2013年9月6日金曜日

「毎月11日の会」7月例会 -放射能と暮すこと 福島‘11~‛13-    酒井ほずみさん

スピーカー 酒井ほずみ TEAM ONE LOVE事務局 そうまかえる新聞編集部
日時・場所 2013年7月11日(木) 大阪市立中之島公会堂

相馬で娘と二人暮らし、これから先も相馬で暮らす
福島県相馬市というところから来ました酒井ほずみと言います。生まれも福島県相馬市という町です。人口4万人ほどの町なんですが、そこで生まれて小学校6年生までそこで育ちました。その後両親と仕事の都合で静岡に転居いたしまして、24歳まで静岡市におりました。そのあと東京都の八丈島という島でお仕事をさせていただいたのが3年ほど、そのあとで相馬でお店をやらせてもらうという話になりまして、相馬の町に戻ったのが27歳の年でした。今年36になります。
27歳の年に帰りましてその6年後ですね、大震災というものを体験することになるんですけれども、その先も今も変わらず福島県相馬市で生活を続けております。今18歳高校3年生になる娘がおります、震災がおきまして一時避難させたりもしたんですが、親子で色々考え話し合った結果、福島県相馬市でその先も暮らして行こうという結論を出しました。今彼女は別の事情で進学の準備もあって静岡市で生活しています。震災後丸2年親子二人で、相馬という町で住んでいたということでなぜそういうふうにしたのか、それに至るまでの経緯などの話をさせていただければ何か伝わることがあるのかなと思います。
実は縁ありまして、私お腹に赤ちゃんがおりこの12月に出産する予定です。2月にお伺いした竹内容堂が父親でございます。今の生活の延長、南相馬というところを拠点にしているんですけれども、その町で生んで育てようという事を決めております。今回のテーマ名すごく素敵なのをつけていただいたんですけども、『放射能と暮らす』そういうことなのかなと、はっきり言葉にしていただくと「あっ、なるほど」て思ってしまうことなんですけども。またこれから新たに赤ちゃんを産んで育てて行くという決意についても、またちょっともう一回考え直さなくてはいけなかったりとか、改めて覚悟しなきゃいけなかったりとかそういったこともございましたので、そのへんのことにも話ができればいいかなと思っております。

相馬で“地の野菜をその季節に出す”レストランを経営、震災後廃業
相馬では自然食のカフェというかレストランを経営していたんですけれども、元々八丈島でも飲食店をやっておりまして、相馬市でも自然志向の身体に優しいものといいすか。時は玄米ブーム野菜ブーム、ちょっと耳慣れないかも知れないんですけどもマクロビオテックとかビーガンですとかですね、卵も牛乳もお魚ももちろんお肉も使わないとういうような食事が本来日本人の身体には合っているというような時代の風潮が来たタイミングでもありました。私の母が30年来そういう健康関連の仕事をしてたっていうのがありましてそういう家庭に育ったものですから、それが当たり前じゃないんだけどまあそういうものかなと。
実はその地産地消、その土地で採れた物をその季節に取っていくということは、すごく自然の理にかなった、生き物としてすごく自然なことなんだよという観点から、「その土地で採れたものをお野菜ですね、積極的に使ってお料理を用意してお出しする」というお店をやっていたんです。今回の原発事故のお蔭で全村避難になった飯館村ですが、地場産業にすごく力を入れてまして、『までいな村構想』といって村民たちの農業の力だとか、町づくり村づくりの力とかで、村を盛り上げていこうということを積極的にやっていた村でした。そこに友人がたくさんいまして、自然農法ですとか有機農法で頑張ってお野菜を作っている友人家族がたくさんいました。そこから野菜を仕入れて営業していた店だったんです。
なのであの震災の日、その翌日12日の日に一号機が爆発して、その何日か後に3号機2号機がおかしくなっていくということになるんですけども。私たちの仲間は、早い段階でもう飯館村から出ていたので直接の被害というのは特になかったんですけれども、もちろんそこで野菜を作り続けるということはあからさまに出来なくなったことが明確だったので、ちょっとそんな状況で“福島県で身体にいいものを、その町で出来たもので食べていきましょう”という路線の店を続けて行くのもどうなんだろう、どうなって行くのかわからないのに、ちょっとそれ決められないなと思いまして、お店をずっと休んでいる状態にしておりました。
その年の夏ですね、飲食店は6年に一度飲食店許可の営業更新という手続きがくるんですけれども、やっぱりその先々自信を持って何かを出せるという店を続けていける場所ではないだろうという結論に達しまして、そのお店は廃業することにしました。でそれからというもの私は無職になったわけです。お仕事がなくなった。何をしようとなった時に、やっぱりきっかけになるのが娘のことだったんです。

311日、娘の卒業式後カラオケパーティの引率途中、揺れる
311日あの日はうちの娘の中学校の卒業式当日でした。週末あの日は金曜日だったんですけれでも、彼女の卒業式に出るためにすべての日程を空けていた日だったんですね。なので朝から卒業式に出かけて行き、午前中で終わった卒業式が引けて大体卒業証書をこうやってかざして仲間で写真を撮ったり一通り終わって。仲のよい女子中学生たちがカラオケで盛り上がりたいと卒業のお祝いで、私の娘は幹事を引き受けてまして。もう一ヶ月も前から予約をガッチリ入れて人数と会費とかまで計算して、それはそれは楽しみにしてたカラオケパーティの予定があったんです。ただカラオケっていうのは非行の巣窟であるというのがもれずにありまして、大人の人間が一人付いてないと中学生以下は入れないてのがあるんです。うちの娘ミクっていうんですけど、「ミクのママだったら気使わなくてすむんじゃない」って話になったらしくて、白羽の矢がたったわけです。引率係として一緒に来てくれと。頼まれたら嫌といえないじゃないですか、ましてやそんなキラキラした中学生たちに。「しょうがないな~」って言って。
一応一張羅というんですか卒業式ルックをしているわけですよ、PTAでございますって言う感じの。「これでちょっとカラオケに行けないからママ、一回着替えてくる」でそのカラオケの待ち合わせの時間が230分、カラオケボックスのすぐ目の前にあるコンビニエンスストアで待ち合わせねということで、その女の子たちがみんな集まってきてる。そこに集まり始めたのを見計らって、私は一度帰って着替え、戻ってくる途中の車の中で最初の揺れが起こりました。パンクしたのかなと思うぐらいの衝撃というか、エッと何が起こったのかわからないくらいの感じでした。倒れるんじゃないかと思ったくらいの揺れでした。そのうち回り中の工場やら家から色んな音が聞こえてきて、人が溢れてきてっていう状況で、進めないんです。とにかく道路が波打ってまして、電信柱が波打ってまして、娘たちが待っているコンビニエンスストアまであと300m400mっていうくらいのところですかね、その辺の交差点のところで動けなくなってしまったんですけれども。とにかくやっぱり気になるわけです。他の親御さんたちのご心配もあるでしょうし、子供たちを集めてしまっているので、どうにか一刻も早く行きたいと思って、揺れながら蛇行しながら車を運転したのを今でも覚えてるんですけど。
そうやってたどり着いたら子どもたちも、コンビニの中からレジでこう一つずつ何か物を買おうと思って並んでいるとこで揺れたらしくて。あれだけ揺れた直後というか揺れ続けている中でも、実はあの当時の私たちには危機感がそんなになかった。まあ怖がって泣き始める子供さんもいました。でもまあそこは仲間内でね「大丈夫だよ大丈夫だよ」なんて支え合いながら、それぞれの親御さんたちがお迎えに来るのを待ってたわけなんですけれども。あの揺れの直後ですから市内は大渋滞になってました。皆さんがやっぱりご家族の所在の確認だとかで動かれたんでしょう。国道がいっぱいになっていて、車もかなりあふれてましたんで、最後の10数名集めた最後の親御さんが来てお引渡しをできるまでに1時間ちょっとあったんですね。

津波が発生。子供たちの親を待ちながら、祖母を案じる
地震が発生したのが246分、相馬市に津波が押し寄せたのが、その約一時間後だと言われてます。3時だいたいの沿岸部の時計がですね3456分とかそれくらいで止まっているんですけれども。津波の一報を聞いたのは、そのコンビニエンスストアで最後23人のお子さんが残った状態、で周りのラジオとかワンセグ、携帯電話のテレビ画像から聞いてた人たちが「津波が来たらしい、津波が来るらしい、やもう届いたらしい」という話が回り中から聞こえてきて、「あっ、津波って本当にくるんだ」ってその場で思いました。
ただね離れられないんですよ、子供さんがいらっしゃるんで。じゃあそこにおいて、じゃあ私たちはというわけにはいかないので。そのコンビニエンスストアっていうのは国道6号線という町を通っている一番大きな国道沿いにあったんですけれども、そこが沿岸部から約2km強ある場所でした。でそこから海の方に下がること500mくらいの地点まで、最終的には第2波第3波というのが届いてたみたいなんですけど。とりあえず私たちがいたところには、最終的にも津波が届いたていうことはなく済んだんですが。
その瞬間、そのお母さんたちを待ちながら心配だったことが幾つもありまして。私は生まれは沿岸部なんです。相馬市の尾浜という海水浴場なんかがあるところのすぐ近くで海岸線は家からは見えないんですけれども、民宿や何かが建ち並んでいる集落でしたので、もう直線距離で行ったら500mくらいのところに生まれた家がありました。その家を父が建て直しまして、あの被災を受けた直後が築10年でした。位置的に仕方ないんですけれども、津波で全壊ということになりまして。「スーパーシシドまで届いたらしい」ていうのが、隣のガソリンスタンドのおじさんが叫んでいる声で聞いたときに、「あっ、シシドが駄目なら家はダメだ」というのがわかるくらいの距離感だったんですね。
その日が金曜日だったので、父はお仕事で大丈夫だろうけれども祖母がおりまして、震災後に88だったので、その当時は8687のおばあちゃんでした。ちょっと気難しいというかおばあちゃんだったんですけど、彼女がとにかく心配で、確認をしに行きたいんだけれどもそこを離れられないというジレンマがちょっとしばらくありまして。その後で、実はそのコンビニエンスストアのすぐ近くに父の会社がありまして、走って確認をしに行ったんです。「今日婆ちゃんはどこにいるの」たまたまデイサービスっていうんですか、の日なんです、月曜日と金曜日だったそうです、「今日はそれに行っているから、家は誰もいない」っていうのを確認してほっとして、待ち続けることができました。

津波を逃れて一旦山側へ、相馬は電気が来ていると気づき戻る
そのあと最後の親御さんが来られた後に、私が暮らしてた家がまた別にあったんですけれども、その家が建ってるのを確認して、ちょっとボロな家だったんですよ、二階建てですごく古い家だったんですけど。あの昔ながらの造りの家っていうのは強いんですね、自然の免震構造になってるみたいで。実は梅干の瓶が1個落っこってただけで。ほんとに家具とかそういうの全然そのまま立ってて、ビックリしたのを覚えてます。私は猫を3匹飼っておりまして猫のとりあえずのご飯と猫本体3匹と娘と車に乗せ、津波は23波が大きくなるっていうことを、私も海の生まれですから聞いてましたので、とりあえず一旦はそこを離れようと思って、山側へ山側へ逃げるということをその時しました。
その日の夜暗くなって、同じようにその沿岸というか町から離れようとしていたうちの母と妹たちと、ちょっと山間の町で合流することができました。その町はもう停電で全部電気が落ちてたんですね。さあどうしようという風になった時に思い出したんです、私咄嗟にだったんですけど、どこまで逃げるかわからないので、とりあえずガソリンを満タンにしてたんですね。ガソリンが入れられたということは、相馬は電気がきてたと。とりあえず一旦相馬に戻ってみようと戻ったんです。やっぱり案の定相馬は電気がきてまして。
津波の届いた沿岸部はまた別ですけれども、私たちの住んでる相馬市の特に町うちの方は、震災の当日からテレビであの映像を見ることができていたんです。名取川っていう宮城県の川の方からこう押し寄せてくる仙台空港を襲った自衛隊のヘリコプターから撮った画像ですとか繰り返し繰り返し放映されるのを自分の家でテレビで見ておりました。
うちの父も自分が建てた家ですからやっぱり心配になって、日が明るくなるのを待ってすぐに家の確認に自衛隊さんの目を盗んで入っていったようでした。写真を撮って帰ってきて、それを見せられたんですけれども。ちょっと丈夫な鉄骨造りの家だったので、形はそのままですがやっぱりもう住めない状態だろうなと写真でもわかったくらいの被災具合でした。翌日、その翌日にも入ってとりあえずのものを取りに行くという父を一人で送り出すのは嫌で、私もついて行ったんですけども。幸か不幸かというかご近所の方のご遺体を発見するとかということもなく、とりあえずお家に行って大事なものを取って、何かしている間にまた津波の注意報というか警報がでまして、おまわりさんと自衛隊の方たちにこう促されるまま、すぐ帰ってきてしまったということがあったんですけれども。津波直後の町の様子もこの目で、見ました。ただ津波が押し寄せてくるその現場を見たわけではないので、海が怖いだとかそういうことがないんですけれども。津波のことっていうのが、とにかく信憑性というか本当に現実感がないままその日を終えたのを覚えています。
 実家がなくなったっていうのが一つ、うちの母は宮城県亘理町っていう沿岸部近くに家を建ててありまして全壊ではなかったんですが津波が届いたていうのがありました。ちょうど津波の跡の撤収作業“泥かき”、直後にボランティアの方が沢山来ていただいて一番最初に手伝っていただいた作業の中で一番多かったのが“泥かき”と呼ばれる作業、それが一番最初に始めた復旧作業とよべるものだったんだろうなと今思っています。

“エッ、原発って、なんかなるんだ!”
その日のうちに戻ってきました。テレビで見てましたというところで、原発がっていうニュースが聞こえてくるようになるんですね。「エッ原発ってなんかになるんだ」海の近くに立っているのは知ってます。私たちの町で浜通りと呼ばれる沿岸部に建ってるのは、福島第一原発と第二原発、合わせてかなりの数の原子炉があるんですけれども。私たちの町の小学生なんていうのは、社会科見学と呼ばれるもの、必ず3年生4先生の間ですねその原子力発電所に行くわけです。他に見るところないわけで、そうすると中の見学ツアーの中できれいなおねえさんがですね、キャラクターかなんかついたティッシュとか配ってくれながら、「原子炉は五重の構造になっていて、どんな揺れにもどんなことがあっても安全、絶対絶対大丈夫な造りになっているんです」というのを、ようは刷り込まれるって言ったら少し聞き捨てならないかも知れないですが、そういうふうに教わって育つわけです。
原発のある町っていうのは、私たちの住んでる町から少し南の方に下がっていて、避難の警戒区域という話をよくお耳にしたかと思うんですけれども。私の住んでる町、私のいた家が42キロの地点でした。大体小学校中学校のスポーツ少年団とか部活の大会って地区予選ってありますよね、その地区予選ってその沿岸部がみんな一緒なんですよ、ここの、ここの村というか小さい町が。立派な施設でやりたいじゃないですか、どんな体育協会も。なのでその原発がある自治体、今でいうその大熊だとか、ああいうところの施設って立派なわけです。箱ものさんがですね、煌びやかものがいっぱいあるので。小学生が使う体育館ですよ、バスケットボールコートが3面とれる大きな体育館で、日光が眩しいのでそれが全自動のブラインドで、わーって下りてくるのを子どもたちが「おーっ」て歓声を上げるくらいの、もうなんか世界大会ができるんじゃないかってくらいの規模の羨ましい体育館がありまして。原発があるとこういうお金持ちの町になるんだというのを遠まわしに教わるわけです、子どもの頃から順繰りに。で大きくなったら原発で働けるともう安定だと、安心だと。できれば東電で働いている旦那さんを見つけなさいみたいなことを言われ育ったりもするという、それが田舎のそういう原発の町を抱えた地域の現実といいますか、妄想といいますか夢なわけですね。原発というのがどこにあって、そういうふうにその子どもたちの教育といいますか社会科見学のようなツールにも使われていたのが事実で。ああいう大きな自然災害にあったときにどうにかなるだろうということを露ほども思わなかった、ですね。
ただ家の母がですね、私は4人きょうだいなんですけれども、一番下の弟が生まれた直後に、チェルノブイリの原発事故というのを経験してまして、すごく怖い思いをしたらしいですね。飛んできたとかというのをよく聞いてるみたいなんで、その時にやっぱり調べようと思って、少し勉強したそうです。母親というのはなんか不安があったり、子どもに何かあるのかもと思うと、本気で勉強したり調べものをしたりするものなんだと思うんですね。電気がきてたがためにずっと見ることができたテレビの映像、津波のことがずっと繰り返しされてたのが、途中から原発のニュースが入ってくるわけです。要は温度が下がらない、冷やせないんだと。“ベント・ベント”最近覚えた言葉の一つですけれども、その放出するのしないのっていう葛藤の話から、実はもうしてるんだとかなんとか憶測の話とか、電話は通じないんですけど、ツイッターとフェイスブックはつながっていたんですね、あの時に。
それからいろんな詳しい方たちや有識者の方たちのやり取りっていうのを見ながら、果たしてどうなんだろう。でもなんか原発ってなんか大変なことになるらしい、冷やせないとこうなるらしいということを、母はイメージができてたみたいだったんです。でも避難地域というのに、うちの町が入るってことはとりあえずその時点ではなかったので、とりあえずちょっと窓を閉めて、換気扇まわさないようにして、なんていう気を付け方をしながら、テレビの前から離れられないということが続きました。
1号機が爆発しました。止める母と心配する娘をさておき、父と沿岸部、津波の跡に入っていったりもしながら、一応マスクをしたりするくらいのことはするんですよ、教わったとおりにするんですけども。
それから程なくして、4号機のお話になった時に、3号機4号機って話になった時に、3号機の燃料だけが違うていうことを何故か母は知ってたんですね、どこかで聞いて。でそれがあった14日の日になってやっぱり一度離れようということにしました。そのときにはもう町中がパニックになってガソリンが手に入りづらいような状況になってたんですけれど。一台だけ満タンにしたまま温存しておいた車がありまして、何かあったら困ると思って。このほどなく下のほうに原発があるので、やっぱり上に上に逃げたいわけですよ。山形県側に抜けようということになりました。
とりあえずその日の夜だけ離れてみて、大丈夫だったら戻ってくればいいんだからっていうことで、娘なんか寝巻きのまま、私もパソコンももたず、すぐ戻ってこれるだろうと思って一旦離れました。ちょうどその頃温泉旅館とかそういったところが、被災者の受け入れプランのようなものを始めてくれた頃だったんです。それでも一泊三千円とかそれくらいで、豪華なお食事ではもちろんないですけど、朝と夜とつけられます、そしてお風呂に入れますというのが何よりもすごく嬉しくて、て言ったらあれなんですけど、落ち着いて過ごすことができて、その日にたどり着いたその温泉旅館には、3日間お世話になりました。

自分のモノサシで決めた最初の決断「相馬に戻る」
その温泉旅館の人の情報で、もう一回車も満タンにすることができて、その先の動きを探っていた時に、やっぱり戻らない方がいいんじゃないかという母と沿岸部のその被害状況を見てる私と、あと妹も一緒にいたんですその時に。その妹が看護学校を卒業したばっかりのタイミングだったんです、その3月に。なので一応ナイチンゲール精神というんでしょうか、何かせっかく覚えたことで沿岸部であんな惨状に今なっているので、できることがあるんじゃないかっていう意識になってしまうんですね。ただ一つだけ共通して言えたのは、うちの娘です。中学校3年生の娘のことだけは、戻すべきではないだろうっていうのはありました。
なのでそこで二手に分かれる相談をします。母が私の娘を連れて静岡、とりあえずそこに娘を送り届けてもらう。私たちはどうにか満タンにできた車で沿岸部に戻ってできることをやろうということで、二つに分かれる決断をしました。その決断の時に一番最初に放射能のことをちゃんと勉強しないといけないな、一番最初に思ったのはその時だったと今も確信しています。
 実際に自分が放射能を浴びてしまうかもしれない、そういう町に戻って何かをしようと思った時に、初めて学習しようと思いました。勉強しなきゃいけないと思いました。この先、何年何十年生生きて行くかもしれない、もう母はその時何回も言ったんですが、もう14年間ずっと1人でおりましたけれども、「もし間違って何かいいご縁があったらまた出産しなきゃいけないかもしれないんだから、とにかく放射能は」と言う母と、それはそうかもしれないけど、でもとりあえず私はそれ沿岸部を見てるというのがあるので、このままテレビの映像だけ見て、自分だけあったかいお風呂に入って、ご飯用意をしてもらってというのはいたたまれなくてしょうがなかった。娘の安全だけ守れるんだったら、私は戻りたいというのが率直な気持ちだったんですね。そのわがままを通させてもらったんですよ。だけどもその母を安心させなきゃいけないし、私自身もやっぱり秤にかけるわけではないですけれども、それをしたがために、もう一回その大きな爆発か何かがあって、もしかしたら命に関わるくらいのものっていうのになった時に、私も母一人子一人で、その責任にも苛まれながら、そこで必死に考えるわけですよ。インターネットで調べまくるわけですよ。その時にはもう既に世でいうその分断、大丈夫だという有名な方たちと、いやいやそんな危険だっていう有識者の方たちの論争が始まったんです。さあどれを信じて行こうかなと。
でも私たちが決めなきゃいけないのは、戻るか戻らないか、なわけです。となった時に、自分のものさしをそこで決めなければいけないていうことを、一番最初にしたのもその局面のときでした。相馬に戻るべきか戻らないべきか。結局戻ることに決めて、私と妹はさすがに福島県じゃなければ少しは安心かもしれないっていうことで、1階部分にだけ津波が届いてしまった宮城県亘理町ってところにありました母の家、第一原発から計算して、72キロの地点でした。その72キロある亘理町だったら、まあなんとかって母も渋々OKを出した。もうなんでしょう、サクッといいますけど、大ゲンカですよ、温泉旅館の中で。そりゃそうですよ女4人が、その原発のためにちりぢり逃げるのなんのっていうので。
静岡までたどり着くのも大変なことでした。高速道路はグチャグチャで動きませんし、新幹線ももちろんそうでした。ようやくその時にですね、代替バスっていうですか遠距離バスでどうにか人の流れをつけようというのが、ちょうど始まった頃だったんです。宿で借りたパソコンを駆使してやった時に、山形から新潟に抜けるルートっていうバスの路線を見つけて、新潟から新幹線で東京へ、東京から静岡へっていうルートならいけるってなったんです。たまたまパソコンで一生懸命こう粘ってたら、空きがでたんです。そこから静岡に行けるというルートが確保されたので、私と妹は沿岸部に抜けるというその決着が付くまでに、約20時間くらいですかね、母と私のやり取りがありました。もちろん親子ですから、私も娘がいる身で、私は娘を逃がそうとしてその相談をしてるんだから、私の母にとっては私が娘ですから同じ気持ちだったんだろうと思います。でもそれをよく受け入れてくれたなと認めてくれたなと。恥ずかしくない、その母の許しに恥ずかしくないことをしなきゃなって思っていましたし、今もそれは思ってます。

避難した娘「遠くにいて何もできないことが苦しい」
でこんな感じで二重になりました。離れて暮らす、離れてそのとりあえずの作業することになりました。と言ってもたどり着いた母の家の方も津波の被害を受けているわけですから、その復旧作業をしながらだったんですけれども、その避難所と呼ばれる場所にボランティアとして登録して、そこのボランティアをしながら母の家の復旧作業をしつつ、福島の自分の町の情報を取り入れていくって日々がですね、それから始まりました。
娘の高校の入学式は結局4月の末にずれまして、でその4月の末までうちの娘は静岡で避難生活をしたまま、そのまま置かせてもらいました。その学校が始まるってニュースを本人も、掴むわけです。そこからまた今度はですね、私と母のバトルを彷彿させるくらいの、私と娘のバトルが始まるわけです。逃がしてちょっとやっぱホッとしているって、せっかく安全なところにいてくれるんだったら、静岡の学校の方に編入させてもらうというというのも選択肢の一つだろうなと思い始めたところだったので、それをちょっと具体的に始めようかなとしてたところで。そしたら戻りたいってなる、うちの娘も。
 避難してたお子さんたちもすごく多かったと思います。ただ学校の先生の子供さんだったり、役所の職員をやってらっしゃる両親の子供さんだったりってのは、町に残らざるを得ないわけで、そういう方、そういう子達とインターネットでメールとかでやり取りをしてたみたいだったんですね、情報交換。誰々は今どこに避難している、どこどこの体育館でボランティア活動をしてきた、どこどこの家のお母さんは見つからないらしい、なんとかちゃんの家はこうらしいていう話の中のひとつに、娘がすごく仲良くしていたお友達が、その本人は卒業式が終わったあとやっぱりうちの娘のように町の方に遊びに来ていたので大丈夫だったんですけれども、彼女以外の家族がみんなお家に戻っていたがために、彼女以外のご家族が津波で亡くなってしまったって家があったんです。それを娘もその後友達とのやり取りで知ることになったんです。
そうなったときに、放射能は確かにもちろん怖かったと思います。そのことで私と母がどんだけ大喧嘩したかも知ってますし、小さな子供ではないのでインターネットも自分で調べられます、テレビの情報も自分である程度読み解くこともできると思います。そんな中でもその状況の友達のそばにいて、できることがあるんじゃないかと、遠くにいて何もできないことの方が苦しいて言い始めたんです。それは私がその山形の温泉旅館で母に言ったことと同じ言葉だったんです。「できることがあるかも知れない、生まれた町なのに。」病気になるかもしれないていう不安と、何かをできるかもしれない、ていうその欲と、どっちかっていわれたら、何かをできる方の可能性の方をやらせてみて欲しいとお願いしました。そっくりそのまま返されたんです、娘に。しまったと思いました。いないところで言えばよかったと、それはもう無理で。やっぱり同じように話し合いを繰り返して、娘と町に戻って暮らすということを要は納得させられたわけです。

『そうまかえる新聞』相馬の町で暮らすお母さんの新聞
またその先で、葛藤が始まります。避難したお母さんも同じように悩んだと思います。今も避難を続けているお母さんたちも、同じ気持ちだと思います。私は娘とあそこで生きると、娘のその希望を聞きたい、生きたいように生きる方がいいって思ってしまったがために、あそこで暮らしていくために少しでも大丈夫だと思える方法、何に気をつけて、どういう風にしていけば怖いかもしれない、不安かもしれないことをマシにできるかっていうことを探し始めるわけです。その中で色んなお母さんとつながることになりました。やっぱり町にはたくさんのお母さんが残っていて、お腹の大きな方もその時にはまだいらしゃいました。そういう人たちとの結託が始まっていくわけです。そんな中でインターネットを使える方、使えない方たくさんいらっしゃいます。避難所だとか仮設住宅というところには、インターネットの環境もありませんでした。でそういう情報をやりとりしたりコミュニティーを作っていくための取っ掛かりっていうんですかね、そういうのをやっていこうと生まれたのが、最初にお配りしました『そうまかえる新聞』っていうフリーペーパーです、その始まりでした。
そうまかえる新聞 2012年7月 第3号
 町で暮らすお母さんたちと「ぶっちゃけどうなの?」ていう話を、堂々と載せることができる自分たちの会報誌ていうのをやりたい。もちろん応援をしてくださってる方がいてのことです。会誌を作る資金、そのデザインをしてれる方、書いたこともない文章で新聞を書こうとするわけですから、それを恥ずかしくないように直してくれる方、色んな方が無償で今も協力をしてくださってます。続けていけるのもその方たちのお陰なんです。
「毎月11日の会」6月例会 -放射能と暮すこと 福島1113酒井ほずみさん町で暮らすお母さんたちと「ぶっちゃけどうなの?」ていう話を、堂々と載せることができる自分たちの会報誌ていうのをやりたい。もちろん応援をしてくださってる方がいてのことです。会誌を作る資金、そのデザインをしてれる方、書いたこともない文章で新聞を書こうと するわけですから、それを恥ずかしくないように直してくれる方、色んな方が無償で今も協力をしてくださってます。続けていけるのもその方たちのお陰なんですが。
 その時のトピックスが一番最初は 「ぶっちゃけ放射能って何?」っていうところから始まった、「サルでもわかる放射能講座」カエルさんなので、『かえる新聞』っていう名前にしたので、ケロケロのカエルがモチーフなんですけども、そのカエルでもわかる放射能って、カエルの教室ってことで始めたのが、それだったんです。もちろん詳しい先生にも間に入っていただいて、間違ったことを伝えてしまっては元も子もないので、ホントに素朴な質問をすることにしました。「洗濯物外に干して大丈夫なの?」「お布団ってみんなどうしてるの」っていうやり取り、そういう素朴なやり取りをしたくて始まったのが、その回覧板べースの『そうまかえる新聞』でした。

私達のメッセージが、異なる立場の人を傷つける
始めていくんですが、やった先にまた葛藤が生まれるんです。私たちは町に住んでいるので、町の人同士のツールだと思って作ってた新聞でした。町で生きるお母さんたちがコミュニティーを人間関係をつなげていくことができて、自分の不安だとかをぶつけたりとか、払拭することができて、これがあるとこういう話をご家庭でもできるようになって。例えば姑さんとかご主人とかと全然こう考え方が違ったり、私は野菜をここのは食べたくないんだけど、それを直接嫁の立場だから言えないと。だけども世の中ではこういう話らしいよ、て言うふうになっていくと家族共通の話題として持っていけるんじゃないかっていう布石を打っていったわけですね、こういうもので。
でその先にまたしまった、と思うことがでてくるわけです。同じ選択をした人ばかりではないので、これで逆に傷つけてしまう人もでてきてしまう。私たちはここで生きていきます。洗濯物を干しても大丈夫です。ていうアンサーをもらってその通りにすれば大丈夫らしいです、っていうような発信をしていくと、子どもたちのために、例えば色んなことを考えて、私たちときっと同じかきっとそれ以上にたくさん考えて、福島から出て生活をしようと選んだ人たちにとっては皮肉たっぷりなものに映ってしまったていう事件が発生したんです。私たちのした選択が間違いなのかもしれないという不安を植えつけてしまう。どちらかの立場に立ったものを作るって難しいんだなということに気付きました、そのときに。
なので『そうまかえる新聞』というのは、途中からお母さん新聞じゃなくなっていくんです。第4号からが、明確に違うんですけれども、ここを最後に私の名前が編集長になってるんですけども、これから先編集長がかわるんです。今も携わっているんですけれども、色んな立場の方の意見が入った新聞にしないといけない。そうじゃないと今を越えて行けないんじゃないか、っていう話になるんです。
 なので今回そのお話をここでさせていただくていうのにあたりまして、先月先々月お話をされた方の、どんなお話をなさったのかていうその内容ですね、「前もってお知らせしましょうか」とお声をかけて頂いたんです。どんな話をしたんだって伺ってしまうと、この人たちはそうだったんだけれども私はこうでしたと、打消しの話しかできなくなってしまうなって思ったので、「私は大丈夫です、なくていいです」と。私は私の話しかできないので代表できることではないんですね。残っている人たちの中にも、色んな考えで残っている人もいますし、いまだに悩みながら残っている人もいますし、もう全然考えてもいない人もいますし、決めた経緯にも、今の暮らし方も全ての方が違うので、誰も代表してっていう話ってできないのだと思います。

自分たちが変わる先に変わっていくことがある
こういうものでちょっと世に出てしまったていうのがあるので、色んなところから、特に反原発系の方たちからですね、ぜひ来て福島の方のお母さんの目線でお話をしてくださいとか、あとはデモ行進の先頭のパレードカーに乗ってマイクで掛け声をしてくれとか、「福島を返せ」みたいなやつですね、出来ればカエルの着ぐるみを着てくれって言われます。
私時々この新聞のPRのためにカエルの着ぐるみを着るんです。福島のことをなんか話していると、どうしてもまだ震災直後は泣きながら涙を流して聞いてくださる方がすごく多くて。1年目の3.11の鎮魂の集会が、国会近くの日比谷公園で大きな規模で開催されるとき、そこにも呼んでいただくことができまして、『そうまかえる新聞』をお配りできたんですね。ブースを一つ預けてもらって。そこに娘も連れて行ったんです。3.11のあの日に、あの日から1年目の日に別々に過ごすのが嫌だったっていうのが一つと、福島の中にいると福島のことを廻りのほかの方たちがどう思って下さっているのかって、どうしても感じづらい部分があるので、娘自身に感じて欲しいというのがあって。連れてでた集会がありました。一応黙祷とかがあるので、制服を着せていったんですね、娘に。福島ブースで『かえる新聞』を配っていて娘がモチーフの4コマ漫画があるのでバレバレなわけなんですよ。相馬、福島在住ナマ女子高生だっていうのがわかるんですね。そうすると、周りのお母様方とかちょっと心ある方たちが娘の手を取ってハラハラハラハラ泣いているんです、そのブースで。「あ、そうかこういう風に映ってしまうのか」って、もちろん娘も驚いてましたし。その有難さとかその思いやりとかもちろん感じたんですけれども、それでは何ももう変わらないので、なのでまあ不謹慎なくらいと思われることもあるんですけれども、もっと違う形で福島の事とか『かえる新聞』に書いていることとかが伝わっていけばいいなっていう思い、もちろんふざけたというかちょっとおちゃらけた気持ちもあってのことですけど、かえるの着ぐるみを着てこれを配るていうことをですね、去年1年間は結構色んなところでやらせてもらってました。で、そのかえるの着ぐるみでパレードカーに乗って叫んでくれとかいう話も何回ももらいました。
あとは官邸前行動、そこに福島からの声です、というのをできれば毎週きてください、っていう話ですとか。「主婦です」と、「子供もいます」と、「福島で暮らすていうことはその覚悟の上で成り立っていることなんだけども、私はあそこに住んでいる人間ていう以前に、母親としてやることもあるし、ご飯食べていかなきゃいけないんです。猫たちだっているんです。毎週脱原発のために、福島の出身だからって、かえるだからってそれをやるにはいきません」と。「世の中を変えるために、『かえる新聞』を作っているわけではないんです。自分たちが変わる先で変わっていくことがあるんだと思いますので」ていう話をして、ことごとく断ってまいりました。そういう話は。

「かもしれない」なかで、自分にとってのイエスをだし動いた
なので11個決めなきゃいけない局面になった時に、あらためてハタと気付くことっていうのが実はいまだにあります。最初の山形で、どうしてもあの沿岸部の復旧、炊き出しとそういうので何かやれることがあるかも知れないという思いから抜けることができずに、娘の心配もあるけれども、そこで戻るという決断をするために必要だった知識・学習・智恵、調べなきゃと思ったもの。それがそのまま娘に取って食われ、娘も帰りたいとなった時に、今度は、必死でほんとは説得しなきゃっていうか、どうにか思い留まらせようと思うんですけど、結局私が自分が言ったことですからね。その責任と、娘とやっぱりそれでも安心して暮らして行きたい、て思いからの勉強・学習。でその先で同じ思いをしていたお母さんたちとの共存共栄とこれを発行していったがために、その先ででてしまう壁。でなおかつそれは何かをやろうと思うと、全部についてまわりました。私にとってイエスでも私以外の人にとってはそうじゃない場合が多い、大多数の意見とそうじゃないものていうものっていうのが、境界線がわからなくなりました。
福島で暮らすことを、いまだに心配してくださる方も多いです。冒頭でお話したとおりに、赤ちゃんができましたていうお話を、ようやく先週安定期に入りまして、ちょっとずつお世話になった方にお知らせしてるんですけれども、案の定そうなると今度はまた今までとは状況が違うと、最近また、北海道に逃げて来なさいとか、どこどこに空きがあるから、なんだったらお店もできる店舗もあるから、そういうありがたいお話で、心配をかけてしまいます。それは私の判断が間違ってるというか、思っている人たちからの、愛の手なんですけれども。私のイエスは私が作ったものでしたし、私がこうしたいと思ったからそういう材料だけを取り入れた、戻りたいがために安心だといえる材料だけを取ってしまうとか、あとは娘と一緒にそこで暮らしたいがために、放射能なんが全然大丈夫だよという立場に自分がなるとか、そういうことではなくて。不安は不安なんです。だってわからないので、また津波くるかもしれないし、余震もずっとあったなかでのことでした。だからまた必死こいて逃げないといけないし。
だけど「かもしれない」ことだらけの中で、何かを決めなきゃいけなかっただけの話なんです。その時に、何が自分にとってイエスだったか、それに忠実に私は動いただけでした。同じことを娘もしました。だからすべての方がそうだったんだと思います。
で今回震災とか放射能とかわかりやすいものがあるので、福島における活動行動の起こし方だけで意見が分かれているように見えます。「分断」って福島だけで起こっているように見えますけど。正常時でも普段の生活の中でも、人間の社会ってそういうことが起こっているんだってことに気付いていくんです。私たちだけのことじゃないんだなって。例えば年金問題のことだったり、あとは尖閣諸島のことだったり、あれも必ず二面性がありますよね。イエスとノーが必ずあることなんです。明確な放射能というセンセーショナルな題材だったから、今回のことが福島のことがすごく苦しいことに思えるだけで、人って必ずそういう選択の中にいるんだと思うんです。それを「じゃあなんで、そこまでして福島じゃなかってもいいじゃないか」っていまだに言われるんですけど。確かにその人を納得させられるほど、福島がこうだからだとはっきりとしたことが言えたことがないんですが。
じゃあ自分のイエスって誰かに決めてもらうわけじゃないですよね。何かを決めなきゃいけないときにやっぱり自分に聞くしかなかった。その先で今があることだけなので。それはみんなが、私以外のすべての人たちが、もちろん先月先々月お話をして下さった人たちのイエス・ノー、その先でその人たちが決めて生きていることなので、どれがイエスでどれがノーって、誰かに決めてもらうことじゃないし、動いた先今をやっている先で、全然知らないところの人たちに材料にされてやれることでもない。だから私はそのデモ行進の先頭は嫌なんですって、言ったんです。私のイエスは反原発の人にとっては、すごくイエスのことなのかもしれなけれども、そうじゃない人にとってはすごくノーの場合だってあるんだから、私のイエスは私のもので、あなたのものじゃないので、みんながイエスと思っている人たちが、自信をもってイエスと思っている人たちが、それはそれでやっていってくれればいい、邪魔はしません。私は私の道を行きます。みんながそれをやっていることだけだと思います。ていうお話を、最近は福島に来てくれてる人には、どこかで会って何かを訴えかけてくれる人にも、幸か不幸かまた新しい赤ちゃんを得て、やっぱり説得しようと思って果敢に攻めてくれてる人たちにも、同じ話をしています。「私のイエスは私のものです」と。
今回こうやって3.11のことを忘れないために毎月11日に集まっていただいてそういうお話をしてくださったり、思いを向けていただいている場所があるっていうことを、私たちにとっても心強く思ってます。忘れられることが、やっぱり私たちには辛い。あれをきっかけに気付いたことが、ゴマンとありました。あれがなかったらこういう考え方、想いにはたどり着けなかったと思います。新しい命をもらうってことも絶対なかったと思います。
たくさん悲しいことが起こったことですから、震災があってよかったとは口が裂けてもいえませんけれども。なかったことにはもうできないことがたくさんあって、だとしたら、あれはきっかけにしていくことはできるんだと思ってます。なので、あの時点から心が決まらなかったり、今も辛かったりする人がいれば、その人なりのイエスの出し方をもしかしたらお手伝いができるかも知れない。その思いで私の場合のイエスの出し方というか、こうでしたというお話をすることを躊躇なく、これまでもこれからもしていくだけのことです。
今回貴重な場所で、またまとまりのない話で、まくしたてるように話してしまいましたけれども、私のイエスはそんなきっかけから生まれて、今も次の赤ちゃんを産むにしろ、これから何をして暮らして行くにしろ、そうやってイエスを決めて行きたいなと思っています。震災がなかった場合には戻れないので、あった場合のスペシャル最大限で、自分にとってイエスっていう形にまで辿りつけたらいいなって思っております。

■質疑応答では、「原発に対する自治体の考え方住民の考え方」「除染の実態」「放射能の影響はあるのないの」など質問があり、丁寧にこたえて頂いた。そのなかで「酒井さんは原発反対ですか?」という質問に対し次のような考えを述べられた。

 酒井さんは原発反対ですか。
酒井 えっと、ないに越したことはないだろうなと思ってます。なくなっていく方がいいなと思います。ただ今の状態、例えば“せいの~”で全国の原発を止めて、なかったことにはできないじゃないですか。止めることはとりあえずできますよ、できますけど、その中の廃棄物だったり今動いている燃料棒のことだったり、私も今回のことになって初めて知ったんですけど、もう私が産んでも産んでも産み足りないくらい、子孫の子孫の子孫の子孫になっても消えないものなんですね。それをとりあえずじゃあ今止めて、今だけ安全にという論争が正しいのか、もっと私たちってその始めたことを悔やんでもしょうがないし、いまさら責めて何とかしろって言ったところでしようがないし、多分何か方法はあると思います。
電気は最初に言いましたけど、相馬は電気がきてたんです、あの日にも。電気があったお蔭でなんとかなった事っていっぱいあるんです。火はおこせませんでしたけど、プロパンの町なのでそれは大丈夫なんですけど。例えば水がでなかった、水が出なかった地区もあったんですけど、電気があったからとりあえず炊飯器でお湯を沸かしたり、ガスがちょっと貴重だったので、とりあえず電気で使えるものは電気でやろうすることができたのは、電気があったからです。津波を受けたところでライフラインが全部途絶えた場所っていうのは、本当にもっと大変だったと思うので、それを思ってみると、じゃあ今全部原発がダメだから、原発さえなくせば、世の中は全部ハッピーになるかっていうと私はイエスだとは思わないっていうのがあります。
ただひとつ思うのは、そんなに処理に困るもので、こうなったときにあんな大惨事を起こしてしまう、あんだけ怖い思いを皆にさせるものなんだとしたら、それを動かす才覚を持って欲しいと思います。その会社なり国なりに。私たちもそこでそうやってそこで生きていこうと思ったから、勉強してどう気をつけるとかっていうのを決めてきましたって話しましたよね、その原発っていうのを原子力っていうのを使って電気をつくりたいんだったら、その途方のない努力っていうのをもうちょっとするべきだと思ってます。なので今のまま原発を続けていくっていうことに対しては、イエスかノーかって言われたら、ノーですけれども、今すぐ全部なくして廃炉、それでハッピーって事ではないことなんだとはわかってます。
 また脱原発のパレードの前で、こうやってまたカエルでやるのもまた違うなって思うんで、それで放射能がなくなったり、原発が安全になったりする魔法がかかるんならしますけど、解決にはならないと思うので、それよりは「お家で娘にご飯を作る仕事の方が、私にしかできないことだと思うので」という理由でお断りをしてたんです。
 なくなればいいと思います将来的には。新しく造るべきではないと思いますけど、今あるものをじゃあ止めて、はい解決、日本は平和になりましたってことにはならないと思います。

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