2013年9月10日火曜日

「毎月11日の会」6月例会 –大震災に思いをよせて~これから行動隊の仕事 – 菱倉佳代さん

スピーカー 菱倉佳代 これから行動隊理事
日時・場所 2013611日(火) 大阪市立中之島公会堂

『これから行動隊』の成り立ちと活動
私たちは8年前に『これから行動隊』という市民の会を作りました。目的は「市民が健康で未来に希望をもって生活できる社会を実現し、そういう希望のある社会を次世代に残すことを目的として活動する」というものです。会員年齢は60歳以上で、今20数名が会員になっている市民活動です。毎年いままで市民に向けて、“変えよう守山”という表題で約百名程集客のフォーラムをずっと開催してきました。8年前に、高齢者になってからも将来かかわることでもありますので医療の問題をまずフォーラムに取り上げました。そして「仕事の仕分け」というのは国会でもされましたが、あれの二年ぐらい前にすでに「仕事仕分け」について私たちのフォーラムを開きました。また、街づくりについて、そして市民の農園などと多岐にわたるテーマでフォーラムを開きました。
そのうちに私たちのグループは大きく「文化」と「農園」と「行財政」に分けて活動するようになりました。私自身は『これから行動隊』の理事をし、農園部で家庭菜園を教えてもらいながら無農薬有機栽培で野菜作りをしております。文化部では私たちの見たい映画を上映しようとDVDを借りて小さな会場で映画を見たり、3・11を機に「被害地の皆さまを忘れないよ」という発信をする無料のコンサートを企画してきました。今日20回目を終えたところです。

311後、メモリアルコンサートの開催
私の主人は元大阪フィルハーモニーのチェロ奏者で、福島市の出身です。それで3・11の後も毎日話をするのは原発の話ばっかりでね、それだけ言うんだったら何かやってみればということになって「ここから東北の皆さん忘れないよ」という発信をする音楽会をしようという事になりました。音楽家の仲間たちにバトンタッチしながら、会場はレストランで毎月11日2時~3時まで貸して頂いてそこでミニコンサート開いています。
そして昨年のフォーラムは守山市で市民提案型事業として採択され、15万円の補助金を頂いて「てんでんこフォーラムとメモリアルコンサート」二つの合わさった形のフォーラムを実現しました。当日大槌町から職員さん、滋賀県に避難して来ておられる高野正巳さん、福島二本松市から子供達親子のリフレッシュ滞在を企画された市内のご住職と三人のお話を聞きました。500円のチケットが190枚も売れて結果的には150人が聞きに来てくれ大変盛況でした。守山市では催し物、講演会などは無料で入れる、それをあえて500円を頂くということを、ずっと8回続けてやったという事は脅威的な事なんです。「てんでんこフォーラム」ですごくよかったなあと思うのは、防災意識いざという時に高野正巳さんのお話、身近に被災された方達のお話が聞けたという事、みなさんがほんとうに喜んで下さり、やったという感じがしました。そしてその後もコンサートは続けています。
コンサートは無料です。お茶を飲みに来てくださってレストランにお払いになり、そこに義援金箱を置いています。今までで40万円近いお金が集まりました。それを福島からリフレッシュに来られた子供達のために10万円使ったり、高野さんとか大槌町からこられた方にお礼の他に5万円づつ何か使って下さいと言う形でお渡ししたり、私たちグループの農園部の方たちが「たくさん夏野菜ができたから送るよ、でも僕たちはお金は無いんだよ」と言われたので、それを送料として、福島市の鳥谷野(とやの)という所に100人位の子供がいる保育園があるんですが、高野正巳さんが紹介して下さりそこに去年の7月から毎週お野菜を送ることが出来ました。そしてコンサートに来てくださった方にも、向こうから送ってくるお手紙やお写真を添えて、皆さんの義援金をこういう風に使われている事を、お見せして喜んで頂いております。そして野菜を作っている人とコンサートに来てくださったお客様と福島の子供達とが結ばれたという事が私たちにとっては、一つの形が生まれて本当によかったと思っています。今年も先日夏野菜の植え付けをしてまた送ろうと言うことになってます。

20114月福島市の家は半壊
私と主人の二人は福島市内に空っぽの家があるんです。いつも春・夏・秋と草を抜いたり、家に空気を入れるために、ずっと帰っておりました。311日のあと4月に初めて帰った時は築70年の木造の家屋ですがもう何十年も住んでないような畳に砂埃で掃除機も壊れてしまったんです。テレビはもうゴロンと床に落ちていて、食器棚はバサッと倒れていて、家の白い壁土がバサっと外れて中の竹ぐみが見えるような状況でした。
その時は福島の人達は帽子をかぶってマスクをして上着を着て、窓も開けないし外出もほとんどしないし、公園でも人影はほとんど見ないし、子供の姿をみませんでした。乳母車を押している親子はほとんど見たことがありませんでした。私も洗濯物を外に干しませんでした。その時は事情が分からないまま、草引きもいつもどおり一所懸命して、主人は葉狩りをし、市のごみの回収で全部持って行ってもらえたんです。

福島から北へ 20118月石巻
20118月に行った時は、暑いですからマスクをしている人、帽子を付けている人が大分少なくなってました。それでも真夏なのに窓は閉めきって外気を入れないそして洗濯物も外では干さない今度は庭の草引きをしてもごみとして市は回収しませんと言うことになっていたので、自分で穴を掘って埋めるしかないので草いじりはやめました。窓も閉めきって家にいると修行をしているようです。「草のある所に行かないで下さい」というので山にあるお墓へも行きませんでした。人影もまばらで、やけに飲み屋さんだけがキラキラと目立って、若い人たちはやけくそで、そこに通っているように私は見えたのです。
そして何もすることがないので二人で、JRで行けるところまで行こうと、石巻まで行くことに決めました。途中でレールが水没していたので、バスに乗り継ぎました。車窓からほんとうに凄まじい光景を見ながら石巻まで行きました。津波で跡形もない現状の中をバスは走りました。高い松の木の上にお布団が「チラチラ」と舞ってて、ああここまで水が来たんだなあと思いました。田んぼは何も草も生えていない状況でした、新しい住宅もあったんですが、形は残っているのですが、中は二階まで空っぽでという状況で、カーテンがヒラヒラと、人影もないさみしい状況でした。石巻市内は駅から飲み屋街がずっと続くんですが映画の撮影所のスタジオのように、建物はあるんですが中が空っぽで全部水で流されたように見えました。あれから5か月ですがまだ電気がきてないようで、市内の交通整理を、おまわりさんが手信号をしているという状況でした。そして陸には漁船が打ち上げられ、放置したままの状態でした。その時の死者は3,230人、不明者579人という数字が石巻の市役所に掲げてありました。

福島の家の線量測定
201111月に又帰省しました。マスクをしている人はほとんど見当たらくなり、私の住んでいる所のぐるりは、お住まいになっているのですが、仕方がないなあと言う感じで住んでおられます。でもやはり乳幼児の方はあまり見かけませんでした。外に干し物をしている人は時々見かける状況になってきました。福島市でやっと野菜などの放射能の線量を無料で測ってくれるということが始まりました。私の住んでいる所は、原発からは65km離れた所です。わが家の土はどれだけだったかというと、測定して本当にびっくりしました。土はセシウム137は9,669ベクレル(注1))、そしてセシウム134は7,533ベクレルでした。そして土を剥ぎとって除染をしないといけないのかなあとすごく思いました。市からは、買ったら10万円もするらしい放射能測定器を借り、家じゅう調べました。玄関先は1.5(注2))、次の年は1.25、今年は1.2少しずつ下がってきたなあと思います。守山の家で測ると0.05なんですけど、福島の家では0.4位あります。
注1)ベクレルとは「放射線をだす能力」のこと。電球でいえばワット数にあたるもの。一般食品のセシウム規制値は平成244月に100ベクレル/kgと定められた。
注2)単位はマイクロシーベルト/時、人体への影響の度合いを表わす。年間1ミリシーベルトが上限値と定められている。福島と守山の家の数値を年間推計すると、福島が3.2ミリシーベルト、守山は0.2ミリシーベルトとなる。
今回は、測ってもらった数値の資料を持ってきました。これは柿の木の下の数値です。一番最初に測ってもらった時は、134と137を合わせて合計して見るのですが、確かに一年半経って数値はセシウム134が半分位に減っております。そして我が家の庭のフキの葉を平成24年に測りますと合わせて41でした。今年測りましたら「検出せず」で「食べてもいいです」と言われたのですが、ちょっと気持ちがクエッションでした。民間の測定所で3,500円を出して計ってもらったら23.97という数値がでました。市では数値が低かったら、売り物でない場合は「検出ゼロ」と書いてきます。今年秋にもう一度3500円だして測ってもらおうと思っています。これがゼロでもいろんなものをいっぱい食べてたらどうなるだろうと思ったり、滋賀県から10日行くだけですので深く考えていないし、年が年ですから行く先の方が短いので「もう大丈夫や、何が起きても死ぬ方が早いわ」と思いますが、そこに生活している若い人たちは子どもに食べさせていいのか、今日は外で遊ばせていいのかな、そういうことひとつひとつ判断し決断して毎日生きて行くのがストレスだと仰っています。
20125月気仙沼
去年の5月にまた行ってきました。草引きもできない、窓も締切で洗濯も干せない、布団も干せないということで、気仙沼まで行こうということにしました。石巻よりちょっと先で大島というところで応援宿泊の情報を得て、仙台からバスに乗っていきました。気仙沼の町の中はがれきというかきれいなとこもあるんですがばさっとつぶれたのとか、まだ手つかずで「がんばろう市場」みたいのがたっているだけで港も沈下してました。船で大島にわたりました。ホテルで自転車を貸して頂いて島を一周サイクリングしました。そしたら高台の方の人たちは大丈夫だったので、「どこから来たの」て声をかけてくださったり、「お茶を飲んで行きなさい」と温かい声をかけていただきました。ここはまぐろ漁をする人たちが多くてまぐろ御殿というどのお家もすばらしいお家がたくさん建っていたようです。丘の上にはまぐろ御殿がたくさんあったのですが、港の辺はまぐろ御殿が全部なくなって和式トイレの便器だけ残っているんです。ここにもあちらにもお家があったんだなて見られました。
今回帰省の最終日、野菜を送っている鳥谷野保育園に行ってきました。園長先生と会ってきました。「子供達が守山から荷物がつきましたというと、あわーと集まって本当にいとおしく頬ずりするようにうれしく思っています。こうして頂くこともさることながら私は子供達が遠い所から応援してくれている人がいるということがどんなに教育になっているか、ありがたく思っています」と話して下さいました。プレハブがあって、「いろいろの皆さんから贈られたものが入っているんですか」と聞きましたら、「いいえあれは砂場になっているんです」外で遊べないから建築現場にあるようなプレハブに砂場があってそこで砂遊びをするようになっていました。

福島市内の除染
そして201211月に除染のことで福島市役所から書類が届き、説明会に帰りました。福島市はスポットで濃度が高いので除染をします、でいくら位かかるのか聞きましたら358億円かけますと仰っています。市役所の方は「一生懸命丁寧に屋根の上から全部させていただきす、汚染の水は全部回収します。はぎとった土は庭の隅においてビニールシートをかけます。持ち運ぶ場所ができたらもっていきます」というように説明されました。私の気持のなかでは、除染というより移すだけ、移染じゃないですかと思いました。説明会の終わり頃に、市民の方が「山の除染はどうするんですか」福島市の丁度真ん中に信夫山のという山があるんですが、そこはものすごく濃度が高いんです。せっかく除染しても山から風が吹いたらまた汚染が拡がるのでやってもやっても山から放射能がふってくるのが現状ではないかなと思いました。大きな公会堂みたいなところで昼と夜と合わせてお話しがあったんですが、お昼は70人位、夜は30人位。もういってもしようがない、なにかしてくれるんだったらやってくださいという思いで、みなさん説明会には来られないのかなと思いました。私も一生懸命測るんですけどね、測っても測ってもむなしさがあるだけで、いくらあるからと言ってなにかシュッとまいて減るという訳でないので、福島の近所の人たちも皆さん高齢の方ですので、ここで住んでるしかしょうがないなと思って生きておられるんだろうと思っています。
20135月また帰省しました。町の中はあちこち除染の風景がみられました。6/12日に東北の町のお祭りが全部福島に結集してたくさんの人が来るということで道路の除染が始まっていました。ほこりもたっていましたので今度はマスクをする人が非常に目立ちました。こころなしか親子づれが目につきました。信夫山にはすごい立派な噴水があるんですがそこは全部つぶしてコンクリートになっていました。市役所に行き除染のことを尋ねました、ある小学校の校長先生が3月に辞めて説明担当の仕事をしておられました。「3.11の当時その年から小学校の子供達は大変で、プールに入れないんです。水のなかに入るのは家のお風呂しかなかったんです。コンクリートは放射能がこびりつくというのでほんとに危険なんです。」ひとりひとりの生き方が体力が落ちていくんだなと思いました。

20135月大船渡
そして今回も私達は家の中ですることがありませんので、また北上しようと。今度は仙台から大船渡までバスがでています。気仙沼の町は昨年とほとんど変わらない状態です。よくポスターでみかける大きな魚船が町の中に乗りあがったまま、それを住んでいる人たちは「思い出すから早く取り壊して欲しい」と言われています。私は今回このありさまを目の当りに見ることができてよかったなと思いました。陸前高田、モニュメントになった奇跡の一本松の横もバスが通ったんです、沢山の観光の人たちが見に来たり、そこに手を合わして祈っている方もいました。このモニュメントは風景とマッチしない違和感のあるもので1億数千万円かけて、個人的にはもったいないなと思いました。その陸前高田の港は本当に静かです。田畑は塩水がかかって何もない、ひろいひろい状況になっていました。市役所は随分山の方に移動してたんですけど、山の方は杉を伐採してこの土を下の方にもっていかれるのかな、平地にして家を建てられるのかなと思ってその風景を見ていました。
大船渡に着きますと、大船渡の港の中央に船が座礁したまま残っていました。盛駅という駅があるんですが、その近くを歩いていましたらおばあさんに出会ったんです。「大丈夫だったんですか」と聞いたら「私の家は1階が水没してお布団も畳も全部だめになったんですよ、お隣には犬がいてその犬のことを何かしているうちに流されたんです」本当に平然と話されるのでそんなことで胸がどきっとしました。丁度三陸鉄道が少し開通したと聞きましたので、行けるところまで行こうと、吉浜というところまで行きました。小さな駅に停車する毎に見える光景は全部流されたすさまじい状況で、小さい町ですからなかなかボランティアさんが入られるれるとかどんどん回収されるとか見られない状況でした。そして「吉浜まで行く」というと大船渡の人から「あの町は一人しか死ななかった」と。随分以前の津波のあとでみんな山の方に住むと決められそうです。「一人亡くなった方は新しい農機具を買われてそれを見に行って流されたんです」と言われました。昔のいい伝えを守ってみなさん山の方へ移動され犠牲者も少なかった町もあることが分りました。福島県も海辺に行けば放射能のこと津波のことで大変な状況であることが手にとる様に見えるかもしれない、だけど入ることができません。福島市内は空気が汚染されているけれど、見る光景は昔と変わらないので、二人でできるだけ遠くに見たことのないところまで行こうと出掛けます。どの被災地を歩いても、ほんとうに親しく「どこからきたんですか」と声をかけて下さったり、ちょっとこちらから話したらお話して下さったりするので、いい経験ができたと思っています。
それで福島の原発のことを考えると、人間の私達、皆さんも国中がとてもいいことだと思って便利なものだと、安いしいいなと思って原発を推進してきて何の疑いもなく進めてきたんですけど、今のあの惨憺たる結果になって、いいと思う人はいないですね。津波のことも原発の事も立ち止まって考えないといけないんじゃないかと私は考えています。
『これから行動隊』のこれから
11日のコンサートのあとに、今日は三陸のわかめ、石巻の方と親しいので15kg送ってきたのものを『これから行動隊』の女性達と200gづつ袋詰めしながら東北の事を話し、今日のコンサートに来た人に売りました。また毎月3万円づつ釜石の魚のお惣菜パックを仕入れることにしています。それを作っている菅野食品の娘さんが私の友達で、その方は当日テレビをみて自分の家が流れてくのを見て気絶する位びっくりした、実家は何かしないと仕事をしないといけないと、プレハブをたてて始めたんだけど売り先がない、近所の人もいない、でも商売をしないと食べていけないので、それを聞いた私達は「毎月3万円づつ仕入れます」と言ったんです。主婦は食べるものだったらすぐ買って下さるので、「義援金はどこに何を使われたかわからないけど、これを買って少しでも応援していると思うとうれしいんです」と言ってくださる。今は『これから行動隊』はコンサートと物品の販売を文化部でやっています。
この会のみなさんも石巻の映画をしようと思っていらっしゃいます。私達も「生き抜く」という三陸の映画会をしようと思っています。これは毎日放送の方が2日目から現地に入って800時間収録し2時間にまとめたものです。守山立命館の高校生達が東北にボランティにいったらしくて自分たちも何かしなくちゃと駅前の商店街の一画を借りて東北の応援グッズ販売をしていた時、相談に乗り私達の物品を売ってくれました。この映画を私達の今年のフォーラムにしようと思ってたんですが、立命館の学生が一緒に映画会をやろうということになって、来年の2月に実現しようと思っています。こういうことが、『行動隊』の現状と私自身の思いです。
なかなか東北の復興と簡単に言うけど1020年はかかるし、その間に人々の毎日の生活があり仕事もしたいし、それを思えば1020年後に帰って来るだろうかなと言う気持ちがあります。そして福島については先ほど言いましたように除染というのが本当に出来るかなと、そして朝日新聞にありましたが、インド人の方が「まず日本の人がすべきことは私の国に原発を売りにくるのではなく福島東北の人たちの復興と原発の処理をどうするかという事ではないですか」と書かれていて本当にそのとおりだなと思います。
以上が私が皆さんにお伝えしたいことです。

2 件のコメント:

  1. いろんな方がいらっしゃるかと思いますが福島市では放射線のリスクを認識されつつ生活されている方もいます。
    両論併記ということで本や動画をリンクします。

    http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%82%E3%81%9A%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%80%81%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E3%83%BB%E6%B8%A1%E5%88%A9%E3%81%A7%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/4780306302/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1387105250&sr=8-1&keywords=%E6%B8%A1%E5%88%A9

    http://www.youtube.com/watch?v=1I_ZC1VGUco

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    1. とくめいさま
      コメントをありがとうございます。書籍「あの日からもずっと、福島・渡利で子育てしています」、動画『STAND UP』ハピネスプロジェクトのご紹介をありがとうございました。
      ご指摘のとおり、被災された方ひとりひとり、それぞれの葛藤と選択があると思います。
      「毎月11日の会」でも福島で子どもと生きると決められた方、家族との衝突やご自分と闘いながら関西へ避難された方、いろんな立場の方に話していただき、ひとりひとりの方の生の声に圧倒されました。リンクをありがとうございました。

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