2013年9月2日月曜日

「毎月11日の会」5月例会―自主避難の2年間―森松明希子さん

スピーカー 森松明希子 まるっと西日本
日時・場所 2013511日(土) 大阪市立中之島公会堂第1会議室

 3年目に入って、避難者は、被災の風化との戦いです。東日本大震災のあった東北は、ここから遠いし、実感もわかないし、報道される機会も減ってきています。3.11の日だけ報道は流れたとしても、どんどん少なくなってくる中で、それでも避難生活を続けている人達は私をはじめ、関西にはいっぱいおられます。私の個人的な避難の体験と、今に至るまでしか語れないのですが、本当に今日は、それを語れる機会を作っていただいたことに感謝申し上げたいと思います。
 家族は、福島県に夫がいまして、関西には、私と、いま現在5歳の息子そして、2歳になった娘がいます。母子3人で2年たった今も避難生活を続けています。私が避難してきたのは、ゴールデンウィークの時なので、避難生活もちょうど丸2年が経過いたしました。
震災の時から2年2ヶ月がたっています。
 まず、避難に至る経緯をお話しして、それから、この2年の事や、今の現状なんかをお話しできたら良いかな、と思います。

巨大地震-その時
 震災は、246分で、3歳の子供が、4月から入園する予定の幼稚園に行っていたので、自宅では、私と、当時生後5ヶ月の娘と二人きりでした。246分にすごい揺れがあって、私は、関西出身なので、阪神大震災を経験しています。地震とすぐにわかったのですが、すごい長い揺れで、当初、すぐに揺れは終わるだろうと思っていたのですが、その揺れはすごく長くって、すごく激しいものでした。震度6であったと思います。私の家は、福島県の郡山市というところです。原発とか、沿岸部から60キロメートルくらい内陸に入ったところで、新幹線の郡山駅のすぐ駅前の10階建ての賃貸マンションの8階です。本当にそのマンションではすごい揺れでした。生後5カ月の赤ちゃんは、あやすと笑うというくらいの月齢なんですけれども、凄く揺れたので、子供だけの命はと思い、ローテーブルの下に隠したんですね。というのが、絶対自力で動かせないような家具とか、ソファとかが、ピョンピョンとスローモーションで、居間の真ん中にいる私たちのところへ向かってくるのです。上につるしてあった電気がぐんぐん揺れているので、とにかく5カ月のこどもだけは、と思って、ローテーブルの下に入れたんです。揺れがあまりにも激しくて、娘は、新しいあやし方だと勘違いしてキャッキャッと喜んで、命が助かった今でこそ本当に笑い話にできるのですが、その時は、絶対動かないような物が迫ってきて、死ぬかと思いまして、自分も子供も、死を覚悟したんですが、揺れがとまり気がついたら、家中瓦礫の山で、全部倒れていました。赤ちゃんがいて、子供が小さいので、低い箪笥とかしかなかったんですけれども、全部落ちてきて、ごちゃごちゃの状態です。

マンションの8階で浸水?
 なんとか治まって、一時間もしないうちに、今度は、まさかと思ったのですが、マンションの8階が、水に浸かるという体験をしたんですね。水につかるという事は、マンションの8階全部が満タンになったのか、と思われるでしょうが、古いタイプのオール電化で、エコ給湯のタンクを一軒一軒が持っているような状態で、それが倒れたり、配水管が破裂して、水が、ザアーと出てくる状態でした。水がどんどん出てきて、自分のひざ下20㎝まで、上がってくるんですね。テーブルの下に置いていた赤ちゃんをまず、テーブルの上に乗せて、(5ヶ月なので)、いたのですが、水がどんどん上がってきたので、もうちょっと高いソファの上にと思っても、みるみる水に浸かるという状態でした。どんどん赤ちゃんも上に上げて行って、家財道具も、最初は、水につからないようにしていたんですけれども、追いつかなくなりました。そうこうしている間に、一時間くらいで、水がひざ下くらいまでたまってしまって、私のマンションは、上の階も下の階も、そういう状態になっていたらしいのです今度は、上の梁や、電気の穴などから、水が降ってくるんですね。それから23時間もすると、ポタポタ雨漏りとか、上からも下からも水が浸入してくるから、もう、赤ちゃんを、置いておける乾いた場所が部屋中無くなってしまったんです。それで、仕方がないので、首もすわっていない赤ちゃんをおんぶひもで結わえて、持てるだけ乾いている子供服を集めて、家の外にでるしかなくなりました。3月11日って、その日は、東北では、小雪が舞っていたりしてとても寒い日だったんです。でも家の中にいても濡れるし、濡らしたら風邪をひいちゃうので、とりあえず、いっぱいくるんで、いっぱい羽織って、階段でおりて、何枚か、車の中に子供服を運びました。

緊急時『大丈夫?』メールの功罪
 オロオロしていたら、本当に家の中には、戻れない状態で、瓦礫が、プカプカ水に浮いていて、上から水がポタポタ落ちてくる状態でした。家電製品も水に浸かっちゃって、停電もしていました。そこからニュースとかもなくって、私の情報の経路は、携帯電話一本だけだったんですけれども、私が、年賀状とかだけで福島県郡山市に住んでいると知っている関西の友達から、大きい地震があったみたいだけれども大丈夫?というメールがくるんです。それが、申し訳ないことなんですけれども、心配しての事だったんでしょうが、有難迷惑といいますか、電池がどんどんなくなっていくんですね。
 助けに来られない方の『大丈夫?』のメールは本当に有難迷惑でした。もちろんなかなか電話はつながらないんですけれども、夫や息子は幼稚園に行っているんでいつ電話がかかってくるかわからない。。家がそんな状態だったので、私もパニックをおこしていました。夫も息子も、何がおこったのかわからなくって、もしかしたらだめかも知れない。そんな時にどんどん『大丈夫?』メールはくるけど、くるメールは、「大丈夫?大丈夫?」の関西や海外からのメールばかりで、ちょっと辟易した事を覚えています。これは、是非今後の防災とかの為にも、強固に言っておこうと思っていることです。

家族の安否と再会
 次に気づいたことは息子もダメかもしれないけれど、幼稚園なので、防災とかに意識が高いので生きているかもしれないと思って、探しに行こうと思ったのが、夜の7時前でした。しかしあたりは真っ暗で、行き違いになってもいけないと思い、安全な場所を確保しなくっちゃと思いました。たまたま家の前の保育園が、私設の避難所になっており、老人とかが、赤ちゃんを背負っている私に、こんな寒空の下、雪も舞っているので、風邪をひいちゃうからと言って、ここにいらっしゃいと、助けてもらいました。ここを確保できると思ったので、マジックと、セロテープを持って、家の玄関の前に、「前の保育園にいます。」と張り紙をしました。夫がもし帰ってきたときに、それしか、連絡がとりようがありませんでした。
 携帯電話の電池が無くなってきたので、書置きをして、息子を探しに行こうと思ったのが、夜の7時くらいで、幼稚園は、歩いて15分くらいのところなんですが、たまたま、お迎えに来ない園児のために、先生方が、1軒1軒、家に送ってくれる車とちょうどすれ違ったので、そこで初めて息子と出会えたんです。息子は、ちょうど2時46分はお昼寝の時間で、揺れて目が覚めたので、震度6をそのまま体験していなかったんです。その後、4とか5とか、余震はずっと続いていたんですけど、それが地震だと思って、全然怖くないんだ、と思っていたようです。でも、震度6の時に起きてた子を持っていたお母さんが、その後夜泣きが全然おさまらなかったといっていました。うちは、本当に不幸中の幸いで、息子の命も無事だったし、寝ていたんで、後々のトラウマにならなくて良かったです。
 マンションの前の避難所にいた時、夫は、仙台へ出張予定だったんです。普通出張の時は夫が何時の新幹線に乗って仙台に行くかなんて、夜の帰りが遅いなとか、お風呂自分で入れないといけないな、とか、それくらいの思いしかないのですが、今回は新幹線だったら、倒れたりしていないかな、とか、でも情報がないので、どうしよう、しばらくはこの避難所で3人かな、とか思っていました。幸い、その時主人は勤務先から新幹線に乗ろうと、道路を歩いているところで、そのまま職場に戻って、職場の片付けやらしていたようです。たまたま、自家用車に乗っていたんで、それで、家に帰ってきたのが、3.11の深夜12時になるかならないころでした。その当日に、張り紙をみて、保育園に行きあたって、家族4人が、無事に再開できたのです。その日、命を落とされた方がいっぱいいらっしゃるので、そのことで言えば、だれも怪我もなく、助かったのは、今でもありがたい事だと思っています。本当に家族全員が会えるまでは、息子の死も覚悟しましたし、その時の自分と娘の死も覚悟しました。その後に、夫と息子に会えた時は本当に嬉しかったです。

一時避難先は夫の勤務先!子供のオムツに困った!
 次に、家が水に浸かって、戻れない状態なので、夫と、私の実家が兵庫県、関西なので、関西に脱出しよう、夜中の12時なんですけれども、車で行くことになったんです。車に乗った時に、取るものも取りあえずみんな水につかっているんですけど、それらを持って関西に行くことになったんです。ただ、関西に行く前に、夫の職場が病院なので、そこに立ち寄って、あの日は、金曜日だったので、夫としては、とりあえず、家が水に浸かって寝るところがないので、小さい子供が5カ月なので、1度私たちは、金曜日の夜走って、土曜日の夜にまた帰ってきたら良いわ、くらいに思っていたんです。その乗った車の中で、初めて2時頃から、報道というか、ラジオのニュースを聞いたんですけど、沿岸部に遺体が200から300、という報道を聞いたんです。私は、津波の事全然わからなくて、夫に2030と違うの、と聞いたら夫は、いや、200から300らしい。もっとかも。
 病院に立ち寄るにしても、同じ郡山市内でも、夫の職場が、会津の方なんですけれども、そこへ行くまでが、踏切の遮断機が全部おりっぱなしなんですね。知っている郡山市内だから、あそこが、高架になってるとかわかっていたので、迂回して、職場までいつもは30分くらいで行けるところを1時間くらいかけて行きました。道路が陥没していたり、ほうほうのていで、職場までたどり着いて、今度は、テレビを見たんですね。そしたら、気仙沼がぼんぼん燃えている姿があったんです。その横で、大津波警報が、まだ全然終わっていなくて、沿岸部が、日本海側も、太平洋側も全部津波警報で、沿岸部が通れないんだったら、内陸部しかないということで、そこで、信州でもその日の夜、震度6とかの地震がありまして、それで道路が通れないんじゃないかという話になりました。そこで、ニュースがありまして、高速道路が全部封鎖されて、緊急車両以外通れないという情報も掴んだのです。そうすると、0歳の子と3歳の子を連れて道がどうなっているかわからないし、大津波警報も出ているし、まだ大きな余震がくるかもしれない。信州でもすでに起こっているとなったら、動くのが危ないので、この病院にとどまった方が良いのではないかという判断で、700キロある距離を移動できないと思いました。それで病院にとどまることになりました。
 そこで、家がないので、1か月間住むことになっんですけれども、夫の職場であって、避難所ではないので、まず、食べ物に困りました。水道と電気はあったのですが、困ったのが赤ちゃんのおむつ。生後5カ月で、生まれたてだったんで、あまり買い物にもいけない、トイレットペーパーとか、おむつとか、買いだめをしていたんですけれど、まさか、マンションの8階が水に浸かるとは思ってもいなかったので、そういう紙製品は全部水を吸ってしまって、だめになってしまって、外出用の3枚くらいしか乾いたものがなかったんですね。これは、逃げるにしても、おむつをどうするかとなった時に、病院に聞いたら、そこは、産婦人科は閉鎖されていて無く、小児科もおむつとかありませんでした。病院も、ギリギリのところでまわっているし、スタッフもいない中でやっているのだなと思いました。とにかく、雨風がしのげる、人間ドックの人が泊まるような、あるいはナースの人が泊まれるような部屋があるよ、と言っていただき、そこにいさせて貰ったんです。おむつが入用になった時に、病院は粗品のタオルがある、ということで、それを貰って、スーパーの袋でおむつカバーを作って、布おむつを使っていたのもあるので、それをやって、水が出たので、洗い替えしながらおむつはしのいでいました。とりあえず、衛生面だけを気をつけていたら何とかなるだろうと思いました。それと、水に浸かった中から、夫が自転車で、家から、袋菓子とか、袋製品は、全部しっけてしまっていましたが、レトルトパウチの、カレーとか、レトルトのものは、真空パックなので、水にプカプカ浮いているペットボトルの飲料とか拾い集めて、リュックに詰めるだけ詰めて、又自転車で、帰ってきました。それが震災直後から1週間くらいで、本当に、家族4人分の食べ物と、それから、おむつと、病院内であるもので、サバイバルでどう生き残れるかというところを経験しました。

放射能と赤ちゃん、そして母乳
 原発が爆発したのもニュースで翌々日には知っていたのですけれども、テレビも見るんですけれども、危険と思っても逃げなくちゃと思っても、日日の、おむつどうする、ご飯どうするみたいなところで必死で、その時、政府は、枝野官房長官が忘れもしない、ただちに影響しないという事を、すごく繰り返しておっしゃっていて、それはわかるんですね、国民にパニックを起こさせないために言っているんだな、って。ただちにという事は、後々保証しないよ、といってるのも同然だけれど、でもどうしようもないし、避難所だし、動くと危険だし、じっとすることしかないし、一体これはどういう事なんだろう、と思っていました。で、最初は、避難区域って1キロ、2キロとか、10キロとか、屋外退避命令とか出まして、郡山市は、原発からは60キロ離れているんですね。遠いところで、30キロ40キロ。40キロと60キロはどう違うんだという話にもなるし、時間の問題かなと。最初の頃は、同心円状に広げられていたんで、これ、時間との闘い、逃げられるのか、高速道路も通っていない。赤ちゃんを抱えてかえって危険じゃないかという判断で、いま、雨風しのげて、一週間したら病院の前の店が時々あくとか、ちょっと流通とか、戻ってきたりしたので、そこにとどまっていました。で、逃げようとしなかったのかといわれるのですけれど、まだ福島にいて、どうなの、ここは危険なの、それでも、ただちに影響はないと、報道とかでされているので、赤ちゃんをつれてへたにパニックをおこすよりは、政府の情報を信じて避難所にとどまっていました。
 ただ、一か月いることになったのですが、東京だったと思うのですが、水から放射能物質が混じって、東京は大パニックになっていると聞きました。東京で放射能が出るのだったら、福島も出るよね、と言っていたら、案の定、遅ればせながら、郡山市には、4つ浄水場があるんですけれども、近いところから、一つ一つ出ました出ましたということになりました。私たち、避難所で動けないし、お水が配られるということもないですし、水さえ飲んでいれば、おっぱいが出るので、水をガバガバ飲んでいたんですね。もうそろそろ離乳食だったんですが、それは、のばしても死なないということはわかっていたし、二人目の子だったんでよいかと思っていました。当時3歳だった上の子の食料だけは確保して、おせんべいだけでも良いから、どこからかとってこようね、って、夫と手分けして調達し、ご飯という感じだったんですが、1カ月くらいしたときには、食べ物はあるんですけれど、母乳しか飲んでいない娘を、放射性物質が出たと言われても、おっぱいをのませないわけにもいかず、それしか彼女の生きる糧はないわけじゃないですか。悪いと分かっているんですけれど、自分が水道水を飲んで、おっぱいを娘にあげて、娘はそれしか飲んでいないので、放射性物質によってどういう影響があるかわからない。10年後か、20年後、もしも娘が何か甲状腺がんだったり白血病だったり、放射能由来の病気になったとしたら、と思うといたたまれないと言うか、私が子供を守れなかったというそういう、十字架を背負って生きて行かないといけないな、というのは、すごくあります。避難所でそれしかなかったとは言え、もっと早く逃げられた人もいるだろうし、避難所にとどまっているしかなかったので、本当に娘には、申し訳なく思っています。

福島での暮らしと放射能ストレス
 一か月の避難所生活では、息子は、閉じ込めたままだったので、ストレスも限界に来ていたので、なんとか、避難所を早く出ないと、と思っていました。福島で、家や、家財道具を全部失った私たちは、それも叶いませんでした。
 その頃現地では、「頑張ろう、東北」というのが、一色に出ていて、復興、復興なんですね。家とかをなんとか見に行こうと思っても、バスに乗っても、壊れた窓ガラスにも、紙とか、ビニールとか貼られているんですけど、全部に、復興とか、頑張ろう、東北、とかいうのが貼られていて、街は復興に進んでいるというのを感じていたんですね。だから、福島で家を失ったんだから、福島で生活を再建しなくっちゃ、という思いが本当に強かったのです。不動産屋さんに幼稚園の近くで探してもらって、壊れているから貸せないと言われたんですけど、避難所よりましですからと言って借りることにしました。私、関西出身ですから、阪神淡路を知っていて、家がなくなる、賃貸物件がなくなるというのを記憶していたので、そこで良いですからと言って、お借りしました。
 息子の入園式の日をめざして、なんとか、避難所を出て、福島での生活再建をすることにしました。やっと落ち着けると思って、避難所を出て福島でもう一度と思ったんですけれど、違和感というのか、何か不安のようなものがありました。息子を幼稚園の入園式に連れて行ったんですね。その時は、買いそろえたばかりの制服を着て行ったんですね。そしたら、園長先生から、「この制服は今日一日だけにしてください。記念で、写真をいっぱい撮っておいてくださいね。と言われ、明日からは着ないでくださいね。」と言われたんですね。それは、なぜかというと、男の子は半ズボンで、女の子は、ジャンパースカートなので、肌を露出するため、放射能の影響がどう出るかわからなので、明日からは、長ズボン、長袖で、なんなら上着も着せて、なるべく肌を出さないで園に来てください。と、幼稚園の園長先生に言われました。これから、4月、5月、6月と暖かかくなるけれども、なるべくたくさん着せて来てください。みたいな事を言われて、やっぱりそうなんだ。避難所にいた時は、自分は、必死で家とかを探すことに目を向けていたので、あまりそういうふうには思わなかったけれども、ママ友達の情報では、窓は開けない。洗濯物は外に干さない。外では遊ばない。はもう鉄則で、ニュースでも、目張りの貼り方だとか、ワイドショーでも、やっていたり、放射能から防ぐという事を一応やっていたので、やっぱりそういう生活なんだと思っていました。幼稚園も、園からだしませんと。3歳の子なので、遊びたい、走りたい盛りなのに、さんざん、避難所で缶詰状態で、園でもそんな状態なのでちょっとノイローゼ状態でした。体育館を100人くらいの園児が交代で、何時間何時間と決められて遊んでいました。
 私が一番精神的に追い詰められたのは、そういう中でストレスをためる子供たちを見ているのですが、週末になると、新しく借りたマンション、結構大きなマンションだったんですが、毎週大きなトラックが来るんですね。毎週末子供連れで引っ越しをする世帯が多かったです。お父さんは、仕事とかで残るんですが、なんとかちゃんは、実家が北海道なんで、引っ越したとか、お母さんたちがひそひそ話で、九州とか、東京とか、富山だとか、みんなつてがある人が、郡山は、転勤族が多いので、とりあえずつてがある人はみんな出て行くんですよね。人口が流出していくのが目に見えるというんでしょうか、子供をつれたお母さんたちがみんな出て行くんです。お母さんたちも休園にするか、退園にするか、そういう話題なんですね。なんかおかしいと思いながら、自分は、家財道具も揃えて、生活を再建したかったんですが、週末になると、子供がストレスをためているので、当時はまだ、高速道路が無料という支援はなかったんですけれども、ただ、滑り台や、ブランコがある、というだけで、山形とか、新潟に、車を走らせて、普通にある公園に、脱出をしていたんですね。そんなことを毎週やっていました。1000円払って、ディズニーランドとか、リゾート地に行くわけではないんですね。普通にある公園に行くために、1000円払って、全員家族で片道3時間くらいかけて、山形とか、新潟とか走らせて、1時間だけ、公園で遊ばせて、又帰ってくるという生活がすごく違和感を感じていました。これいつまで続けられるんだろう、と正直思っていました。ノイローゼになりそうでした。放射能って、匂いもないし、色もないし、目の前で、ぱったり倒れるという事もないので、見えないし、良いんじゃないかとなりそうな自分もいて、でもダメなんだよね、線量高いんだよね、という本当に自分の中で、自分が一番まっすぐたっていられないというか、ここにいることが正しいことなのかもわからなくて、すごくつらい一ヶ月でした。最初の避難所での一ヶ月は、物もなくて、しんどいと思っていましたが、それより、避難所を出た後の方が辛くて、精神的にどうしていいかわからない一ヶ月でした。

関西への母子避難-その動機は?
 それでどうして大阪に来られたかといいますと、私はたまたま、地元が関西だということで、実家が兵庫県だし、実の兄も兵庫県だし、実の妹が京都に住んでいたり、それぞれ独立して家庭を持っているんですけれど、毎週末、山形や、新潟へ言っているんですけれど、とにかく、ゴールデンウィークが10日間もあるので、夫はそんなに休めないので、僕が、10日間、親戚をジプシーのように、転々として、10日たったら又むかえに来るから、放射能は、蓄積するから、ここから離すことが良いと夫に説得されて、避難ママたちは放射能を心配されて出られているけれど、私の場合は、夫の方が意識が高くて、説得されてしぶしぶ納得して、関西に来たんですね。
 関西に来て、なぜ、避難を決められたかというと、たまたま京都の妹の家で見た、夕方のローカルニュースのトーンが、全国の経済とか政治のニュースがありますよね。その後、地方のニュースに切り替わりますよね。そのニュースの、トーンや、内容が福島と、関西では、全然違ったんです。福島は、頑張ろう東北とか、復興とか、どこの橋がなおったとか、どの道路が貫通したとか、どこの病院が、正常にちゃんとやっているとか、生活再建していますとか、それも大事なニュースなんですけれども、それ一色だったんですね。関西の方のニュースは、専門家というか、知識人というか、パネルとかだして、チェルノブイリと、福島の比較だとかをね、客観的な数字で、普通の夕方とかのニュースでやっているんですよ。ともすれば、専門家の人が、福島は、もう住むところではないんですよ、この状態からするとね。ましてや子供は、なんていう話をしていて、それが、私の中ではすぅーと入ったというか、ローカルニュースのこのトーンの違いは何かと思った時に、この1カ月の間に、福島から出て行ったお母さんが、こっそりと、私にメールをくれましてね、「一回福島から出たらわかるよ。」というメールをくれていたんです。でも、福島にいた時に、そのメールをもらっても意味がわからなかったんです。あっそうなんだあ、くらいにしか思わなくて、そんな外まで出ることなんだろうか、街は、復興だ、再建だと言っているのに、それが、どういう意味かわからなかったんですが、このローカルニュースを見て、私の中で腑に落ちた一瞬でした。あそこへ戻ってはいけないんだ、子供を育てたらいけないんだと思って、その足で、大阪に来たら、いろんな人から聞いて大阪府が住宅の支援をしているだとか、今だったら助けてもらえるということでしたので、連絡先をもらってすぐに鍵とかをもらいました。住宅の支援を受けて、母子避難をすることをその場で決めました。だから夫とよく相談して決めたわけではありません。本当に行きあたりばったりと言いますか、夫はそれで納得していました。それが、いつまでという期間がなくて、母子避難をするということを決めただけでした。

自主避難者の負担と2重生活の実態
 2年前のゴールデンウイークというのは、ちょうど、除染というものが、全国のテレビ報道にのったと思うんですけれど、除染された地域というのが、福島県の、郡山市の小学校、薫小学校というのですけれども、まさにその小学校というのが、うちの子供たちが行く隣の小学校だったのですね。つまり除染をしなければならないような小学校のそばに私たちは住んでいたんだ。やっぱり、それだと離れていたほうが良いと。確信しました。当時2年前の、最初の私の感想としては、除染という言葉が流れた時に、除染さえ終われば福島へ帰れるくらいの気持ちで来ました。だから隣の学校が除染して綺麗になったら、すぐにうちの地域も綺麗になるので8月の中頃には、帰れるかな、うちの子供は、幼稚園に上がったばかりだし、下は0歳だから、学校が遅れるということもないから、まあ、長く見て一年くらいで帰れるかな、そうすると住宅の支援も1年くらいの期限なので、ちょうど良いかな、と、その時は淡い期待を持っていたんですけれど、やれるとこまではやろうと考えていました。
 0歳と3歳をかかえて、どこまで一人でやれるか全然わからなかったんですが、始めてみた避難生活なんですけど、状況は日を追うごとに悪くなり、たとえば、除染の事でも、夏くらいに、スピーディの情報が出されていなかったことが発覚して、実は、北西部から、ぐるっと渦を巻いて、福島市とか、郡山市とか、人口の多いところにも関わらず、放射能の雲がいっぱい来ていたりだとか、同心円状じゃなかったという事実が発覚して、そこには、帰れると思っていたのが帰れないとか、最初は、除染したら帰れるかな、と思っていたのが、除染はね、小学校とか、学校だけで、通学路とかしてくれないんですよね。それは、じゃあ誰がするんだ、ということになりますよね。大阪とか、こういう街は、土が見えるところは、校庭くらいしかありませんけれども、福島とか、東北は、農村地帯だとか、田園地帯が広がる、本当にすぐそばに裏山があり、畑があり、田んぼがありなので、一晩風が吹くと土が飛ぶので、線量がすぐ下がらないんです。そういうことが、続くと、帰るに帰られない、という事実が強くなっていきました。
 そんな長い母子避難の生活の中で、強制区域は、強制的に出されるんだけれども、私たちのような周辺の人間というのは、本当に何もかも自腹なんですね。住宅の期限で帰れると思っていたのが、帰られなくなったんで、私たちは、民間の住宅に移りました。そうすると家賃が2重に発生して、それに伴う、光熱費とかも2重になるんです。さらに夫と別れて住んでいるので、夫が幼い子供たちに会いに来るのに、移動交通費も全部自分で負担しないといけないんですね。その費用が、本当にはんぱでない金額になっていて、普通の家庭が家を2軒借りて、移動交通費を捻出するというのは、無理な話で、本当に大変になってきました。でも出てくる情報は帰れない、帰ったらいけないという情報ばかりでした。しかし私たちは、3.11の夏とか、冬休みとか、春休みとか、もしかしたら帰れるかもしれないと思って、ガイガーカウンターとか友達とかが買ってプレゼントしてくれたりしたので、それを持って一時福島に帰ってみました。でも、帰って、本当に除染されたりしたところは、少し線量は下がるのですけれど、そこからちょっと離れた溝とか、子供が歩くような道の端とか、植え込みとかを測るとぽーんと数字が跳ね上がって、どこが測られているのかわからない。とても帰れない、やっぱり無理だ、ということで、1年たった頃に、やっぱり2重生活をやるしかないんだとわかりました。
 経済的な負担と、一人で、幼児2人をかかえて、母子家庭の人の気持ちがその時、初めてわかったような気がしました。本当に手が足りなくて、ちょっと見ててという夫がいないので、24時間ずっと子供を見ないといけない辛さがありました。でも放射能からは、子供を守ったんだけれども、精いっぱいの母子家庭の生活を一人で関西でやっていて、全然子供をみてやれないので、精神的に子供が不安定になりはしないかとすごく迷いました。放射能から子供は守れても、子供の精神的な安定は、守れていないのではないかという気持ちです。

母子避難者との交流会で不安も和らぐ
 本当に孤独でした。2重生活とかしないといけないときに、テレビとかのニュースで、母子避難者は結構多いですよ、とか、テレビとかには、のるんですけれども、他の母子避難者の人たちは、いったいどうやって生活をしているのか、知りたくて私は、避難者登録をしているので、役所に、他の母子避難者に、どうやったら会えますか、と聞きに行くんですけれども、それは、個人情報なので出せません、ということで、個人情報の壁が、変なところで厚い壁になり、全然会えないんですね。集合住宅にみんなで入った住居ではなかったし、自分で避難住宅からでてしまったので、さらに避難者に会えない状態がずっと続いて、本当に孤独で押しつぶされそうになりました。たまたまそんな時に、社会福祉協議会の人が、私が、避難登録をしていたので、困ったことがあったら、と言ってくださった方が、避難者交流会というのがありますよ、というチラシを一枚持ってきてくださったんです。これがきっかけでここへ行けば、避難者の人と会えるというのを知って、初めて、私は、赤ちゃんを背負っていきました。
 それは、大阪のドーンセンターでした。「故郷のことを話しませんか。」というようなタイトルであったんですけれども、そこで初めて私は、他の母子避難のお母さんと出会いました。それは、震災のあった年の9月くらいです。私は、この2重生活をやっていけるのか、不安で不安でたまらなかった時に、そこで、出会えたお母さんは3人のお子さんを一人で育てている宮城からの母子避難でした。やっぱり。津波で、家も工場も全部流されて、でもご主人や、親戚の方たちは、再建のため残られているけれど、その間、母子は避難している、という形の方でした。小学校と3歳と1歳と、うちよりちょっと大きいお子さんが3人で、私にとっては、一人で3人も育てているから、頑張っていると思っていましたが、向こうは向こうで、0歳を連れているのはすごく大変なのはわかるからと言ってくださり、お互いに、その集まりが2週間ごとにあるから、とりあえずは、そこだけを心のよりどころに、生き延びよう、とりあえず、2週間頑張ろうという感じで、避難者交流会で、他のお母さんの状況を聞いたりどうするのかを考えたりしていました。

避難の現実は100100
 彼女は、1年は母子避難生活を続けたんですが、ご主人と離れて住んでいることよりもやはり蒲鉾工場を立て直したいというんで帰りました。お孫さんと離れて住んでいるおばあちゃんとも、1年の避難者生活を許してもらっていたのでした。ただ、帰って行くときに、お子さんが小学校という事もあって、1年たった春に帰ったんですけれども、そういういろんな各家庭の家族構成や、出身元がどこかということなど、避難者は、100100通りあります。戻る人たちもいます。ちょうど1年たって、東北の人たちは、戻れる人たちは、戻ったりするんですね。逆に高線量で千葉とか、茨城の人でも、ホットスポットのことが話題になって、線量を調べたら、すごい線量だっという事で、子供をつれて、なんとか避難できる先として関西に来られているお母さんたちもいます。出てくる人もまだいるし、帰る人もまだいる、というような話を直に聞いて、自分自身も避難者ですし、一人ひとりが苦渋の決断で、避難してくるのだと思います。戻るのも、名取のお母さんも、放射能の事は心配されていたんですね。だから全然嬉しくて、ウキウキ帰れるんじゃなくて、それは、風評被害もあるし、お魚をつかう工場だけれど、蒲鉾工場だし、放射能も怖いけど、お魚は泳いでいるし、それこそ、県境で、お魚も、空気も止まったりしないのでというような、切ない話も聞きましたが、みんなそれぞれに苦悩してきていました。
 自分自身は、2重生活を出来るところまで、経済的にも、精神的にもできるところまで、だれかこの4人が壊れない限り、お金が続く限り、それをやろうという決断をしました。それは、たまたま私たちが、そういう決断を出来ただけで、それこそ、ご主人と少し離れていただけで、ご主人が音信不通になってしまって、話もできなくなって、震災離婚、2次被害というのでしょうか、そういう家庭もいっぱい見てきました。そんなことで、家族の意見が割れたりするのはしょうがないけれど、うちは、うちで、おかしな2重生活なんですね。単身赴任でもないのに、別に不仲でもないのに、お父さんとお母さんが離れて住んでいるという家族の形があるのかないのか、も知らないけども、普通で言ったら一般的ではないかもしれない。けれども、うちは、そうやろう。出来る限りそうやろう、と思っていました。

自主避難者の就労、保育の実態
 夫は現地で働いてもらって仕送りをしてもらって、でも2重生活はすごく大変なので、私も働きにでて、夫の移動交通費を捻出しようということになったんですね。一切援助とか支援がないので。それで、働きに行こうとするんですが、大阪府は就労支援はあるんですね。被災の人対象で、フェニックスという名前です。避難者用の雇用促進制度みたいな支援なんですけれども、子連れのお母さんが、働きたいと言った時に、保育所のようなところを見つけないと、働くに働けないんですよ。預け先も一緒に、ちょっと優先順位をつけてもらわないと、保育できるのは、母子家庭と同じで、私の手しかない。私は、子供を預けないと働けないので、と、いくら話しても、まず、そんな以前に、あなたは、住所は、福島県ですよね。そうすると、窓口が違うので、福島県に言ってください。避難者登録もしているんですよ、と言っても、だめなんですよ、と言われる。役所で、登録をしていても受け入れてもらえなくて。なんとか、郡山市と連絡をとって、福島県の郡山市が、大阪市にお願をしてくれる、広域入所という形がね、既存の制度があってそれには乗っけてくれたんですけれども、それも役所の人に言われたのです。「広域入所というのはね、お母さん。すごい特別な時しか使えないんですよ。例えばね。職場が県境にまたがっているとか、里帰り出産とかね。」と説明されるんですけれどね。
 「エッ。東日本大震災で、未曾有の大震災で、原発事故で、避難ということになっているのに、これほど例外的なことはないんじゃないでしょうか。」と思わず言ってしまったぐらい、お役所の人もあまりピンときていないというか、後で聞くと、危険区域内だったら、話は違ったらしいのです。区域内だと、そういう通達が出て、そういうのも全部受け入れましょう、保育所も全部受け入れましょう。結局周りの自主避難区域は、そういう扱いではなくて、例えば長期旅行者と同じ感覚で、役所の人も接していたのかと。でも広域入所という手続きを踏んで、それでも、優先順位はつかないので、待機児童で待つ間、8カ月くらいあったのですが、その間、職場の理解もあったり、大阪には、一時保育というのがあるんですけれど、それは、大阪のお母さんなら誰でも使える。それも、私は、地域の役所の人は、教えてくれなくて、地域の、子育て支援センターの方から、「大阪に住んでいたら、福島県民でも使えるはずだから、それを利用しなさい。」と教えてもらいました。一時保育というのは、週に1回ほどしか取れないんですけど。それをとった時に面接に行き、まだ預け先が、ということで、週に1回でもということで、ずっと待機児童を続けて、今年の2月にやっと保育園に入れました。それで安定的に毎日働けるようになって少し収入が出たんですけども決してその収入は、お金をためておいて、何か良い物を買うとかいうのではなくて、本当に私がたくさん稼げば、それだけ夫が新幹線に乗って会いに来れる、というそれだけの為なのです。避難にともなって、貯金とかも底をついた感じですし、その生活設計が全然出来ないんですね。

復興の現実と私のすべきこと
 でも国からとかは支援はないので、自主避難者というのはそういう生活を続けているので、経済的にも厳しいです。ただ、そういう状態であっても私は、2年たって確信を持って言えるのは、経済的には、苦しいですし、おかしな2重生活は続けていますが、福島から出られた私はまだラッキーだったと思っています。それは、私のママ友達は、みんな福島にいるんですけれども、福島が実家で、親も福島で、福島人同士が結婚している人は、それは、出たくても出られないのです。保障もなくて、何の支援もなくて、ましてや、土地勘もない、遠い関西とか、原発から身を守るためには、遠ければ遠いほど良いのですけれども、土地勘もないとこには、やっぱり出れないです。私が知っているお母さんで、福島で子育てをしていて、不安のないお母さんは一人もいません。みんなおしだまって、不安をかかえながらも、言わないでくれって。それは私が避難所を出て、一か月福島で暮らした時に、すごく感じた空気感で、知っていると言えないし、復興に水をさしているような気分になるし、足をひっぱっているようになるし、私は今もそれは思うんですね。
 郡山市は、よくテレビに映るんですね。仮設住宅が建っているんですね。その映像が映るんですね。それを見ると、大阪の人たちは、郡山市が、テレビで映っていたけれど、普通だったよね、みたいな。ぐちゃぐちゃになって住めない状態ではなくて、普通に住んでいて、機能していて、もちろん夫も働いていて、普通に社会生活は回っているようには見えるんです。でも、人口が流出して、子供を連れて逃げている社会的事実があるのに、復興しているんですみたいな映像を流すのは、子供たちが、屋外で運動会をやったとか、今年はプールに入りましたとか、でもそういうニュースばかりがながれると、遠く離れた大阪の人たちは、安心しますよね、福島復興したんだと思いますよね。でも、私は福島のお母さんたちから聞く話では、プールは同意書をとって入るんです。それに反対ですとはかけないです。子供は友達がみんな入っているのに、自分だけそれは、住んでいて出来ないよね。そうやってお母さんたちは声を上げることがだんだん出来なくなって、でも不安は持っているから、わかりあえる人には、ポロっと言ってくれたりするんですね。
 それで今、私が思う事は、そういう現実から出られた私はこのことをもっと伝えるべきなんだろうと思うんです。お知らせしても間違いではないんだろうと思ってやっと、こういうふうに機会がもらえれば、きちんと、今の現状とか、今子育てをしているお母さんの世代はどう思っているとか、声を上げられる所で、聞いてくださる方がいらっしゃったら、声をあげたいなあと思って今日も話をさせていただいている次第です。本当にありがとうございます。それが、今私が出来る、支援してくださっている方たちへの恩返しだし、それから、福島に残っているお母さんたちの代弁ではないですけれども、声を上げられないんだったら出た私が言うべきかな、と思って、言っています。

これからも福島県民であり、自主避難者として生きる
 終わりに、よく聞かれるのが、直後も2年たった今でも、今後の展望はとか、福島に戻られるのですか、どうしたいんですか、とかよく聞かれるんですけれども、実は、来た当初も今もそうなんですが、どうしたいと言えないんですね。日々、2重生活を回すのに必死で、展望とか、語れないのが、何が辛いってそれが一番つらいですね。普通の暮らしがしたいんですけれども、すでに私にとって普通が何かというのも分からない状態で、たとえば家族が一緒に住むのが普通かというと、うちはそうではないけれども、離れて住んでもう2年、なんとか家族をやってこれているので、結果論として、2年たった今乗り切っているだけであって、本当にそういう状態なんですね。だから、帰れる展望もないし、どうして行ったら良いかわからないけれども、とりあえず、子供は福島には帰さないでおこうということだけは今は確かなんですね。
 そうすると大阪で学校生活もしなくちゃいけない、そうすると、住民票も住所もどうするかという問題も出てきます。私は今、住民票の住所は福島県のままなんですね。それは、何かあった時に、国が保証してくれるとは思わないですけれども、今は、とにかく福島県民だと、医療費は、18歳まで無料なんですね。本当に癌になったりする可能性があると思っていますので、住所を動かせないなというのもありますし、あんまり信頼できないといえ、健康調査ですか、福島県がやっているということで、そこに席を置いておかないと、ただ転出してしまうと、地域外避難者は、勝手に好きで移住した人、転出した人になってしまうので、最後のよりどころじゃないですけれども、福島県民としてずっと住所はおいています。まとまりのない話ですがこれで終わりたいと思います。

<参考資料>
2013820日(火)朝日新聞朝刊
「郡山市、福島市の原発被災者、国を提訴」-支援法1年たっても具体策なし、国の不作為を告発-





 2013827日()朝日新聞朝刊  「関西の原発避難者、提訴へ」   


        → 原発賠償関西訴訟 KANSAIサポーターズ募集

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