来かかわることでもありますので医療の問題をまずフォーラムに取り上げました。そして「仕事の仕分け」というのは国会でもされましたが、あれの二年ぐらい前にすでに「仕事仕分け」について私たちのフォーラムを開きました。また、街づくりについて、そして市民の農園などと多岐にわたるテーマでフォーラムを開きました。
そのうちに私たちのグループは大きく「文化」と「農園」と「行財政」に分けて活動するようになりました。私自身は『これから行動隊』の理事をし、農園部で家庭菜園を教えてもらいながら無農薬有機栽培で野菜作りをしております。文化部では私たちの見たい映画を上映しようとDVDを借りて小さな会場で映画を見たり、3・11を機に「被害地の皆さまを忘れないよ」という発信をする無料のコンサートを企画してきました。今日20回目を終えたところです。

311後、メモリアルコンサートの開催
私の主人は元大阪フィルハーモニーのチェロ奏者で、福島市の出身です。それで3・11の後も毎日話をするのは原発の話ばっかりでね、それだけ言うんだったら何かやってみればということになって「ここから東北の皆さん忘れないよ」という発信をする音楽会をしようという事になりました。音楽家の仲間たちにバトンタッチしながら、会場はレストランで毎月11日2時~3時まで貸して頂いてそこでミニコンサート開いています。
そして昨年のフォーラムは守山市で市民提案型事業として採択され、15万円の補助金を頂いて「てんでんこフォーラムとメモリアルコンサート」二つの合わさった形のフォーラムを実現しました。当日大槌町から職員さん、滋賀県に避難して来ておられる高野正巳さん、福島二本松市から子供達親子のリフレッシュ滞在を企画された市内のご住職と三人のお話を聞きました。500円のチケットが190枚も売れて結果的には150人が聞きに来てくれ大変盛況でした。守山市では催し物、講演会などは無料で入れる、それをあえて500円を頂くということを、ずっと8回続けてやったという事は脅威的な事なんです。「てんでんこフォーラム」ですごくよかったなあと思うのは、防災意識いざという時に高野正巳さんのお話、身近に被災された方達のお話が聞けたという事、みなさんがほんとうに喜んで下さり、やったという感じがしました。そしてその後もコンサートは続けています。
コンサートは無料です。お茶を飲みに来てくださってレストランにお払いになり、そこに義援金箱を置いています。今までで40万円近いお金が集まりました。それを福島からリフレッシュに来られた子供達のために10万円使ったり、高野さんとか大槌町からこられた方にお礼の他に5万円づつ何か使って下さいと言う形でお渡ししたり、私たちグループの農園部の方たちが「たくさん夏野菜ができたから送るよ、でも僕たちはお金は無いんだよ」と言われたので、それを送料として、福島市の鳥谷野(とやの)という所に100人位の子供がいる保育園があるんですが、高野正巳さんが紹介して下さりそこに去年の7月から毎週お野菜を送ることが出来ました。そしてコンサートに来てくださった方にも、向こうから送ってくるお手紙やお写真を添えて、皆さんの義援金をこういう風に使われている事を、お見せして喜んで頂いております。そして野菜を作っている人とコンサートに来てくださったお客様と福島の子供達とが結ばれたという事が私たちにとっては、一つの形が生まれて本当によかったと思っています。今年も先日夏野菜の植え付けをしてまた送ろうと言うことになってます。

20114月福島市の家は半壊
私と主人の二人は福島市内に空っぽの家があるんです。いつも春・夏・秋と草を抜いたり、家に空気を入れるために、ずっと帰っておりました。311日のあと4月に初めて帰った時は築70年の木造の家屋ですがもう何十年も住んでないような畳に砂埃で掃除機も壊れてしまったんです。テレビはもうゴロンと床に落ちていて、食器棚はバサッと倒れていて、家の白い壁土がバサっと外れて中の竹ぐみが見えるような状況でした。
その時は福島の人達は帽子をかぶってマスクをして上着を着て、窓も開けないし外出もほとんどしないし、公園でも人影はほとんど見ないし、子供の姿をみませんでした。乳母車を押している親子はほとんど見たことがありませんでした。私も洗濯物を外に干しませんでした。その時は事情が分からないまま、草引きもいつもどおり一所懸命して、主人は葉狩りをし、市のごみの回収で全部持って行ってもらえたんです。

福島から北へ 20118月石巻
20118月に行った時は、暑いですからマスクをしている人、帽子を付けている人が大分少なくなってました。それでも真夏なのに窓は閉めきって外気を入れないそして洗濯物も外では干さない今度は庭の草引きをしてもごみとして市は回収しませんと言うことになっていたので、自分で穴を掘って埋めるしかないので草いじりはやめました。窓も閉めきって家にいると修行をしているようです。「草のある所に行かないで下さい」というので山にあるお墓へも行きませんでした。人影もまばらで、やけに飲み屋さんだけがキラキラと目立って、若い人たちはやけくそで、そこに通っているように私は見えたのです。
そして何もすることがないので二人で、JRで行けるところまで行こうと、石巻まで行くことに決めました。途中でレールが水没していたので、バスに乗り継ぎました。車窓からほんとうに凄まじい光景を見ながら石巻まで行きました。津波で跡形もない現状の中をバスは走りました。高い松の木の上にお布団が「チラチラ」と舞ってて、ああここまで水が来たんだなあと思いました。田んぼは何も草も生えていない状況でした、新しい住宅もあったんですが、形は残っているのですが、中は二階まで空っぽでという状況で、カーテンがヒラヒラと、人影もないさみしい状況でした。石巻市内は駅から飲み屋街がずっと続くんですが映画の撮影所のスタジオのように、建物はあるんですが中が空っぽで全部水で流されたように見えました。あれから5か月ですがまだ電気がきてないようで、市内の交通整理を、おまわりさんが手信号をしているという状況でした。そして陸には漁船が打ち上げられ、放置したままの状態でした。その時の死者は3,230人、不明者579人という数字が石巻の市役所に掲げてありました。

福島の家の線量測定
201111月に又帰省しました。マスクをしている人はほとんど見当たらくなり、私の住んでいる所のぐるりは、お住まいになっているのですが、仕方がないなあと言う感じで住んでおられます。でもやはり乳幼児の方はあまり見かけませんでした。外に干し物をしている人は時々見かける状況になってきました。福島市でやっと野菜などの放射能の線量を無料で測ってくれるということが始まりました。私の住んでいる所は、原発からは65km離れた所です。わが家の土はどれだけだったかというと、測定して本当にびっくりしました。土はセシウム137は9,669ベクレル(注1))、そしてセシウム134は7,533ベクレルでした。そして土を剥ぎとって除染をしないといけないのかなあとすごく思いました。市からは、買ったら10万円もするらしい放射能測定器を借り、家じゅう調べました。玄関先は1.5(注2))、次の年は1.25、今年は1.2少しずつ下がってきたなあと思います。守山の家で測ると0.05なんですけど、福島の家では0.4位あります。
注1)ベクレルとは「放射線をだす能力」のこと。電球でいえばワット数にあたるもの。一般食品のセシウム規制値は平成244月に100ベクレル/kgと定められた。
注2)単位はマイクロシーベルト/時、人体への影響の度合いを表わす。年間1ミリシーベルトが上限値と定められている。福島と守山の家の数値を年間推計すると、福島が3.2ミリシーベルト、守山は0.2ミリシーベルトとなる。
今回は、測ってもらった数値の資料を持ってきました。これは柿の木の下の数値です。一番最初に測ってもらった時は、134と137を合わせて合計して見るのですが、確かに一年半経って数値はセシウム134が半分位に減っております。そして我が家の庭のフキの葉を平成24年に測りますと合わせて41でした。今年測りましたら「検出せず」で「食べてもいいです」と言われたのですが、ちょっと気持ちがクエッションでした。民間の測定所で3,500円を出して計ってもらったら23.97という数値がでました。市では数値が低かったら、売り物でない場合は「検出ゼロ」と書いてきます。今年秋にもう一度3500円だして測ってもらおうと思っています。これがゼロでもいろんなものをいっぱい食べてたらどうなるだろうと思ったり、滋賀県から10日行くだけですので深く考えていないし、年が年ですから行く先の方が短いので「もう大丈夫や、何が起きても死ぬ方が早いわ」と思いますが、そこに生活している若い人たちは子どもに食べさせていいのか、今日は外で遊ばせていいのかな、そういうことひとつひとつ判断し決断して毎日生きて行くのがストレスだと仰っています。
20125月気仙沼
去年の5月にまた行ってきました。草引きもできない、窓も締切で洗濯も干せない、布団も干せないということで、気仙沼まで行こうということにしました。石巻よりちょっと先で大島というところで応援宿泊の情報を得て、仙台からバスに乗っていきました。気仙沼の町の中はがれきというかきれいなとこもあるんですがばさっとつぶれたのとか、まだ手つかずで「がんばろう市場」みたいのがたっているだけで港も沈下してました。船で大島にわたりました。ホテルで自転車を貸して頂いて島を一周サイクリングしました。そしたら高台の方の人たちは大丈夫だったので、「どこから来たの」て声をかけてくださったり、「お茶を飲んで行きなさい」と温かい声をかけていただきました。ここはまぐろ漁をする人たちが多くてまぐろ御殿というどのお家もすばらしいお家がたくさん建っていたようです。丘の上にはまぐろ御殿がたくさんあったのですが、港の辺はまぐろ御殿が全部なくなって和式トイレの便器だけ残っているんです。ここにもあちらにもお家があったんだなて見られました。
今回帰省の最終日、野菜を送っている鳥谷野保育園に行ってきました。園長先生と会ってきました。「子供達が守山から荷物がつきましたというと、あわーと集まって本当にいとおしく頬ずりするようにうれしく思っています。こうして頂くこともさることながら私は子供達が遠い所から応援してくれている人がいるということがどんなに教育になっているか、ありがたく思っています」と話して下さいました。プレハブがあって、「いろいろの皆さんから贈られたものが入っているんですか」と聞きましたら、「いいえあれは砂場になっているんです」外で遊べないから建築現場にあるようなプレハブに砂場があってそこで砂遊びをするようになっていました。

福島市内の除染
そして201211月に除染のことで福島市役所から書類が届き、説明会に帰りました。福島市はスポットで濃度が高いので除染をします、でいくら位かかるのか聞きましたら358億円かけますと仰っています。市役所の方は「一生懸命丁寧に屋根の上から全部させていただきす、汚染の水は全部回収します。はぎとった土は庭の隅においてビニールシートをかけます。持ち運ぶ場所ができたらもっていきます」というように説明されました。私の気持のなかでは、除染というより移すだけ、移染じゃないですかと思いました。説明会の終わり頃に、市民の方が「山の除染はどうするんですか」福島市の丁度真ん中に信夫山のという山があるんですが、そこはものすごく濃度が高いんです。せっかく除染しても山から風が吹いたらまた汚染が拡がるのでやってもやっても山から放射能がふってくるのが現状ではないかなと思いました。大きな公会堂みたいなところで昼と夜と合わせてお話しがあったんですが、お昼は70人位、夜は30人位。もういってもしようがない、なにかしてくれるんだったらやってくださいという思いで、みなさん説明会には来られないのかなと思いました。私も一生懸命測るんですけどね、測っても測ってもむなしさがあるだけで、いくらあるからと言ってなにかシュッとまいて減るという訳でないので、福島の近所の人たちも皆さん高齢の方ですので、ここで住んでるしかしょうがないなと思って生きておられるんだろうと思っています。
20135月また帰省しました。町の中はあちこち除染の風景がみられました。6/12日に東北の町のお祭りが全部福島に結集してたくさんの人が来るということで道路の除染が始まっていました。ほこりもたっていましたので今度はマスクをする人が非常に目立ちました。こころなしか親子づれが目につきました。信夫山にはすごい立派な噴水があるんですがそこは全部つぶしてコンクリートになっていました。市役所に行き除染のことを尋ねました、ある小学校の校長先生が3月に辞めて説明担当の仕事をしておられました。「3.11の当時その年から小学校の子供達は大変で、プールに入れないんです。水のなかに入るのは家のお風呂しかなかったんです。コンクリートは放射能がこびりつくというのでほんとに危険なんです。」ひとりひとりの生き方が体力が落ちていくんだなと思いました。

20135月大船渡
そして今回も私達は家の中ですることがありませんので、また北上しようと。今度は仙台から大船渡までバスがでています。気仙沼の町は昨年とほとんど変わらない状態です。よくポスターでみかける大きな魚船が町の中に乗りあがったまま、それを住んでいる人たちは「思い出すから早く取り壊して欲しい」と言われています。私は今回このありさまを目の当りに見ることができてよかったなと思いました。陸前高田、モニュメントになった奇跡の一本松の横もバスが通ったんです、沢山の観光の人たちが見に来たり、そこに手を合わして祈っている方もいました。このモニュメントは風景とマッチしない違和感のあるもので1億数千万円かけて、個人的にはもったいないなと思いました。その陸前高田の港は本当に静かです。田畑は塩水がかかって何もない、ひろいひろい状況になっていました。市役所は随分山の方に移動してたんですけど、山の方は杉を伐採してこの土を下の方にもっていかれるのかな、平地にして家を建てられるのかなと思ってその風景を見ていました。
大船渡に着きますと、大船渡の港の中央に船が座礁したまま残っていました。盛駅という駅があるんですが、その近くを歩いていましたらおばあさんに出会ったんです。「大丈夫だったんですか」と聞いたら「私の家は1階が水没してお布団も畳も全部だめになったんですよ、お隣には犬がいてその犬のことを何かしているうちに流されたんです」本当に平然と話されるのでそんなことで胸がどきっとしました。丁度三陸鉄道が少し開通したと聞きましたので、行けるところまで行こうと、吉浜というところまで行きました。小さな駅に停車する毎に見える光景は全部流されたすさまじい状況で、小さい町ですからなかなかボランティアさんが入られるれるとかどんどん回収されるとか見られない状況でした。そして「吉浜まで行く」というと大船渡の人から「あの町は一人しか死ななかった」と。随分以前の津波のあとでみんな山の方に住むと決められそうです。「一人亡くなった方は新しい農機具を買われてそれを見に行って流されたんです」と言われました。昔のいい伝えを守ってみなさん山の方へ移動され犠牲者も少なかった町もあることが分りました。福島県も海辺に行けば放射能のこと津波のことで大変な状況であることが手にとる様に見えるかもしれない、だけど入ることができません。福島市内は空気が汚染されているけれど、見る光景は昔と変わらないので、二人でできるだけ遠くに見たことのないところまで行こうと出掛けます。どの被災地を歩いても、ほんとうに親しく「どこからきたんですか」と声をかけて下さったり、ちょっとこちらから話したらお話して下さったりするので、いい経験ができたと思っています。
それで福島の原発のことを考えると、人間の私達、皆さんも国中がとてもいいことだと思って便利なものだと、安いしいいなと思って原発を推進してきて何の疑いもなく進めてきたんですけど、今のあの惨憺たる結果になって、いいと思う人はいないですね。津波のことも原発の事も立ち止まって考えないといけないんじゃないかと私は考えています。
『これから行動隊』のこれから
11日のコンサートのあとに、今日は三陸のわかめ、石巻の方と親しいので15kg送ってきたのものを『これから行動隊』の女性達と200gづつ袋詰めしながら東北の事を話し、今日のコンサートに来た人に売りました。また毎月3万円づつ釜石の魚のお惣菜パックを仕入れることにしています。それを作っている菅野食品の娘さんが私の友達で、その方は当日テレビをみて自分の家が流れてくのを見て気絶する位びっくりした、実家は何かしないと仕事をしないといけないと、プレハブをたてて始めたんだけど売り先がない、近所の人もいない、でも商売をしないと食べていけないので、それを聞いた私達は「毎月3万円づつ仕入れます」と言ったんです。主婦は食べるものだったらすぐ買って下さるので、「義援金はどこに何を使われたかわからないけど、これを買って少しでも応援していると思うとうれしいんです」と言ってくださる。今は『これから行動隊』はコンサートと物品の販売を文化部でやっています。
この会のみなさんも石巻の映画をしようと思っていらっしゃいます。私達も「生き抜く」という三陸の映画会をしようと思っています。これは毎日放送の方が2日目から現地に入って800時間収録し2時間にまとめたものです。守山立命館の高校生達が東北にボランティにいったらしくて自分たちも何かしなくちゃと駅前の商店街の一画を借りて東北の応援グッズ販売をしていた時、相談に乗り私達の物品を売ってくれました。この映画を私達の今年のフォーラムにしようと思ってたんですが、立命館の学生が一緒に映画会をやろうということになって、来年の2月に実現しようと思っています。こういうことが、『行動隊』の現状と私自身の思いです。
なかなか東北の復興と簡単に言うけど1020年はかかるし、その間に人々の毎日の生活があり仕事もしたいし、それを思えば1020年後に帰って来るだろうかなと言う気持ちがあります。そして福島については先ほど言いましたように除染というのが本当に出来るかなと、そして朝日新聞にありましたが、インド人の方が「まず日本の人がすべきことは私の国に原発を売りにくるのではなく福島東北の人たちの復興と原発の処理をどうするかという事ではないですか」と書かれていて本当にそのとおりだなと思います。
以上が私が皆さんにお伝えしたいことです。

2013年9月6日金曜日

「毎月11日の会」7月例会 -放射能と暮すこと 福島‘11~‛13-    酒井ほずみさん

スピーカー 酒井ほずみ TEAM ONE LOVE事務局 そうまかえる新聞編集部
日時・場所 2013年7月11日(木) 大阪市立中之島公会堂

相馬で娘と二人暮らし、これから先も相馬で暮らす
福島県相馬市というところから来ました酒井ほずみと言います。生まれも福島県相馬市という町です。人口4万人ほどの町なんですが、そこで生まれて小学校6年生までそこで育ちました。その後両親と仕事の都合で静岡に転居いたしまして、24歳まで静岡市におりました。そのあと東京都の八丈島という島でお仕事をさせていただいたのが3年ほど、そのあとで相馬でお店をやらせてもらうという話になりまして、相馬の町に戻ったのが27歳の年でした。今年36になります。
27歳の年に帰りましてその6年後ですね、大震災というものを体験することになるんですけれども、その先も今も変わらず福島県相馬市で生活を続けております。今18歳高校3年生になる娘がおります、震災がおきまして一時避難させたりもしたんですが、親子で色々考え話し合った結果、福島県相馬市でその先も暮らして行こうという結論を出しました。今彼女は別の事情で進学の準備もあって静岡市で生活しています。震災後丸2年親子二人で、相馬という町で住んでいたということでなぜそういうふうにしたのか、それに至るまでの経緯などの話をさせていただければ何か伝わることがあるのかなと思います。
実は縁ありまして、私お腹に赤ちゃんがおりこの12月に出産する予定です。2月にお伺いした竹内容堂が父親でございます。今の生活の延長、南相馬というところを拠点にしているんですけれども、その町で生んで育てようという事を決めております。今回のテーマ名すごく素敵なのをつけていただいたんですけども、『放射能と暮らす』そういうことなのかなと、はっきり言葉にしていただくと「あっ、なるほど」て思ってしまうことなんですけども。またこれから新たに赤ちゃんを産んで育てて行くという決意についても、またちょっともう一回考え直さなくてはいけなかったりとか、改めて覚悟しなきゃいけなかったりとかそういったこともございましたので、そのへんのことにも話ができればいいかなと思っております。

相馬で“地の野菜をその季節に出す”レストランを経営、震災後廃業
相馬では自然食のカフェというかレストランを経営していたんですけれども、元々八丈島でも飲食店をやっておりまして、相馬市でも自然志向の身体に優しいものといいすか。時は玄米ブーム野菜ブーム、ちょっと耳慣れないかも知れないんですけどもマクロビオテックとかビーガンですとかですね、卵も牛乳もお魚ももちろんお肉も使わないとういうような食事が本来日本人の身体には合っているというような時代の風潮が来たタイミングでもありました。私の母が30年来そういう健康関連の仕事をしてたっていうのがありましてそういう家庭に育ったものですから、それが当たり前じゃないんだけどまあそういうものかなと。
実はその地産地消、その土地で採れた物をその季節に取っていくということは、すごく自然の理にかなった、生き物としてすごく自然なことなんだよという観点から、「その土地で採れたものをお野菜ですね、積極的に使ってお料理を用意してお出しする」というお店をやっていたんです。今回の原発事故のお蔭で全村避難になった飯館村ですが、地場産業にすごく力を入れてまして、『までいな村構想』といって村民たちの農業の力だとか、町づくり村づくりの力とかで、村を盛り上げていこうということを積極的にやっていた村でした。そこに友人がたくさんいまして、自然農法ですとか有機農法で頑張ってお野菜を作っている友人家族がたくさんいました。そこから野菜を仕入れて営業していた店だったんです。
なのであの震災の日、その翌日12日の日に一号機が爆発して、その何日か後に3号機2号機がおかしくなっていくということになるんですけども。私たちの仲間は、早い段階でもう飯館村から出ていたので直接の被害というのは特になかったんですけれども、もちろんそこで野菜を作り続けるということはあからさまに出来なくなったことが明確だったので、ちょっとそんな状況で“福島県で身体にいいものを、その町で出来たもので食べていきましょう”という路線の店を続けて行くのもどうなんだろう、どうなって行くのかわからないのに、ちょっとそれ決められないなと思いまして、お店をずっと休んでいる状態にしておりました。
その年の夏ですね、飲食店は6年に一度飲食店許可の営業更新という手続きがくるんですけれども、やっぱりその先々自信を持って何かを出せるという店を続けていける場所ではないだろうという結論に達しまして、そのお店は廃業することにしました。でそれからというもの私は無職になったわけです。お仕事がなくなった。何をしようとなった時に、やっぱりきっかけになるのが娘のことだったんです。

311日、娘の卒業式後カラオケパーティの引率途中、揺れる
311日あの日はうちの娘の中学校の卒業式当日でした。週末あの日は金曜日だったんですけれでも、彼女の卒業式に出るためにすべての日程を空けていた日だったんですね。なので朝から卒業式に出かけて行き、午前中で終わった卒業式が引けて大体卒業証書をこうやってかざして仲間で写真を撮ったり一通り終わって。仲のよい女子中学生たちがカラオケで盛り上がりたいと卒業のお祝いで、私の娘は幹事を引き受けてまして。もう一ヶ月も前から予約をガッチリ入れて人数と会費とかまで計算して、それはそれは楽しみにしてたカラオケパーティの予定があったんです。ただカラオケっていうのは非行の巣窟であるというのがもれずにありまして、大人の人間が一人付いてないと中学生以下は入れないてのがあるんです。うちの娘ミクっていうんですけど、「ミクのママだったら気使わなくてすむんじゃない」って話になったらしくて、白羽の矢がたったわけです。引率係として一緒に来てくれと。頼まれたら嫌といえないじゃないですか、ましてやそんなキラキラした中学生たちに。「しょうがないな~」って言って。
一応一張羅というんですか卒業式ルックをしているわけですよ、PTAでございますって言う感じの。「これでちょっとカラオケに行けないからママ、一回着替えてくる」でそのカラオケの待ち合わせの時間が230分、カラオケボックスのすぐ目の前にあるコンビニエンスストアで待ち合わせねということで、その女の子たちがみんな集まってきてる。そこに集まり始めたのを見計らって、私は一度帰って着替え、戻ってくる途中の車の中で最初の揺れが起こりました。パンクしたのかなと思うぐらいの衝撃というか、エッと何が起こったのかわからないくらいの感じでした。倒れるんじゃないかと思ったくらいの揺れでした。そのうち回り中の工場やら家から色んな音が聞こえてきて、人が溢れてきてっていう状況で、進めないんです。とにかく道路が波打ってまして、電信柱が波打ってまして、娘たちが待っているコンビニエンスストアまであと300m400mっていうくらいのところですかね、その辺の交差点のところで動けなくなってしまったんですけれども。とにかくやっぱり気になるわけです。他の親御さんたちのご心配もあるでしょうし、子供たちを集めてしまっているので、どうにか一刻も早く行きたいと思って、揺れながら蛇行しながら車を運転したのを今でも覚えてるんですけど。
そうやってたどり着いたら子どもたちも、コンビニの中からレジでこう一つずつ何か物を買おうと思って並んでいるとこで揺れたらしくて。あれだけ揺れた直後というか揺れ続けている中でも、実はあの当時の私たちには危機感がそんなになかった。まあ怖がって泣き始める子供さんもいました。でもまあそこは仲間内でね「大丈夫だよ大丈夫だよ」なんて支え合いながら、それぞれの親御さんたちがお迎えに来るのを待ってたわけなんですけれども。あの揺れの直後ですから市内は大渋滞になってました。皆さんがやっぱりご家族の所在の確認だとかで動かれたんでしょう。国道がいっぱいになっていて、車もかなりあふれてましたんで、最後の10数名集めた最後の親御さんが来てお引渡しをできるまでに1時間ちょっとあったんですね。

津波が発生。子供たちの親を待ちながら、祖母を案じる
地震が発生したのが246分、相馬市に津波が押し寄せたのが、その約一時間後だと言われてます。3時だいたいの沿岸部の時計がですね3456分とかそれくらいで止まっているんですけれども。津波の一報を聞いたのは、そのコンビニエンスストアで最後23人のお子さんが残った状態、で周りのラジオとかワンセグ、携帯電話のテレビ画像から聞いてた人たちが「津波が来たらしい、津波が来るらしい、やもう届いたらしい」という話が回り中から聞こえてきて、「あっ、津波って本当にくるんだ」ってその場で思いました。
ただね離れられないんですよ、子供さんがいらっしゃるんで。じゃあそこにおいて、じゃあ私たちはというわけにはいかないので。そのコンビニエンスストアっていうのは国道6号線という町を通っている一番大きな国道沿いにあったんですけれども、そこが沿岸部から約2km強ある場所でした。でそこから海の方に下がること500mくらいの地点まで、最終的には第2波第3波というのが届いてたみたいなんですけど。とりあえず私たちがいたところには、最終的にも津波が届いたていうことはなく済んだんですが。
その瞬間、そのお母さんたちを待ちながら心配だったことが幾つもありまして。私は生まれは沿岸部なんです。相馬市の尾浜という海水浴場なんかがあるところのすぐ近くで海岸線は家からは見えないんですけれども、民宿や何かが建ち並んでいる集落でしたので、もう直線距離で行ったら500mくらいのところに生まれた家がありました。その家を父が建て直しまして、あの被災を受けた直後が築10年でした。位置的に仕方ないんですけれども、津波で全壊ということになりまして。「スーパーシシドまで届いたらしい」ていうのが、隣のガソリンスタンドのおじさんが叫んでいる声で聞いたときに、「あっ、シシドが駄目なら家はダメだ」というのがわかるくらいの距離感だったんですね。
その日が金曜日だったので、父はお仕事で大丈夫だろうけれども祖母がおりまして、震災後に88だったので、その当時は8687のおばあちゃんでした。ちょっと気難しいというかおばあちゃんだったんですけど、彼女がとにかく心配で、確認をしに行きたいんだけれどもそこを離れられないというジレンマがちょっとしばらくありまして。その後で、実はそのコンビニエンスストアのすぐ近くに父の会社がありまして、走って確認をしに行ったんです。「今日婆ちゃんはどこにいるの」たまたまデイサービスっていうんですか、の日なんです、月曜日と金曜日だったそうです、「今日はそれに行っているから、家は誰もいない」っていうのを確認してほっとして、待ち続けることができました。

津波を逃れて一旦山側へ、相馬は電気が来ていると気づき戻る
そのあと最後の親御さんが来られた後に、私が暮らしてた家がまた別にあったんですけれども、その家が建ってるのを確認して、ちょっとボロな家だったんですよ、二階建てですごく古い家だったんですけど。あの昔ながらの造りの家っていうのは強いんですね、自然の免震構造になってるみたいで。実は梅干の瓶が1個落っこってただけで。ほんとに家具とかそういうの全然そのまま立ってて、ビックリしたのを覚えてます。私は猫を3匹飼っておりまして猫のとりあえずのご飯と猫本体3匹と娘と車に乗せ、津波は23波が大きくなるっていうことを、私も海の生まれですから聞いてましたので、とりあえず一旦はそこを離れようと思って、山側へ山側へ逃げるということをその時しました。
その日の夜暗くなって、同じようにその沿岸というか町から離れようとしていたうちの母と妹たちと、ちょっと山間の町で合流することができました。その町はもう停電で全部電気が落ちてたんですね。さあどうしようという風になった時に思い出したんです、私咄嗟にだったんですけど、どこまで逃げるかわからないので、とりあえずガソリンを満タンにしてたんですね。ガソリンが入れられたということは、相馬は電気がきてたと。とりあえず一旦相馬に戻ってみようと戻ったんです。やっぱり案の定相馬は電気がきてまして。
津波の届いた沿岸部はまた別ですけれども、私たちの住んでる相馬市の特に町うちの方は、震災の当日からテレビであの映像を見ることができていたんです。名取川っていう宮城県の川の方からこう押し寄せてくる仙台空港を襲った自衛隊のヘリコプターから撮った画像ですとか繰り返し繰り返し放映されるのを自分の家でテレビで見ておりました。
うちの父も自分が建てた家ですからやっぱり心配になって、日が明るくなるのを待ってすぐに家の確認に自衛隊さんの目を盗んで入っていったようでした。写真を撮って帰ってきて、それを見せられたんですけれども。ちょっと丈夫な鉄骨造りの家だったので、形はそのままですがやっぱりもう住めない状態だろうなと写真でもわかったくらいの被災具合でした。翌日、その翌日にも入ってとりあえずのものを取りに行くという父を一人で送り出すのは嫌で、私もついて行ったんですけども。幸か不幸かというかご近所の方のご遺体を発見するとかということもなく、とりあえずお家に行って大事なものを取って、何かしている間にまた津波の注意報というか警報がでまして、おまわりさんと自衛隊の方たちにこう促されるまま、すぐ帰ってきてしまったということがあったんですけれども。津波直後の町の様子もこの目で、見ました。ただ津波が押し寄せてくるその現場を見たわけではないので、海が怖いだとかそういうことがないんですけれども。津波のことっていうのが、とにかく信憑性というか本当に現実感がないままその日を終えたのを覚えています。
 実家がなくなったっていうのが一つ、うちの母は宮城県亘理町っていう沿岸部近くに家を建ててありまして全壊ではなかったんですが津波が届いたていうのがありました。ちょうど津波の跡の撤収作業“泥かき”、直後にボランティアの方が沢山来ていただいて一番最初に手伝っていただいた作業の中で一番多かったのが“泥かき”と呼ばれる作業、それが一番最初に始めた復旧作業とよべるものだったんだろうなと今思っています。

“エッ、原発って、なんかなるんだ!”
その日のうちに戻ってきました。テレビで見てましたというところで、原発がっていうニュースが聞こえてくるようになるんですね。「エッ原発ってなんかになるんだ」海の近くに立っているのは知ってます。私たちの町で浜通りと呼ばれる沿岸部に建ってるのは、福島第一原発と第二原発、合わせてかなりの数の原子炉があるんですけれども。私たちの町の小学生なんていうのは、社会科見学と呼ばれるもの、必ず3年生4先生の間ですねその原子力発電所に行くわけです。他に見るところないわけで、そうすると中の見学ツアーの中できれいなおねえさんがですね、キャラクターかなんかついたティッシュとか配ってくれながら、「原子炉は五重の構造になっていて、どんな揺れにもどんなことがあっても安全、絶対絶対大丈夫な造りになっているんです」というのを、ようは刷り込まれるって言ったら少し聞き捨てならないかも知れないですが、そういうふうに教わって育つわけです。
原発のある町っていうのは、私たちの住んでる町から少し南の方に下がっていて、避難の警戒区域という話をよくお耳にしたかと思うんですけれども。私の住んでる町、私のいた家が42キロの地点でした。大体小学校中学校のスポーツ少年団とか部活の大会って地区予選ってありますよね、その地区予選ってその沿岸部がみんな一緒なんですよ、ここの、ここの村というか小さい町が。立派な施設でやりたいじゃないですか、どんな体育協会も。なのでその原発がある自治体、今でいうその大熊だとか、ああいうところの施設って立派なわけです。箱ものさんがですね、煌びやかものがいっぱいあるので。小学生が使う体育館ですよ、バスケットボールコートが3面とれる大きな体育館で、日光が眩しいのでそれが全自動のブラインドで、わーって下りてくるのを子どもたちが「おーっ」て歓声を上げるくらいの、もうなんか世界大会ができるんじゃないかってくらいの規模の羨ましい体育館がありまして。原発があるとこういうお金持ちの町になるんだというのを遠まわしに教わるわけです、子どもの頃から順繰りに。で大きくなったら原発で働けるともう安定だと、安心だと。できれば東電で働いている旦那さんを見つけなさいみたいなことを言われ育ったりもするという、それが田舎のそういう原発の町を抱えた地域の現実といいますか、妄想といいますか夢なわけですね。原発というのがどこにあって、そういうふうにその子どもたちの教育といいますか社会科見学のようなツールにも使われていたのが事実で。ああいう大きな自然災害にあったときにどうにかなるだろうということを露ほども思わなかった、ですね。
ただ家の母がですね、私は4人きょうだいなんですけれども、一番下の弟が生まれた直後に、チェルノブイリの原発事故というのを経験してまして、すごく怖い思いをしたらしいですね。飛んできたとかというのをよく聞いてるみたいなんで、その時にやっぱり調べようと思って、少し勉強したそうです。母親というのはなんか不安があったり、子どもに何かあるのかもと思うと、本気で勉強したり調べものをしたりするものなんだと思うんですね。電気がきてたがためにずっと見ることができたテレビの映像、津波のことがずっと繰り返しされてたのが、途中から原発のニュースが入ってくるわけです。要は温度が下がらない、冷やせないんだと。“ベント・ベント”最近覚えた言葉の一つですけれども、その放出するのしないのっていう葛藤の話から、実はもうしてるんだとかなんとか憶測の話とか、電話は通じないんですけど、ツイッターとフェイスブックはつながっていたんですね、あの時に。
それからいろんな詳しい方たちや有識者の方たちのやり取りっていうのを見ながら、果たしてどうなんだろう。でもなんか原発ってなんか大変なことになるらしい、冷やせないとこうなるらしいということを、母はイメージができてたみたいだったんです。でも避難地域というのに、うちの町が入るってことはとりあえずその時点ではなかったので、とりあえずちょっと窓を閉めて、換気扇まわさないようにして、なんていう気を付け方をしながら、テレビの前から離れられないということが続きました。
1号機が爆発しました。止める母と心配する娘をさておき、父と沿岸部、津波の跡に入っていったりもしながら、一応マスクをしたりするくらいのことはするんですよ、教わったとおりにするんですけども。
それから程なくして、4号機のお話になった時に、3号機4号機って話になった時に、3号機の燃料だけが違うていうことを何故か母は知ってたんですね、どこかで聞いて。でそれがあった14日の日になってやっぱり一度離れようということにしました。そのときにはもう町中がパニックになってガソリンが手に入りづらいような状況になってたんですけれど。一台だけ満タンにしたまま温存しておいた車がありまして、何かあったら困ると思って。このほどなく下のほうに原発があるので、やっぱり上に上に逃げたいわけですよ。山形県側に抜けようということになりました。
とりあえずその日の夜だけ離れてみて、大丈夫だったら戻ってくればいいんだからっていうことで、娘なんか寝巻きのまま、私もパソコンももたず、すぐ戻ってこれるだろうと思って一旦離れました。ちょうどその頃温泉旅館とかそういったところが、被災者の受け入れプランのようなものを始めてくれた頃だったんです。それでも一泊三千円とかそれくらいで、豪華なお食事ではもちろんないですけど、朝と夜とつけられます、そしてお風呂に入れますというのが何よりもすごく嬉しくて、て言ったらあれなんですけど、落ち着いて過ごすことができて、その日にたどり着いたその温泉旅館には、3日間お世話になりました。

自分のモノサシで決めた最初の決断「相馬に戻る」
その温泉旅館の人の情報で、もう一回車も満タンにすることができて、その先の動きを探っていた時に、やっぱり戻らない方がいいんじゃないかという母と沿岸部のその被害状況を見てる私と、あと妹も一緒にいたんですその時に。その妹が看護学校を卒業したばっかりのタイミングだったんです、その3月に。なので一応ナイチンゲール精神というんでしょうか、何かせっかく覚えたことで沿岸部であんな惨状に今なっているので、できることがあるんじゃないかっていう意識になってしまうんですね。ただ一つだけ共通して言えたのは、うちの娘です。中学校3年生の娘のことだけは、戻すべきではないだろうっていうのはありました。
なのでそこで二手に分かれる相談をします。母が私の娘を連れて静岡、とりあえずそこに娘を送り届けてもらう。私たちはどうにか満タンにできた車で沿岸部に戻ってできることをやろうということで、二つに分かれる決断をしました。その決断の時に一番最初に放射能のことをちゃんと勉強しないといけないな、一番最初に思ったのはその時だったと今も確信しています。
 実際に自分が放射能を浴びてしまうかもしれない、そういう町に戻って何かをしようと思った時に、初めて学習しようと思いました。勉強しなきゃいけないと思いました。この先、何年何十年生生きて行くかもしれない、もう母はその時何回も言ったんですが、もう14年間ずっと1人でおりましたけれども、「もし間違って何かいいご縁があったらまた出産しなきゃいけないかもしれないんだから、とにかく放射能は」と言う母と、それはそうかもしれないけど、でもとりあえず私はそれ沿岸部を見てるというのがあるので、このままテレビの映像だけ見て、自分だけあったかいお風呂に入って、ご飯用意をしてもらってというのはいたたまれなくてしょうがなかった。娘の安全だけ守れるんだったら、私は戻りたいというのが率直な気持ちだったんですね。そのわがままを通させてもらったんですよ。だけどもその母を安心させなきゃいけないし、私自身もやっぱり秤にかけるわけではないですけれども、それをしたがために、もう一回その大きな爆発か何かがあって、もしかしたら命に関わるくらいのものっていうのになった時に、私も母一人子一人で、その責任にも苛まれながら、そこで必死に考えるわけですよ。インターネットで調べまくるわけですよ。その時にはもう既に世でいうその分断、大丈夫だという有名な方たちと、いやいやそんな危険だっていう有識者の方たちの論争が始まったんです。さあどれを信じて行こうかなと。
でも私たちが決めなきゃいけないのは、戻るか戻らないか、なわけです。となった時に、自分のものさしをそこで決めなければいけないていうことを、一番最初にしたのもその局面のときでした。相馬に戻るべきか戻らないべきか。結局戻ることに決めて、私と妹はさすがに福島県じゃなければ少しは安心かもしれないっていうことで、1階部分にだけ津波が届いてしまった宮城県亘理町ってところにありました母の家、第一原発から計算して、72キロの地点でした。その72キロある亘理町だったら、まあなんとかって母も渋々OKを出した。もうなんでしょう、サクッといいますけど、大ゲンカですよ、温泉旅館の中で。そりゃそうですよ女4人が、その原発のためにちりぢり逃げるのなんのっていうので。
静岡までたどり着くのも大変なことでした。高速道路はグチャグチャで動きませんし、新幹線ももちろんそうでした。ようやくその時にですね、代替バスっていうですか遠距離バスでどうにか人の流れをつけようというのが、ちょうど始まった頃だったんです。宿で借りたパソコンを駆使してやった時に、山形から新潟に抜けるルートっていうバスの路線を見つけて、新潟から新幹線で東京へ、東京から静岡へっていうルートならいけるってなったんです。たまたまパソコンで一生懸命こう粘ってたら、空きがでたんです。そこから静岡に行けるというルートが確保されたので、私と妹は沿岸部に抜けるというその決着が付くまでに、約20時間くらいですかね、母と私のやり取りがありました。もちろん親子ですから、私も娘がいる身で、私は娘を逃がそうとしてその相談をしてるんだから、私の母にとっては私が娘ですから同じ気持ちだったんだろうと思います。でもそれをよく受け入れてくれたなと認めてくれたなと。恥ずかしくない、その母の許しに恥ずかしくないことをしなきゃなって思っていましたし、今もそれは思ってます。

避難した娘「遠くにいて何もできないことが苦しい」
でこんな感じで二重になりました。離れて暮らす、離れてそのとりあえずの作業することになりました。と言ってもたどり着いた母の家の方も津波の被害を受けているわけですから、その復旧作業をしながらだったんですけれども、その避難所と呼ばれる場所にボランティアとして登録して、そこのボランティアをしながら母の家の復旧作業をしつつ、福島の自分の町の情報を取り入れていくって日々がですね、それから始まりました。
娘の高校の入学式は結局4月の末にずれまして、でその4月の末までうちの娘は静岡で避難生活をしたまま、そのまま置かせてもらいました。その学校が始まるってニュースを本人も、掴むわけです。そこからまた今度はですね、私と母のバトルを彷彿させるくらいの、私と娘のバトルが始まるわけです。逃がしてちょっとやっぱホッとしているって、せっかく安全なところにいてくれるんだったら、静岡の学校の方に編入させてもらうというというのも選択肢の一つだろうなと思い始めたところだったので、それをちょっと具体的に始めようかなとしてたところで。そしたら戻りたいってなる、うちの娘も。
 避難してたお子さんたちもすごく多かったと思います。ただ学校の先生の子供さんだったり、役所の職員をやってらっしゃる両親の子供さんだったりってのは、町に残らざるを得ないわけで、そういう方、そういう子達とインターネットでメールとかでやり取りをしてたみたいだったんですね、情報交換。誰々は今どこに避難している、どこどこの体育館でボランティア活動をしてきた、どこどこの家のお母さんは見つからないらしい、なんとかちゃんの家はこうらしいていう話の中のひとつに、娘がすごく仲良くしていたお友達が、その本人は卒業式が終わったあとやっぱりうちの娘のように町の方に遊びに来ていたので大丈夫だったんですけれども、彼女以外の家族がみんなお家に戻っていたがために、彼女以外のご家族が津波で亡くなってしまったって家があったんです。それを娘もその後友達とのやり取りで知ることになったんです。
そうなったときに、放射能は確かにもちろん怖かったと思います。そのことで私と母がどんだけ大喧嘩したかも知ってますし、小さな子供ではないのでインターネットも自分で調べられます、テレビの情報も自分である程度読み解くこともできると思います。そんな中でもその状況の友達のそばにいて、できることがあるんじゃないかと、遠くにいて何もできないことの方が苦しいて言い始めたんです。それは私がその山形の温泉旅館で母に言ったことと同じ言葉だったんです。「できることがあるかも知れない、生まれた町なのに。」病気になるかもしれないていう不安と、何かをできるかもしれない、ていうその欲と、どっちかっていわれたら、何かをできる方の可能性の方をやらせてみて欲しいとお願いしました。そっくりそのまま返されたんです、娘に。しまったと思いました。いないところで言えばよかったと、それはもう無理で。やっぱり同じように話し合いを繰り返して、娘と町に戻って暮らすということを要は納得させられたわけです。

『そうまかえる新聞』相馬の町で暮らすお母さんの新聞
またその先で、葛藤が始まります。避難したお母さんも同じように悩んだと思います。今も避難を続けているお母さんたちも、同じ気持ちだと思います。私は娘とあそこで生きると、娘のその希望を聞きたい、生きたいように生きる方がいいって思ってしまったがために、あそこで暮らしていくために少しでも大丈夫だと思える方法、何に気をつけて、どういう風にしていけば怖いかもしれない、不安かもしれないことをマシにできるかっていうことを探し始めるわけです。その中で色んなお母さんとつながることになりました。やっぱり町にはたくさんのお母さんが残っていて、お腹の大きな方もその時にはまだいらしゃいました。そういう人たちとの結託が始まっていくわけです。そんな中でインターネットを使える方、使えない方たくさんいらっしゃいます。避難所だとか仮設住宅というところには、インターネットの環境もありませんでした。でそういう情報をやりとりしたりコミュニティーを作っていくための取っ掛かりっていうんですかね、そういうのをやっていこうと生まれたのが、最初にお配りしました『そうまかえる新聞』っていうフリーペーパーです、その始まりでした。
そうまかえる新聞 2012年7月 第3号
 町で暮らすお母さんたちと「ぶっちゃけどうなの?」ていう話を、堂々と載せることができる自分たちの会報誌ていうのをやりたい。もちろん応援をしてくださってる方がいてのことです。会誌を作る資金、そのデザインをしてれる方、書いたこともない文章で新聞を書こうとするわけですから、それを恥ずかしくないように直してくれる方、色んな方が無償で今も協力をしてくださってます。続けていけるのもその方たちのお陰なんです。
「毎月11日の会」6月例会 -放射能と暮すこと 福島1113酒井ほずみさん町で暮らすお母さんたちと「ぶっちゃけどうなの?」ていう話を、堂々と載せることができる自分たちの会報誌ていうのをやりたい。もちろん応援をしてくださってる方がいてのことです。会誌を作る資金、そのデザインをしてれる方、書いたこともない文章で新聞を書こうと するわけですから、それを恥ずかしくないように直してくれる方、色んな方が無償で今も協力をしてくださってます。続けていけるのもその方たちのお陰なんですが。
 その時のトピックスが一番最初は 「ぶっちゃけ放射能って何?」っていうところから始まった、「サルでもわかる放射能講座」カエルさんなので、『かえる新聞』っていう名前にしたので、ケロケロのカエルがモチーフなんですけども、そのカエルでもわかる放射能って、カエルの教室ってことで始めたのが、それだったんです。もちろん詳しい先生にも間に入っていただいて、間違ったことを伝えてしまっては元も子もないので、ホントに素朴な質問をすることにしました。「洗濯物外に干して大丈夫なの?」「お布団ってみんなどうしてるの」っていうやり取り、そういう素朴なやり取りをしたくて始まったのが、その回覧板べースの『そうまかえる新聞』でした。

私達のメッセージが、異なる立場の人を傷つける
始めていくんですが、やった先にまた葛藤が生まれるんです。私たちは町に住んでいるので、町の人同士のツールだと思って作ってた新聞でした。町で生きるお母さんたちがコミュニティーを人間関係をつなげていくことができて、自分の不安だとかをぶつけたりとか、払拭することができて、これがあるとこういう話をご家庭でもできるようになって。例えば姑さんとかご主人とかと全然こう考え方が違ったり、私は野菜をここのは食べたくないんだけど、それを直接嫁の立場だから言えないと。だけども世の中ではこういう話らしいよ、て言うふうになっていくと家族共通の話題として持っていけるんじゃないかっていう布石を打っていったわけですね、こういうもので。
でその先にまたしまった、と思うことがでてくるわけです。同じ選択をした人ばかりではないので、これで逆に傷つけてしまう人もでてきてしまう。私たちはここで生きていきます。洗濯物を干しても大丈夫です。ていうアンサーをもらってその通りにすれば大丈夫らしいです、っていうような発信をしていくと、子どもたちのために、例えば色んなことを考えて、私たちときっと同じかきっとそれ以上にたくさん考えて、福島から出て生活をしようと選んだ人たちにとっては皮肉たっぷりなものに映ってしまったていう事件が発生したんです。私たちのした選択が間違いなのかもしれないという不安を植えつけてしまう。どちらかの立場に立ったものを作るって難しいんだなということに気付きました、そのときに。
なので『そうまかえる新聞』というのは、途中からお母さん新聞じゃなくなっていくんです。第4号からが、明確に違うんですけれども、ここを最後に私の名前が編集長になってるんですけども、これから先編集長がかわるんです。今も携わっているんですけれども、色んな立場の方の意見が入った新聞にしないといけない。そうじゃないと今を越えて行けないんじゃないか、っていう話になるんです。
 なので今回そのお話をここでさせていただくていうのにあたりまして、先月先々月お話をされた方の、どんなお話をなさったのかていうその内容ですね、「前もってお知らせしましょうか」とお声をかけて頂いたんです。どんな話をしたんだって伺ってしまうと、この人たちはそうだったんだけれども私はこうでしたと、打消しの話しかできなくなってしまうなって思ったので、「私は大丈夫です、なくていいです」と。私は私の話しかできないので代表できることではないんですね。残っている人たちの中にも、色んな考えで残っている人もいますし、いまだに悩みながら残っている人もいますし、もう全然考えてもいない人もいますし、決めた経緯にも、今の暮らし方も全ての方が違うので、誰も代表してっていう話ってできないのだと思います。

自分たちが変わる先に変わっていくことがある
こういうものでちょっと世に出てしまったていうのがあるので、色んなところから、特に反原発系の方たちからですね、ぜひ来て福島の方のお母さんの目線でお話をしてくださいとか、あとはデモ行進の先頭のパレードカーに乗ってマイクで掛け声をしてくれとか、「福島を返せ」みたいなやつですね、出来ればカエルの着ぐるみを着てくれって言われます。
私時々この新聞のPRのためにカエルの着ぐるみを着るんです。福島のことをなんか話していると、どうしてもまだ震災直後は泣きながら涙を流して聞いてくださる方がすごく多くて。1年目の3.11の鎮魂の集会が、国会近くの日比谷公園で大きな規模で開催されるとき、そこにも呼んでいただくことができまして、『そうまかえる新聞』をお配りできたんですね。ブースを一つ預けてもらって。そこに娘も連れて行ったんです。3.11のあの日に、あの日から1年目の日に別々に過ごすのが嫌だったっていうのが一つと、福島の中にいると福島のことを廻りのほかの方たちがどう思って下さっているのかって、どうしても感じづらい部分があるので、娘自身に感じて欲しいというのがあって。連れてでた集会がありました。一応黙祷とかがあるので、制服を着せていったんですね、娘に。福島ブースで『かえる新聞』を配っていて娘がモチーフの4コマ漫画があるのでバレバレなわけなんですよ。相馬、福島在住ナマ女子高生だっていうのがわかるんですね。そうすると、周りのお母様方とかちょっと心ある方たちが娘の手を取ってハラハラハラハラ泣いているんです、そのブースで。「あ、そうかこういう風に映ってしまうのか」って、もちろん娘も驚いてましたし。その有難さとかその思いやりとかもちろん感じたんですけれども、それでは何ももう変わらないので、なのでまあ不謹慎なくらいと思われることもあるんですけれども、もっと違う形で福島の事とか『かえる新聞』に書いていることとかが伝わっていけばいいなっていう思い、もちろんふざけたというかちょっとおちゃらけた気持ちもあってのことですけど、かえるの着ぐるみを着てこれを配るていうことをですね、去年1年間は結構色んなところでやらせてもらってました。で、そのかえるの着ぐるみでパレードカーに乗って叫んでくれとかいう話も何回ももらいました。
あとは官邸前行動、そこに福島からの声です、というのをできれば毎週きてください、っていう話ですとか。「主婦です」と、「子供もいます」と、「福島で暮らすていうことはその覚悟の上で成り立っていることなんだけども、私はあそこに住んでいる人間ていう以前に、母親としてやることもあるし、ご飯食べていかなきゃいけないんです。猫たちだっているんです。毎週脱原発のために、福島の出身だからって、かえるだからってそれをやるにはいきません」と。「世の中を変えるために、『かえる新聞』を作っているわけではないんです。自分たちが変わる先で変わっていくことがあるんだと思いますので」ていう話をして、ことごとく断ってまいりました。そういう話は。

「かもしれない」なかで、自分にとってのイエスをだし動いた
なので11個決めなきゃいけない局面になった時に、あらためてハタと気付くことっていうのが実はいまだにあります。最初の山形で、どうしてもあの沿岸部の復旧、炊き出しとそういうので何かやれることがあるかも知れないという思いから抜けることができずに、娘の心配もあるけれども、そこで戻るという決断をするために必要だった知識・学習・智恵、調べなきゃと思ったもの。それがそのまま娘に取って食われ、娘も帰りたいとなった時に、今度は、必死でほんとは説得しなきゃっていうか、どうにか思い留まらせようと思うんですけど、結局私が自分が言ったことですからね。その責任と、娘とやっぱりそれでも安心して暮らして行きたい、て思いからの勉強・学習。でその先で同じ思いをしていたお母さんたちとの共存共栄とこれを発行していったがために、その先ででてしまう壁。でなおかつそれは何かをやろうと思うと、全部についてまわりました。私にとってイエスでも私以外の人にとってはそうじゃない場合が多い、大多数の意見とそうじゃないものていうものっていうのが、境界線がわからなくなりました。
福島で暮らすことを、いまだに心配してくださる方も多いです。冒頭でお話したとおりに、赤ちゃんができましたていうお話を、ようやく先週安定期に入りまして、ちょっとずつお世話になった方にお知らせしてるんですけれども、案の定そうなると今度はまた今までとは状況が違うと、最近また、北海道に逃げて来なさいとか、どこどこに空きがあるから、なんだったらお店もできる店舗もあるから、そういうありがたいお話で、心配をかけてしまいます。それは私の判断が間違ってるというか、思っている人たちからの、愛の手なんですけれども。私のイエスは私が作ったものでしたし、私がこうしたいと思ったからそういう材料だけを取り入れた、戻りたいがために安心だといえる材料だけを取ってしまうとか、あとは娘と一緒にそこで暮らしたいがために、放射能なんが全然大丈夫だよという立場に自分がなるとか、そういうことではなくて。不安は不安なんです。だってわからないので、また津波くるかもしれないし、余震もずっとあったなかでのことでした。だからまた必死こいて逃げないといけないし。
だけど「かもしれない」ことだらけの中で、何かを決めなきゃいけなかっただけの話なんです。その時に、何が自分にとってイエスだったか、それに忠実に私は動いただけでした。同じことを娘もしました。だからすべての方がそうだったんだと思います。
で今回震災とか放射能とかわかりやすいものがあるので、福島における活動行動の起こし方だけで意見が分かれているように見えます。「分断」って福島だけで起こっているように見えますけど。正常時でも普段の生活の中でも、人間の社会ってそういうことが起こっているんだってことに気付いていくんです。私たちだけのことじゃないんだなって。例えば年金問題のことだったり、あとは尖閣諸島のことだったり、あれも必ず二面性がありますよね。イエスとノーが必ずあることなんです。明確な放射能というセンセーショナルな題材だったから、今回のことが福島のことがすごく苦しいことに思えるだけで、人って必ずそういう選択の中にいるんだと思うんです。それを「じゃあなんで、そこまでして福島じゃなかってもいいじゃないか」っていまだに言われるんですけど。確かにその人を納得させられるほど、福島がこうだからだとはっきりとしたことが言えたことがないんですが。
じゃあ自分のイエスって誰かに決めてもらうわけじゃないですよね。何かを決めなきゃいけないときにやっぱり自分に聞くしかなかった。その先で今があることだけなので。それはみんなが、私以外のすべての人たちが、もちろん先月先々月お話をして下さった人たちのイエス・ノー、その先でその人たちが決めて生きていることなので、どれがイエスでどれがノーって、誰かに決めてもらうことじゃないし、動いた先今をやっている先で、全然知らないところの人たちに材料にされてやれることでもない。だから私はそのデモ行進の先頭は嫌なんですって、言ったんです。私のイエスは反原発の人にとっては、すごくイエスのことなのかもしれなけれども、そうじゃない人にとってはすごくノーの場合だってあるんだから、私のイエスは私のもので、あなたのものじゃないので、みんながイエスと思っている人たちが、自信をもってイエスと思っている人たちが、それはそれでやっていってくれればいい、邪魔はしません。私は私の道を行きます。みんながそれをやっていることだけだと思います。ていうお話を、最近は福島に来てくれてる人には、どこかで会って何かを訴えかけてくれる人にも、幸か不幸かまた新しい赤ちゃんを得て、やっぱり説得しようと思って果敢に攻めてくれてる人たちにも、同じ話をしています。「私のイエスは私のものです」と。
今回こうやって3.11のことを忘れないために毎月11日に集まっていただいてそういうお話をしてくださったり、思いを向けていただいている場所があるっていうことを、私たちにとっても心強く思ってます。忘れられることが、やっぱり私たちには辛い。あれをきっかけに気付いたことが、ゴマンとありました。あれがなかったらこういう考え方、想いにはたどり着けなかったと思います。新しい命をもらうってことも絶対なかったと思います。
たくさん悲しいことが起こったことですから、震災があってよかったとは口が裂けてもいえませんけれども。なかったことにはもうできないことがたくさんあって、だとしたら、あれはきっかけにしていくことはできるんだと思ってます。なので、あの時点から心が決まらなかったり、今も辛かったりする人がいれば、その人なりのイエスの出し方をもしかしたらお手伝いができるかも知れない。その思いで私の場合のイエスの出し方というか、こうでしたというお話をすることを躊躇なく、これまでもこれからもしていくだけのことです。
今回貴重な場所で、またまとまりのない話で、まくしたてるように話してしまいましたけれども、私のイエスはそんなきっかけから生まれて、今も次の赤ちゃんを産むにしろ、これから何をして暮らして行くにしろ、そうやってイエスを決めて行きたいなと思っています。震災がなかった場合には戻れないので、あった場合のスペシャル最大限で、自分にとってイエスっていう形にまで辿りつけたらいいなって思っております。

■質疑応答では、「原発に対する自治体の考え方住民の考え方」「除染の実態」「放射能の影響はあるのないの」など質問があり、丁寧にこたえて頂いた。そのなかで「酒井さんは原発反対ですか?」という質問に対し次のような考えを述べられた。

 酒井さんは原発反対ですか。
酒井 えっと、ないに越したことはないだろうなと思ってます。なくなっていく方がいいなと思います。ただ今の状態、例えば“せいの~”で全国の原発を止めて、なかったことにはできないじゃないですか。止めることはとりあえずできますよ、できますけど、その中の廃棄物だったり今動いている燃料棒のことだったり、私も今回のことになって初めて知ったんですけど、もう私が産んでも産んでも産み足りないくらい、子孫の子孫の子孫の子孫になっても消えないものなんですね。それをとりあえずじゃあ今止めて、今だけ安全にという論争が正しいのか、もっと私たちってその始めたことを悔やんでもしょうがないし、いまさら責めて何とかしろって言ったところでしようがないし、多分何か方法はあると思います。
電気は最初に言いましたけど、相馬は電気がきてたんです、あの日にも。電気があったお蔭でなんとかなった事っていっぱいあるんです。火はおこせませんでしたけど、プロパンの町なのでそれは大丈夫なんですけど。例えば水がでなかった、水が出なかった地区もあったんですけど、電気があったからとりあえず炊飯器でお湯を沸かしたり、ガスがちょっと貴重だったので、とりあえず電気で使えるものは電気でやろうすることができたのは、電気があったからです。津波を受けたところでライフラインが全部途絶えた場所っていうのは、本当にもっと大変だったと思うので、それを思ってみると、じゃあ今全部原発がダメだから、原発さえなくせば、世の中は全部ハッピーになるかっていうと私はイエスだとは思わないっていうのがあります。
ただひとつ思うのは、そんなに処理に困るもので、こうなったときにあんな大惨事を起こしてしまう、あんだけ怖い思いを皆にさせるものなんだとしたら、それを動かす才覚を持って欲しいと思います。その会社なり国なりに。私たちもそこでそうやってそこで生きていこうと思ったから、勉強してどう気をつけるとかっていうのを決めてきましたって話しましたよね、その原発っていうのを原子力っていうのを使って電気をつくりたいんだったら、その途方のない努力っていうのをもうちょっとするべきだと思ってます。なので今のまま原発を続けていくっていうことに対しては、イエスかノーかって言われたら、ノーですけれども、今すぐ全部なくして廃炉、それでハッピーって事ではないことなんだとはわかってます。
 また脱原発のパレードの前で、こうやってまたカエルでやるのもまた違うなって思うんで、それで放射能がなくなったり、原発が安全になったりする魔法がかかるんならしますけど、解決にはならないと思うので、それよりは「お家で娘にご飯を作る仕事の方が、私にしかできないことだと思うので」という理由でお断りをしてたんです。
 なくなればいいと思います将来的には。新しく造るべきではないと思いますけど、今あるものをじゃあ止めて、はい解決、日本は平和になりましたってことにはならないと思います。